練習
練習 〜五感を書く〜
彼が最後に微笑んだのはいつだったのか私が思い出そうとしている間、彼は今にもシェフを呼びつけそうな様子だった。
メイン料理が運ばれてくるまでのささやかな沈黙さえ、彼が酷く苛立たしく感じているのは明らかだった。
私が目の前にいる事を忘れてしまったように徹底して無言で、まるで私がいる事に気が付かないように、気をつけているみたいに。
決して話しかけたり、視線を合わせないよう細心の注意を払っていながら、焦燥に駆られて堪らない右足が床を踏み鳴らしていた。
彼が最後に、私向かって微笑んだのはいつだったかしら。
思い出す彼の笑顔は余りに多く、余りに多様で、どれか最後だったのか思いつく術が見当たらない。
もしかしたら最後かもと思うあの微笑みが、彼の心の底からの笑みだったのかも、もう分からない。
「君はいつも俺を責めているみたいだ。何も言わないだけで」
会話らしい会話はそれが最後だった。
私の返事を彼が求めていない事は明白だった。
私が何も言わないと、まるで分かりきっているかのように、彼は返事を待たずに家を出て行った。
けれど、彼は十分に私を理解している。
私は何も答える気がなかった。
何か言い返したり、そんな風に言わないでと縋ったりするつもりは毛頭なかった。
何かを口にするとしたら、彼にそんな風に言わせた事を謝る何かだと思った。
彼の背中を見つめ、苦しげな顔を瞼の裏に焼き付け、リビングの扉が閉まるのを眺めながら、玄関の扉の閉まる音を聞いていた。
孤独の香りを吸い込んで、肺いっぱいに、彼のいない空気を押し込んだ。
あの時、私はきっと尋ねるべきだったのね。
『昨日どこに居たの?』って。
彼だって私と同じ様に黙るだろう。
何処に、誰といたかと思い出して、もしかしたら青ざめるかもしれない。
そして私が彼の瞳をしっかりと見据えている間に考えるのね。
言うべき事と言わないでおくべき事を。
でも、もう分かっているのでしょう?
貴方がどんな嘘をついているか、私が全部知っているということを。
ナイフとフォークがお皿に当たってカチャカチャと鳴るのを、私たちはオーケストラを聞くみたいに、或いは聞き飽きたお説教を聞くみたいに、永遠と享受していた。
メインディッシュを過ぎれば、あとは終わりに向かって進むだけ。
「昨日」
私がそう呟くと、彼は澄んだ瞳で私を見つめ返してから、返事をしなくて良いように肉の切れ端を口に含んだ。
「帰れなくて、ごめんね。仕事、まだ忙しくて。みんなでね、朝までかかったの」
彼は肉の味を最後まで堪能してから、付け足すみたいに「そう」と言った。
嘘を言う時は、真実をひとつ混ぜると良いと広めたのは、悪い人間だと思う。
そんなこと、どうだって良いのに。
私が昨日、家にいなかったなんて、そんな瑣末な嘘を、気付いてくれなくて良かったのに。
ささやかな抵抗に気付いて欲しくて、彼を見つめて手元を疎かにした。
「何?」と不愉快そうに聞く彼の背後に、『どうしたの?』とにこやかに尋ねる彼が見えるから憎めない。
「早く食べなよ」と言う彼の前に、『ゆっくりで良いよ』と労う彼がいるから嫌いになれない。
「君の為に予約したディナーなのに、お気に召さなかったみたいで残念だよ」
そう言って、彼はため息を吐いた。
嘘を言う時は、真実をひとつ混ぜると良いと広めたのは、悪い人間だと思う。
2023/2/28
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