第五章

「お腹空かない?」

 時刻は12時を少し過ぎている。ちょうどお昼の時間だ。

「はい。少し。」

 少年は、まだ頰を伝う涙を拭いながら、そう言った。

「カップヌードルで良ければあるけど、食べる?」

 今まで食べ物を出してもらったことはなかった。カップヌードルという簡単なものではあるけれど、泣き止まない少年への優しさなのだろう。

「食べたいです。」

 少年は素直だ。食べ物を貰えると脳が認識した瞬間、お腹が鳴った。雷のように力強い音に少年は笑う。

 青年は手際良く準備をする。やはり慣れているのだろう。常にお湯は沸かしてあったようだ。一人で食べるつもりだったのか。少年が帰った後に。

「わざわざありがとうございます。」

 カップヌードルを前にして、お礼を言う。「いや、むしろこんなものしかなくてごめんね。」

 首を横に振る。母はこのような食事を好まないので、カップヌードルは滅多に食べられない。そう言った意味でも嬉しかった。

「カップヌードルとか久しぶりだ。」

 少年は独り言のように呟く。

 この人は毎日このような食事で満足しているのだろうか。だとしたら、彼の健康状態が心配だ。余計なお世話なのだろうけど。

「家では食べないの?」

「あんまり。」

 青年は笑顔を作った。

「良いお母さんなんだ。」

 そうなのかもしれない。お母さんは、僕の健康を気遣って、食べさせないようにしてくれているのだろうけど、たまには食べさせてほしい。

「大切にしなきゃだからね。」

 驚いて顔を上げてみたけれど、青年は俯いていた。目を合わせることを拒むようだった。

「はい。」

 かろうじてそう返事したが、教師のようなことを言われ驚愕した。名言らしいことを言うような人ではない。何気ない一言なのかもしれないけれど、衝撃だった。

「もうすぐ学校始まる?」

「いや、そんなこともなくて。まだ2週間近く残ってます。」

 大人というのは子供と話すと、すぐに学校の話題を持ち出す。大人同士の『最近の仕事はどう?』というセリフの代わりなのだろう。

「たくさん夏休みあっていいな。」

「夏休み、あまりないんですか?」

 青年は考えるように下を向く。

「いや、意外とあるかも。君との同じくらいは。」

 青年は笑った。少しわざとらしくて怖かった。

「そうなんですね。」

 会社員は会社員でも意外と夏休みを貰えるのか。両親は、僕の長期休み中でも、忙しく働いていたので、あまり休めるイメージがなかった。大人になったら平日はほぼ年中無休で働くものだと考えていた。

「早く大人になりたい?それともまだ子供いたい?」

 難しい質問を投げかけられる。一生懸命にメリットとデメリットを考える。

「早く大人になりたいかもしれないです。」

 恐る恐るそう言った。

「それはなんで?」

 青年は包容感のある声で問いかける。

「一番はやっぱり、お母さんに迷惑をかけたくないってことです。」

 模範すぎる回答に青年は驚く。口先だけだとしても素晴らしい息子だと思う。

「早くお金を稼げるようになりたい。」

 青年が眉を顰めたので

「正当な方法で。」

 と後付けする。

 これには反応に困るのか、彼は鼻で笑った。

「そりゃあ頑張らないと。」

 この人には言われたくないけれど、事実だ。一人前になるには、まだまだ時間がかかると思う。

「あと、単純に一人暮らしとかにも憧れがあるので。」

 自分が思うままの生活をしてみたい。

「そうなんだ。」

 興味なさそうな言い方だった。なんだか落ち込む。

「好きなものも買えるし。」

 憧憬を語る。夢のある話だと思う。

「意外とそうでもないけどね。」

「そうなんですか?」

「まあ、人によるけど。」

 なんだかがっかりとする。だって、彼はあまり楽しくなさそうだったから。僕が思い描いていた大人の姿とは程遠いのだと教えられているようだった。

「好きなことをやってれば、何でも楽しいから。無理だけはしないで。」

 青年は、そう結論づけた。それ以上、何も話すことができなかった。終わりを括られたようだったから。

「ご馳走様でした。」

 手を揃えてそう言った。誰もいなくても、癖でこう言うようになった。悪いことではないはずだ。

 青年は橋と容器を片付けながら、少年に声をかける。

「早速で申し訳ないんだけど、次の仕事頼んでいい?」

 まただ。終わりが見えない。

「ちなみに、あと何回続く予定ですか?」

 抵抗するのは諦めた。まだ夏休み期間も残っているし、しばらくは続けられるだろう。

「夏休み後は厳しいから、これがラストになると思う。」

 胸を撫で下ろす。自分が、続けたいのか否かも知り得ない。意思というものをどこかに置いてきてしまったようだ。

「わかりました。」

 声色が良かったのを気づかれたのか、チラリとこちらをみられる。

「それで何をすれば?」

 今回は、ちゃんとした仕事が与えられるといい。いつも微妙なものばかりだから。

「君に絵を描いてほしい。」

「え?」

 驚きの『え?』と絵画の『絵』を掛けたつもりはなかったのだが、自分でも笑ってしまう。青年も苦笑していた。

「絵。描ける?」

 絵かぁ。描けないこともないけれど、あまり得意じゃない。美術の成績は、特に目立つ方じゃない。1から5の中だと3くらいだ。良くも悪くもない。

「あまり得意じゃないですけど。」

 謙虚にそう言う。ちょっと身を引く。

「まあそれくらいが味があってちょうど良いか。」

 青年は妙に納得そうな表情を見せる。

 そして、少年を置いて棚の方へ行く。何やら探しているようだった。

「やっぱりないか。」

 何を探しているのだろうか。

「ちょっと買ってくるからここで待ってて。」

「え、ちょっと。」

 それって、僕はここで待機しているということだろう。他人の家に一人いるのは、落ち着かない。

「いいよ、見られて困るものないから。」

 そうゆう問題じゃない。それに、流れで頷いたしまったけど、何も見ようとはしていない。

「人も来ないはずだから。」

 それは少し安心だけど。

「それじゃあ行ってくる。」

 そうして少年は一人取り残された。何をしていればいいのだろう。

 素直に本を読んで待っているか。それとも、この部屋を少し探ってみるか。

「見られて困るものはないと言っていたし。」

 そう自分を説得させる。辺りを見渡す。大して何もないけれど、気になる。

 玄関へ足を運ぶ。靴棚は無いようで、靴は僕の一足しか置かれていない。彼は、今履いて行った一足しか所有していないのだろう。一歩足を進ませると、一つ部屋がある。初めてドアを開いてみた。布団が敷いてある。ここで就寝しているのだろう。枕元には数冊の本と小さなライトがあった。その部屋には、他に洋服棚らしきものがある。流石に、その中身を覗くのには気が引けた。ドアを閉じて、その部屋を後にする。次は以前にも使用させていただいたことがあるお手洗い。整頓されていて無駄なものがない。

 短い廊下の先にはリビングがある。やはりものが少ない。キッチンも隣接されていて、便利そうだ。その先の洗面台には、爪切りや綿棒、歯ブラシなど日常用品がある。逆に言うとそれしかない。あとはワックスや髭剃りなんかが置かれているだけだ。

 もう一度リビングに戻る。目に見えるものは全て見た。あとは、棚の中身だとか、見渡すだけじゃ視界に入らないものくらいだ。そう認識した瞬間、棚の中を覗いてみたくなった。理性が止めようとするが、その衝動には勝てず、葛藤の末、結局棚を開く。先ほど青年が探っていた棚だ。実は、そのときに気になることがあった。何かを隠すような素振りを見せたのだ。あれは明らかに不自然だった。わざとらしくもあった。それが気になって仕方がなかったのだ。またとない彼が不在のチャンスを無駄にしたくない気持ちもあった。

 棚はギィーと音を鳴らす。だいぶ古いものなのだろうか。一段目には特に気になるものは入っていなかった。いくつかの文房具が収容してある。高そうなシャーペンやボールペンだ。僕には到底買えそうにない。

 問題は二段目だ。先ほどは、一度二段目を引き、焦るように閉じてから、一段目を開いた。深呼吸をしてから、開く。そこには予想外のものがあった。しかし、怪しくはない。何枚もの布が折り重なっている。ふかふかに敷き詰められている。不自然だった。何に使うのだろう。気になって手を突っ込む。すると、硬い箱のようなものの存在に気がついた。恐る恐る布をかき分けると、和紙に包まれた高級そうな箱が姿を現した。明らかに怪しさが漂っている。それを下に下ろす。

 簡単に開くわけにはいかない。もちろん、玉手箱的なものを想像しているわけではないが、あの人のことだから、何か危険物が収められているのかもしれない。

 深く呼吸をしてから、手を箱に置く。勢いでパカっと開ける。

「なにこれ。」

 思わず後ろに転がり尻餅をつく。

 そうなるのも笑える話ではない。だって、ジップロックに入った血液付きの刃物が収納されていたのだから。もう一度中身を確認する。しかし、この視界が正しければ、認識したものに間違いはない。

 鼻がむずむずと痒くなりくしゃみが出る。戦慄し、全身に鳥肌が立つ。こんなの、創作の世界でしか見たことがない。どうしていいのかわからず、しばらく呆然と視界を泳がせる。思考は纏まらず、頭の中では、ぐるぐると何かが駆け巡る。鼓動は当然走り出す。そこまで急がなくてもいいのにと声を掛けたくなるくらい。寿命が縮まるんじゃないかと心配するほどに、バクバクと音を鳴らす。万引きを目撃されたと知った瞬間を思い出す。そのときと同じ鼓動の速さだ。

「何してるの?」

 間抜けな声と共に振り向く。息を呑む。自然と顔が歪む。逆光のせいで、顔は暗く照らされ、それが不気味さを増させている。後退りをして距離を取る。

 青年はしゃがみ、目線を合わせる。表情、一つ一つを観察するように、目を見開く。

 そして、わかりやすく刃物に目を向けた。

「それね。」

 青年は、箱ごと持ち上げると、もう一度立ち上がる。ジロジロと眺めながら、口を開く。

「この間、出掛けて帰ってきたら、書斎の上に鎮座していたんだ。僕も君と同じ反応をした。あ、ごめん。防犯カメラで君がここ探ってたの全部見てたから。」

 ヒヤリと汗をかく。全部監視されていたとは。いや、今はそんなことどうでもいい。この人が何者なのかそれを知りたい。

「確かに、その日は鍵をたまたま開けっぱなしで出掛けていた。鍵がすぐに見当たらなくて、コンビニ程度の距離だから、開けっぱなしで出掛けたんだ。きっとその間に誰かが不法侵入してこれを置いて行った。明らかに悪意がある。でも、この家の存在を知っているのは、君しかいない。」

 少年は、鋭い目つきでこちらを向く。刺されたような衝撃が走る。爆速の鼓動は収まるどころか速さを増す。

「君を疑ってしまうのも無理がないから、許してほしい。」

 その言い方だと、今は容疑をかけられていないようだ。

「わざと留守番させて、部屋を探索させた。案の定、ここに引っかかって、僕の予想通りの行動を見せた。」

 何から何まで監視されていたと思うと恥ずかしい。しかし、今は恥なんてかいている場合じゃない。

「あの反応は演技には見えなかった。とても自然だった。君は犯人じゃないと思う。」

 明らかのこの人のペースに呑み込まれている。

 自分なりに状況を整理する。この人の自宅から、怪しげな刃物が見つかった。それが僕がこの目で見た事実だ。それ以外は、あくまで彼が主張するだけのストーリーだ。何も信憑性がない。

「ちょっと待ってください。確かに僕は犯人じゃないです。でも、犯人とかの前に、その話だって作り話である可能性がありますよね。今の全部、たった今作られた話じゃないんですか?」

 まんまと騙される馬鹿らしい人間にはなりたくない。

「前だったら、そんなところ引っ掛からなかったのにね。」

 青年は皮肉そうに言う。確かに、物事の捉え方というものが、青年と出会い、変化していったかもしれない。

「君の視点から考えれば、僕は殺人犯で証拠隠滅のためにこの刃物を保管している。それが一番単純な理由だろう。そのことはちゃんと理解している。」

 その通りだった。自分の口から説明するには、言葉一つ一つが重すぎたから、代わりに代弁してくれて助かった。

「別に、信じてくれなくてもいいけど、僕は、さっき話した内容を主張する。」

 今までにない真剣さだった。落ち着いた声に余計に焦る。この人とはいくら戦ったって勝てないと感じさせるようなそんな大人びた声だ。

「だから、変に通報とかしない方がいい。」

 通報する気はなかったが、改めてそう言われると背筋が凍る。彼の眼光は黒光を放ち、少年は呑み込まれたように息が止まる。

「それに、脅すつもりはないけれど、こっちは君の万引きを目撃し撮影している。」

 胸が締め付けられる。万引きという言葉を聞くだけで、身が縮む。体が言葉を拒否している。肺の口が狭くなる。

 彼にはやはり従うしかない。どう抗っても敵わない。その前に一つ感じたことがある。これを脅迫というのではないだろうか。脅すつもりありまくりじゃないか。逆に、これが脅迫じゃないのなら、他に何があると言うのだろう。これだけは主張させてほしい。

「わかりました。最初っから通報するつもりはありませんでしたけど。僕には、あなたを信用する以外の道はないということがわかりました。」

 力の差を改めて実感する。何の差なのかいまいちわからないけど、天と地ほどの差があると感じた。生きた年数の差なのか、経験の差なのか。

「それじゃあ、本題に戻るけど、紙とペン買ってきたから、絵描いてくれる?」

 いきなりすぎて、反応が隠れた。かろうじて返事をする。

 青年は、刃物を丁寧に棚にしまう。その様子が非日常的なのに対し、動作は自然で、やはり何か疑いを込めた目で見てしまう。

 だから、完全に信じたとは言い難い。でも、恐れる必要はないのだと直感的に感じた。これも何か惑わされているだけなのかもしれないけれど。しかし、合間合間に見せる心からの哀の表情を考慮すると、到底殺人をするような人には見えなかった。これも何かの罠なのだろうか。もうすでに洗脳されかけているのだろうか。

「どんな絵を描けばいいんですか?」

 お題がないと難しい。そもそも僕はアーティスティックの片鱗さえも持ち合わせていない。一般的な子供だ。どこにでもいるような平凡な中学生だ。

「直感で、感じたことを描いてほしい。上手くある必要はない。欲を言えば、人を惹きつけるようなそんな絵が良い。」

「人を惹きつける?」

 思わず聞き返す。展示会にでも提出されるのだろうか。人に見せるものだとは想定していなかった。

「残酷さを感じる絵とか。」

 徐々に注文が増えていく。

「残酷さ。」

 言葉を繰り返す。難しい題だ。どう描けばいい。

「まあいいや。君の今の気持ちを素直に描いてほしい。」

 それが一番な難題だ。自分の気持ちを見つめるという地道な作業からスタートしなければいけない。

「先に言っておくけど、君の絵は今回の件において、大した重役ではない。だから、肩の力を抜いて描いて。」

 嬉しいような悲しいような。とりあえず、頷いてみる。

「それじゃあ、できたら教えて。」

 そう言うと、青年は自分の書斎に向かった。

 少年は、画用紙を地面に貼り付けると、クレヨンを取り出す。やはり机がないのは不便だ。絵を描くことなんて滅多にないのだろうけど。

 クレヨンで描くというのは久しぶりだ。いつぶりだろうか。随分と幼稚な道具だ。彼は、僕を小学生だと勘違いしているのではないかと思う。それくらいが発想力の豊かさ的にも同情を得るという意味でも最適だと考える。中学生なんて一番微妙じゃないか。その子供と大人との間で葛藤している部分が良いと言われたら、何も返せないが。

 クレヨンを画用紙に滑らす。床に直接描いているような感覚だ。彼は画用紙を数枚購入してくれた。何回かは失敗が許されている。でも、こうゆうのは後先を考えずに、率直な思いで描いた方が良い。ラスト一枚だと思い、真剣に向き合う。

 今の気持ちか。一言で表すのなら葛藤だった。いくつもの悩みが積み重なる。

 このまま、この人について行っても良いのだろうか。もう少し遊んでみても良いのだろうか。

 お父さんを許すべきなのだろうか。それとも、許してはいけないのだろうか。

 僕は、将来何をすべきなのだろうか。

 つまり、僕は未来の行動について葛藤を抱えている。過去よりかは希望があってマシだと思う。

 中学生というのは、悩みの時期だと聞いたことがある。これをテーマに描くのも面白いかもしれない。

 真ん中に人間のシルエットを真っ黒で描く。それは僕だった。

 そして、画用紙は大きく二つに分かれる。右側はオレンジ色の空が広がり、左側はどんよりとした灰色の空が広がる。

 その空は真っ二つに途切れているようにも見えた。しかし、悩みというのは、はっきりしたものではない。歪んでいる。その歪みを表現するべく、絵の具を混ぜて中間色を作る。そして、二つの空を結ぶべく塗りたくる。

 そして雨を降らせる。青色である必要はない。何色も使った。ところどころ、色が汚く濁ったけれど、それも一つの味だと鼓舞する。

 やがて、雷も生まれ、空は騒がしくなる。稲光が差し、悲惨さを感じる。最後の雷を描き切ると、それ以上、筆を足すことはできなくなった。何かが完成したのだろう。

 最終的に空は虹色になった。意図していなかっけれど、虹と捉えることもできる。悩みに悩んだ結果、虹が生まれた。案外、素敵な作品に仕上がった。

「結構いい感じ。」

 青年は、上からその絵を眺めると、そう褒めてくれた。

「期待以上。」

 言い方的に、期待はしていなかったみたいだ。まあ僕に突出した才能があるわけでもないのだから、当然か。

「それならよかったです。」

 決まり文句を言う。実は、意外と上手くいったと自負している。でも、ここで調子に乗ってしまったらだめだ。まぐれなのだ、これはきっと。

「でも、これをどうするんですか?」

 絵は描けた。しかし、たった一枚の絵で何ができるというのか。

「一言で言えば、それを売る。」

「え?売る?」

「売る。」

 少年は口をぽかんと開けたままだ。自分の絵を販売した経験なんて、当然だけどあるはずがない。青年はその様子を見て、いじわるそうに笑いながら続ける。

「今回の報酬は、君の絵を販売したことによる利益。」

 青年はさらに重圧を加える。少年は耐えられないというかのように頭を抱える。

「そんな。それだったら描く前に言ってくださいよ。」

 少年は口を尖らした。不満なようだ。

「販売すると思って描くのと、ありのままの気持ちを描くのじゃ、出来が天と地の差だ。」

 それは説得力があった。確かにその通りかもしれないと思った。寸法などを意識し始めてしまう気がする。売るとわかっていたら。

「それは確かにそうですけど。でも、ただ売るだけじゃ売れないですよね。」

 しかも、それだとただの商売になってしまう。なんて、ただの商売に違和感を感じる自分はいよいよおかしくなってしまったのか。

「売れない。」

 青年は笑顔でそう言った。

 わかってことだけれど、改めてキッパリと断言されると少し落ち込む。これでも頑張って描いたのだ。できるだけのことはやった。

「君の絵自体の価値で勝負するなら、せいぜい稼げて1000円程度。それでも良い方。」

 ちょっと流石に言い過ぎじゃないか?遠回しに僕の絵には1000円の価値しかないと言っているようだ。いや、良い方なのかもしれないけれど。

 しかも、平然とした顔で爆弾を吐く。

 少年は睨みつけてみるが、効果はないようだ。

「だから、君の絵自体より、お金を出して購入する方に焦点を取る。」

 どうゆうことだろう。少年は首を傾げた。この人はいつも結論を後回しにする。そうゆう演出なのかもしれない。

「まあ、まずはいつも通り、慈善団体という設定にする。」

 またか。その言葉に少年も弱かった。つい気になったことを聞いてみる。

「慈善団体に恨みでもあるんですか?」

「ないよ。使えるだけ。」

 清々しいくらいに最低だった。予想はしていたけれど。

 即答されると反応に困る。

「君にキャッチコピーをつける。捨てられた少年とか?」

 青年はそう言ってニヤリと笑った。

 僕は捨てられた少年ではないのだけれど。

「別に捨てられてないです。」

 きっぱりと否定をする。そんな嘘のキャッチコピーは嫌だ。

「あながち間違っていないでしょ?」

 まるで言葉は捉えようだというみたいだ。

「言葉の自由な解釈は受け取った側と特権だから。」

 少年が考えた通りだった。教科書に載っていそうな言葉だ。

「でも、良い代替案があるならそれでも文句はないけど。」

 代替案。一生懸命に頭を悩ます。自分の悲劇を表現するようなキャッチコピーを考えるというのは、恥でしかなかった。

「はい時間切れ。」

 青年は真顔で言い放つ。その顔にムッとする。

「まあとりあえず、これは仮でいいから。また良いのがあったら教えて。」

 仕方なく頷く。そんなものを考える時間があるなら勉強をすべきだとは思う。

「これで、ある程度、購入しても良い気になるだろう。悪い気はしない。だけど、自分が買わなくても良いとは考えるだろう。」

 絵は複数枚あるわけではない。一枚だ。それだったら、購入するのも面倒だ。色々と厄介になると予想する。

「だから、頑張って説得してもらう。」

 説得させる、ではなく、説得してもらう。ここにヒントが隠されていそうだ。

「題して爆弾ゲーム。」

 青年は声を張り、笑顔でそう言った。恐怖を感じるくらいの満面の笑みだった。

「爆弾ゲーム?」

 聞き返す。簡単に理解できそうにない。

「やったことある?」

 爆弾ゲーム。どこかで名前を聞いたことがある。あれはもっと子供の時だった。幼稚園児の頃だろうか。

「昔やったかもしれないです。何かものを回して、音楽が止まったところで待っていた人がアウト、というゲームですか?」

 爆弾ゲームと聞いて、思い浮かぶのはそのゲームだけだ。きっと彼が指すのはこれだろう。

「そう。やっぱりやったことあるんだ。」

 青年の高らかな声が鼻につく。わざとらしい。楽しませようとしているのか。これは彼にとってのエンターテイメントなのか?

「今回のはそれと同じ。」

 爆弾ゲームと同じ。何かを回すのだろうか。でも、一体どうやって?

「仕組みから説明する。『捨てられた少年の絵、いくらで買いますか?』とかいう題のサイトを作る。そこまではインスタのDMでも、公式ラインを作るでも、どうにかして誘導させればいい。」

 タイトル案が妙に上手い。本当に存在していそうだ。

「そのページに飛ぶと、君の絵が表示される。そして、金額を入力して送信し、あるボタンをクリックするだけで、送金できる。その後、今まで査定された金額が足されて表示される。すでに二人が100円だと査定し、自分は120円だと査定したなら、100+100+120で320円。その金額は、参加者が増加すればするほど、増えていく。言わばオークションのような形だ。」

 オークションか。その仕組みはよく出来ていると思う。

 青年の瞳は至って真剣だった。ある企業にプレゼンをしているように。

「それでは終わらない。金額の下に注意書きがある。『あなたの更新後、一時間以内に入札がなかった場合、全額支払っていただくことになります。』」

「それは詐欺じゃないですか。」

 少年は即座に反発する。反射神経が養われてきた気がする。

「事前に伝えてなかったのなら確かに詐欺。でも、査定前に利用者規約として長々とした規約を表示する。その一部に今の一文が混在していてもほとんどの人は気がつかない。だけど、事前に忠告しているから詐欺にはならない。」

 間違ったことは言っていない。ごもっともだ。しかし、何か腑に落ちない。慈善という言葉を悪用しているからだろうか。

 一応頷いておく。深々と。

 しかし、全額請求されるのならオークションとは少し違う気がする。例えば120だと査定したのに、今までの合計金額が請求される。120円で購入すると出したつもりなのに、320円出せることになっているのだから。

「そうしたらどうなると思う?」

「どうなるって。一生懸命、周りに勧めるんじゃないですか?」

 青年は大きく頷いた。明らかなオーバーリアクションだ。

「勝手にプレゼンターになってくれる。だって誰かが送金して更新してくれなければ、自分が全額支払わなければいけない。そうして、勝手に広めてくれる。2倍3倍と。」

 彼は、悪い顔だった。口角が自然と釣り上がっている。その様子を細目で哀れに思いながら眺める。

「でも、最後に送金した人をどうやって探すんですか?」

 アカウントを登録させるのだろうか。それは手間をかけてしまう。寄付を躊躇われてしまうかもしれない。

「別にその仕組みは見かけだけのものだ。実際に払わせなくてもいい。払わせること自体に価値があるのではなく、仕組み自体に価値がある。」

 まるで脇腹をついたような方法。日常の隙間に入り込んでいくようだ。脇を突かれる。

「それにプラスで、金額の更新頻度を遅らせれば、更に焦って広がりが増す。」

 もはや、呆れるどころか感心してしまう。大衆をおもちゃのように扱う。誰もが認める悪役なんてレッテルを無意識に貼ってしまいそうだ。

「寄付ならやってもいいかなという気になる。それに、どうせ同じ金額を寄付するのなら、大勢の人が参加し、総合金額が跳ね上がる前に送金しておいた方がいい。そう思うだろう。」

 いつも通りだ。人の弱いところに漬け込んで、良い方向にアドバイスをするように見せかけて地獄に堕とす。

 自分がターゲットにされないことだけが救いだ。この場所にいれば、少なくとも自分は安全だ。なんて自己中心的な考えをしてしまうのも許してほしい。

「これが最後のプロジェクトなんですよね。」

 確認のために聞いてみる。

「そのつもりだけど、まだ続けたい?」

「いや別に。」

 反射的に否定をする。自分の気持ちを明らかにさせたくなかった。露わにさせてしまったらいけないような気がした。答えが思わしくない場合だったらどうしよう。そう思ってしまう。

 青年は感じていた。少年はおそらく揺らいでいる。万人向けの言い方をすれば善悪の間で彷徨っている。しかし、青年からすれば、些細な選択だった。善悪だなんて人からの評価だ。他人からの評価にいちいち目を向ける必要はない。善悪の基準は不変なものではない。時代によって、環境によって、人によって、変わるものだ。それをいちいち気にしていたら、まともに生きていけない。

「自由研究の一環だと思って手伝っているので、夏休み中限定でお願いします。」

 これは自分を納得させるためだけの言い訳だった。自由研究なら、ちょっと悪いことに手を出してしまっても良いんじゃないかと。

「自由研究?何かにまとめるの?」

「その予定はないですけど。」

 青年は、後付けの理由だと確信した。人間らしくて可愛らしい。

「サイトのタイトルこれでいい?」

『名もなきアーティスト。少年が描いた絵、いくらで買えますか?』

『1円から参加可能。ボタンをクリックするだけ。』

 やっぱり人を惹くものを作る才能があると思う。クリエイティブだ。

「問題ないと思います。」

 僕がアドバイスをしたところで、改善してくれるのだろうか。話を聞いてそれで終わりな気がする。この人は僕の力を必要としていないと常々感じる。それならば、この人にとって僕の価値は何にあるのだろう。

 そして、この短時間で作成できるあたり、事前に用意していたのだろう。

『あなたの送金後、一時間更新がなかった場合、全額支払っていただきます。友人に下のボタンを押して共有しましょう。』

 そうちゃっかり書いてある。送金後の画面だろうか。

 こんなのを後から知ったら、気が気じゃないだろう。世界の終わりのように感じるのだろうか。金額によっては。

 今まで仲間だと思っていた友人は、途端に敵になる。どうにかして更新してもらえないかと、半ば強制的に寄付させるのだろう。人間関係は当然のように壊れる。

「地域ごとにサイトを作るっていうのはどう?一つのサイトだと、金額が急速に跳ね上がる。それによって断念されるかもしれない。それだけじゃない。何か通報されたりしてbanされてしまったら、それで終わりだ。アクセス数も分散されるから、繋がりやすくなる。」

 当然のように頷いた。メリットばかりだ。まあ僕に選択権はないのだろうけど。

「どれくらい貯まると思う?」

 天井を見上げて、思考を巡らすことに集中する。数が膨大すぎて、自然と考えることを拒んでしまう。

「未知ですね。どれくらい広がるのか。」

 経験が浅いのもあって想像がつかない。

「楽しみ?」

 その問いかけに頭を悩ます。

 楽しみ。簡単な言葉なのに、だからこそ、難しい。その四文字を幾度も脳内で再生する。楽しさの定義すらも忘れてしまった。

 そして答えを絞り出す。

「内容は何であれ、未知なものに対して結果を予想するという過程は、実験のようで楽しいです。内容は関係なしに、ある意味のギャンブルみたいで胸が躍るというのはあります。」

 詐欺に対する娯楽を頑なに認めない。そこは譲ることができない。口から出る言葉というのは案外大切なものだ。裁判なんかではさらに価値が増す。一つの言葉でその後の人生を左右したりされたりする。

「宝くじみたいな?」

「そんな感じです。」

 ちゃんと伝達できたみたいだ。僕が考えたことをそのまま包装して受け取ってもらえた。一安心だ。

「良い答えを見つけたね。」

 切り離されたような言い方だった。僕の思考は全てお見通しだと、そう言われているようで腹が立つ。僕は、この人が操作する人形劇の登場人物の一人なのだろうか。この人の想像の範囲内であーだこーだ言っているのだろうか。檻の中で飼われているようで、良い気がしない。

「ところで、いくらからスタートする?」

「ゼロじゃないんですか?」

 てっきり、ゼロ円からスタートして金額が増されていくものかと思っていた。

「誰も寄付していなかったら、怪しまれる。一番だからといって優越感を感じるわけでもないだろうし。誰も寄付していないサイトより、たくさんの人がすでに参加している寄付サイトの方に、大事な大事なお金を渡すだろう。」

 確かにその通りだ。単純に慈善の寄付サイトではないのだから、説明書通りのサイトを作らなくても良い。

 何か教科書通りのものを作ろうとしてしまうのは、まだ僕は正しい人なのだろうか。それとも発想力に欠けているからなのか。

「10000くらいが妥当かな。」

 自己完結している。やはり自分はこの場に不要だ。未だに存在意義がわかっていない。居てもいなくても同じだろう。

「ねぇ、君だったら、いくらくらい寄付する?」

 さっきから、僕はこの人の話し相手なのだろうか。それ以外の役目はないみたいだ。

「今の僕には寄付なんてしている余裕なんてないです。でも、もう少し金銭的に余裕があれば、500円くらい?」

 500円でも安いと感じてしまう。

「思ってみれば、実際のコインとキャッシュレスのお金とでは、金銭感覚がずれている気がします。今の500円だって、画面上に500という文字だけ表示されていれば、安いものですけど、実際の500円玉を寄付箱に入れるというのは、結構躊躇いがある気がします。」

 500円玉には重みがある。その重みが価値の重さに直結しているというと過言だけど、無関係ではないだろう。

「確かにそうかも。そうゆう発見は自由研究にできそうだけど。」

 自由研究のことなんてさっさと忘れてくれていいのに。何度も掘り返さなくて良い。

 青年は、話を聞きながら作業を進める。やっぱり器用だ。求人サイトに登録したら、一分後には仕事が見つかるだろう。

「でも、金額なんて寄付には関係ないんでしょうね。一円でも百円でも気持ちが大切なのだと誰かが言っていました。」

 価値は変わらないと。そのときは納得できなかった。だって、明らかに価値は違う。

「それは、寄付をするかしないかの気持ちに重点を置いたときの話。でも、厳密に考えれば、実際の価値は二つの間で異なる。」

 それは知っている。ただの綺麗事だと片付けられたような気がした。

「でも、寄付したという事実は金額によって変動するものじゃないし、自己肯定感もさほど変わらないだろう。変わったとしても、寄付するか見捨てるかの差よりは小さいはず。だから、他人貢献のレッテルが欲しいのなら、金額は確かに関係ない。」

 何か違う。僕が言いたいのはそんなことじゃない。僕にこの話をしてくれた誰かは、たとえ余裕がなくて、困窮している人に直接的に手を差し伸べてあげられなくても、その方たちのことを思って行動するだけで、貢献していることになる、みたいなことを伝えたかったのだろう。

 一字一句同じ言葉でも、その人の考え方や経験によって意味が変わってしまうのか。

「あなたらしい考え方ですね。」

 少し皮肉を込めて言ったつもりだ。伝わっただろうか。この人は意外と繊細だから、耳に沁みただろう。

「それはどうも。」

 こらは冗談なのか本気なのか。関係が揺らいできたのを肌で感じる。最初からベストマッチ的な関係ではなかった。僕がなんとなく合わせていたから、付属品のように扱われていたから、上手くいっていただけなのだ。ときどき、気まずくなるのは、僕が本心から言葉を選ぶようになったからだろう。

「それじゃあ後はやっとくから。」

 もうすでに時刻は五時を指している。

「後それと、しばらく帰るから、次は3日後くらいに来て。」

「帰る?」

 ここは彼の家ではないのだろうか。

「あぁ実家。」

 なるほど。何か急用でもできたのだろうか。疑問に思ったが、何か触れてはいけない空気を感じたので口を閉じる。代わりにこんなことを聞く。

「どこ出身なんですか?」

「えっと、愛知。」

 勝手に口が言った。危なかった。今の間だったら疑われないだろう。やはり五十音順で一番最初の都道府県だから、だろうか。

 どうか愛知に詳しくありませんように。マイナーなことは知らない。

「愛知か。行ったことないです。」

 よかった。胸を撫で下ろす。

「あんまり何もないよ。」

 だいぶ失礼なことを言う。有名施設などを問われないように先に保険をかけておいただけだけど。

「それじゃあ。」

 半ば無理やり追い出した。


 それから、少年の平穏な日々が続いた。

 平穏。字の通り穏やかで平らだった。感情の起伏がない。凸凹道がない。確かに平和だったけれど、つまらなかった。こんな形であの人の存在価値について気がつくになるとは思わなかった。真っ白な僕の生活に彩りを与えてくれていたのは確かだった。たとえ、汚らしい色だったとしても、彩りが与えられたことに違いはない。それは認めざるを得ない。

 しかし、そんな平和な日々も長くは続かなかった。

 それは、ある日の夕食時間だった。衝撃的な事実を知ることになったのは。

 席の埋まらない食卓に、母と二人座る。電球がカトラリーを照らす。銀色のフォークは高級感を増している。

 中心に置かれた肉じゃがに鮮やかさが欠けていた。日常だけど、その豊かさが足りない。やっぱり僕らはまだ完全体じゃない。常に何かが欠けている。脳内をよぎるのは父親の顔だ。初めから二人だったら、空いた席に目も向けなかっただろうに、元々存在していたものが消えるから、空白が生まれる。

「お母さん。この間はごめん。お父さんの話なんか出して。」

 軽く頭を下げて謝る。お母さんは、否定も肯定もしないぼんやりとした視線を向けている。

「自分でも心情がよくわからなかったんだ。多分、何か不安定だったんだと思う。」

 脳と口が直結しているようだった。頭で考えたことが気がついたら言葉として現れている。

「でも、僕気がついたんだ。別にお父さんなんていなくても、十分満足できる。元々、仕事ばかりであまり話せていなかったし。きっと、いなくなった衝撃と大金を奪っていった衝撃とで、お父さんの存在を勝手に誇張させていたんだと思う。生活自体は大して変わっていないのに。」

 正直、一度穴が空いた風船は元には戻らない。肺にも穴が空いたようにぎゅっと苦しくなる。大金を持って行ってしまったことには、確かに怒りを感じている。しかし、何をしようと自分の父親であることは変わらない。

 母は目を空気に触れさせないように細く細く開く。何度も瞬きをする。 

「何が言いたいのかっていうと、お父さんなんていなくても大丈夫。むしろ、いなくなってくれて良かったくらいに思わないと、僕らが報われない。」

 本心からの言葉じゃない。きっとそれは間接的に母に伝わっているだろう。自分を上手く取り繕うとするうちに思ってもみないことを口にしてしまう。

「それ以上言わないで。」

 顔を上げる。母の涙が垂れる。その透明さに釘付けになる。動けなくなる。

「え?」

 母は今まで見たことがないくらい感情を露わにしている。心と体が直結しているようだ。しばらくその涙は止まらなかった。滝のように溢れる涙を拭うので精一杯なようだった。落ち着き、やっと口を開く。

「ごめんね。もう黙っているのは無理だから、全部話すよ。」

 少年は、自分に向けられた言葉じゃないのだと感じ取った。天井の方へ顔を上げ、晴れやかな笑みでそう言った。誰に向けられた言葉なのだろうか。

「ごめんね。嘘をついてた。」

 それは、少年に向けられた言葉だった。嘘。どのような嘘だろう。これだけ泣き崩れるほどの嘘なのだろうか。

「あなたのためを思って、今まで黙っていた。それは、あの人の頼みでもあったし、あなたに哀に支配された顔をして欲しくなかったから。」

 母は、今まで見たことがないくらい真剣だった。息子へ向けられた言葉の重量制限を明らかに越している。

「私たちは離婚していない。今も私はあなたのお父さんのことが好きだし、彼も私を愛してくれているはず。」

 初めて聞く話だった。どう反応していいのかわからず、だんまりしていることしかできない。

「でも、彼は遠くにいってしまった。もうきっと戻ってこないでしょうね。」

 その言葉に嫌な予感がする。背筋が凍る音がした。首の音が聞こえる。鼻がむずむずして痒くなる。脇腹から鳥肌が立つ。

「あなたのお父さんはね、亡くなったの。」

 波のように震えが押し寄せる。全身から、迫り来る震えに涙が止まらなかった。顔を涙で埋め尽くすには十分すぎる話だった。ただ一点を見つめて、何もないその一点に涙を流す。しばらくすると、頭が熱くなった。灼熱の太陽に照らされたかのようにぼっと熱が宿る。

「どうして?」

 勝手に口がこの形をして、声帯が震えて、この四文字がこの空気に排出された。

「なんで?何があったの?全部教えて。」

 動揺している。自覚できるほどに焦っている。何かに追われているようだ。自然と肩が上がり、呼吸が荒くなる。

「順番に話すから。とりあえず落ち着いて。」

 お母さんが言える立場でない、と心の中でツッコミを入れる。

 怒涛の勢いで頷く。

「あれは一年前くらいだったかしら。健康診断で彼は引っかかったの。」

 一年前から。僕の知らない間で進行していた出来事に、同じ世界を生きながら気が付かなかったことに遺憾を感じる。

「病院に行って、検査をしてもらった。診断でわかったのは、脳に悪性の腫瘍があること。すでに、その腫瘍は体に害をもたらすほどに成長していたらしいの。早めに摘出することもできけれど、リスクが大きい。初めは、薬を投与して様子を見るのが妥当だと言われて、その通りにした。」

 全く知らなかった。思い返してみれば、急に仕事が忙しくなったと話していた。あれは嘘だったのだろう。今更気がつくなんて悔しい。

「手術するとなったら、その分の費用もかかるし、あなたにも迷惑がかかるし、なかなか踏み出せないまま時間だけが過ぎて行った。てっきり良くなっているものだと思っていた。でも、その腫瘍はよっぽど根性があったみたい。薬を強くしたり手当たり次第試してみたけれど、全くといっていいほど効果はなかった。タイムリミットが近づいてきているのは、なんとなく感じていたから、他のことを考えられないくらい困惑していた。」

 母は、胸を押さえつける。一度、決着をつけた悩みともう一度向き合わずに済むように、抑え込んでいるのだろう。その様子がなんとも切なくて、涙が再び登場した。

「だけど、そのときは、最終手段である手術が残っていたから、まだ安心できていた。効果はないのに時間だけが経過していって、終いには、手術をし、腫瘍自体を取り除くことでしか命を救えない状態にまで陥った。」

 まるで、違う誰かの物語を聞いているようだった。自分の父親の身に起きた出来事だなんて信じられない。

「別に、病院側に恨みがあるわけではない。だって、私も病院の方針に納得したわけだし、リスクのある手術よりも薬の投与で病状を良化させたいというのも頷けた。でも、やっぱりあの時、早めに手術をしていたら、と思ってしまうのは、私がまだ幼いからなのよね。」

 母はそう言って微笑んだ。

「もう結末はわかるでしょうけど、お父さんは結局、手術後に亡くなった。大金を注ぎ込んだ末に、儚く消えた。」

 本当に亡くなってしまったのか。信じられない。まだ実感が湧かない。夢から覚める準備はいつでもできているのに、ここはどこまでも現実だ。僕が知らない世界での話なんじゃないかと思う。

 表面的には理解できた。お父さんは手術で失敗して死んだ。ただ、その言葉を頭のパズルに入れ込むことはできない。何度読んでも理解できない問題文のようだった。

「私はてっきり良くなって、また三人で外出できる未来を想像していたから、そのギャップでしばらく立ち直らなかった。」

 お父さんがいなくなってから、重力が3倍になったんじゃないかと思うくらい重く闇い表情をしていたのは、それが原因だったのか。自分だって離婚を選んだのにと、横目で見ていたけれど、母も父も別れることは選ばなかった。

「莫大な手術費が必要だったから、うちの財産は激減した。彼が持ち出してしまったと話たけど、あれも当然嘘。」

 謎が解けた。この話を聞き、あえて良かった点を挙げるのなら、お金を持ち奪われたことを恨まなくていいことだ。正当な方法で使用されたのだから。

「でも、なんでそんな嘘なんかついたの?」

 僕にだって話してくれて良かった。理解するのに時間はかかるかもしれないけれど、一瞬一瞬をもっと大切に生きられたと思う。

「お父さんがこんな嘘をついてまで病気を隠したのは、全部あなたのため。矛先のない怒りが一番残酷だと彼は言っていた。やがてその矛先はあなた自身に向けられるかもしれないとも。あなたが自暴自棄になることを恐れたの。自分が病気で亡くなったと知るより、離婚して大金を奪い遠くで暮らす最低な父親だと知る方が、ダメージが少ないと感じたのでしょうね。立派な人だと思う。」

 やめて欲しい。一年分くらいの涙が今かとばかりに走り出す。呼吸困難になるくらい泣く。人生で一番の悲愴だ。これ以上ないほど、涙を使う。自分の心に宿る黒煙を吐き出すのに、時間と体力を使う。

「もしかしたら、彼は、自分が手術で命を落としてしまうことをある程度予想していたのかもしれない。」

 なんて切ない最後なのだろう。自分がこんな目に遭いたくないと思うほど、同情する。

 お父さんは強い人だ。ドキュメンタリーで取り上げられるわけでもないし、その英雄ぶりが映画化されるわけでもない。でも、強い。世に知られないのが残念なくらい良い人間だ。勿体無い人間だ。

 やっと涙も落ち着く。少しずつ現実を受け入れている自分に腹が立つ。どこからでもいいからやり直したい。できたら、父と笑える未来が待っていて欲しい。何かの間違えで生き返ってくれないかな。誰かの命と引き換えにでもいいから、戻ってきて欲しい。

「なんか嫌だな、この気持ち。」

 初めて発した言葉はそれだった。抽象的で、考えたことをそのまま口に出しただけの言葉。

「どうして、お父さんが選ばれてしまったんだろう。何か悪いことをしたわけでもないのに。」

 誰かの選択によって父が殺されたのなら、許すわけにいかない。たとえ、その相手が神のような絶対的な存在であったとしても。

「そういえば、ここ1年くらい、仕事が忙しいと言っていたのも嘘だったのか。」

 話があちこちに飛ぶ。脳を通して、選択をする暇なんてない。

「それもあるけど、思い出を作るのが怖かったんじゃないかな。」

 なんだよそれ。胸がギュッとなるようなそんな感覚が嫌だった。何かのセリフのような綺麗な言葉が憎かった。

 良い人間すぎてムカつく。まだ犯罪者になったと聞かされる方がマシだ。

「馬鹿。」

 そう言って、生まれたての子鹿のような麗しい目を見せる少年を、母親はのようなぼんやりと柔らかい熱気で温めるような瞳で包み込む。

「確かに、お父さんの予言は当たっていたかもしれない。僕は、この話を明かされる前と後なら、前が良かった。お父さんは全部正しかった。知りたくなかった。」

 どうせ黙っているのなら、墓場まで持って行って欲しかった。黙り通して欲しかった。でも、それは酷すぎる。息子に知られず、恨まれながら人生の幕を閉じた父の気持ちを考えると。

「でも、僕はリアルタイムで知りたかった。お母さんやお父さんと一緒に最後の時間を大切に過ごしたかった。」

 それは尽きる。まだ存在するのなら、そのうちに教えてほしい。もし、すでにこの世での生を終えたのならば、一生黙っていてほしい。今回は、この二つのどちらにも当てはまらない。

「多分、今と同じくらいの衝撃は受けると思う。実際にまだ実感はないし。でも、僕はこれからの人生で気持ちに蹴りをつけることができる。どれだけ悲惨な出来事に見舞われても、これからの未来でどうにかできる。でも、お父さんはできない。息子に看取られず、静かに逝ってしまったという事実は、その時の虚しさは、もう美化できない。一生、覆らない。それをお父さんは事前に知っていたのかな。知らなかったんじゃないかと思う。」

 その事実は不変だ。僕がどう頑張ったって過去の出来事をひっくり返すことはできない。この先、どんなに便利なテクノロジーが世に出回っても、それだけは不可能だと断言できる。少なくとも僕が生きている間には。

「こんなに報われない最後があるだろうか。」

 独り言のように呟く。報われないことに対する悲痛が一瞬であったら良い。

 息子が言うのはどうかと思うが、父はできた人間だ。できすぎている。だからこそだめだ。僕らが気づいてあげなければ、自分を犠牲にする。それが僕らの幸せだと勘違いをしている。それは間違いだと教えてあげればよかった。

「終わってしまったことを後からあーだこーだいうのは、情けないけど、お母さんにはお父さんをサポートする権利があった。父の思考を変えられる権利があった。僕には与えられなかったけど、お母さんは、お父さんを変えることができた。」

 もっとちゃんと仕事をしてほしかった。欲を言えば。お父さんを止めてほしかった。

「お母さんも馬鹿だよ。お父さんと同じくらい。もう、なんでこうなんだろう。」

 そう嘆き、俯く。自分の要求が酷すぎるのは十分に承知している。自分が母の立場に置かれたとしても、同じ行動を取るかもしれない。でも、今は、こうやって怒りを誰かに向けることでしか自分を制御できない。悲しみから抜け出すことができない。ここは甘えさせてほしい。まだ子供なのだと宥めてほしい。

「確かにそうだったかもしれない。私の努力次第で、お父さんは一人悲しく死なずに済んだかもしれない。でも、あれだけ熱心に頼まれたから。最後くらい彼の願いを叶えてあげてといいかなって思って。むしろ、私にできることはそれしかなかったから。」

 母の言うことも間違っていない。自分の最後は自分で決めたかったはずだ。

 でも、本当にそれでよかったのか。心の底から望んだことだったのか。

「それが本望だったのかな。それなら咎めることもないんだけど。」

 もし、そうじゃなかったのなら。考えただけで、苦しくなる。だって、もうどう頑張ったって挽回することができない。

「これでよかったのよ。」

 母は、空気の同じくらいの濃度の柔らかい声でそう言った。

「あなたのためだとか色々と理由を挙げていたけれど、結局はあなたの涙を見たくなかったのよ。笑った顔を見続けたかったのよ。きっと。」

 そう言って母は笑顔を見せた。瞳が揺らいでいる。

「それならよかったのか。」

 なんとかそう言い切る。すでに込み上げてくる涙に負けていた。お父さんは、綺麗な人だ。

「明日お墓参りに行こう。」

 母はそう提案した。

 お墓参り。ちゃんと受け入れられるだろうか。石に掘られた父の名前に向き合えるだろうか。わからない。明日の自分に託す。


 翌日は快晴だった。だんだんと色褪せていく夏が趣深い。蛍光色のオレンジ色から、橙色になった。

 母と二人車で出かける。母がかつて父の場所であった運転席に座り、僕は、かつての母の場所、助手席に座る。やはり一人足りない。

 いつぶりだろうか。二人で車に乗り、遠くへ出かけたのは。その目的地が墓というのがなんとも言えないが、感慨深い気持ちになる。

 暖かい日光が車内を照らす。柔らかい。夏の生ぬるい風は思い出を運ぶ。

 かつて、ここで繰り広げられた会話。いつの日かこぼしたお菓子の匂い。キャンプ帰りの野生らしい汗。全部がこの車に染み付いている。鳥肌が立つ。

 お父さんを感じる。生き霊がいるとしたら、ここに宿っているのだろう。透けて見える。実際にはいないけれど、そこに確かに存在する。

 何度泣けば気が済むのか。窓を眺めるふりをして、雫が頬をたどる。日光が蒸発させてくれるのを待つ。

 なぜ僕は日常を永遠だと勘違いしてしまったのだろう。ものの大切さに気がつくのはいつも消えてしまった後だ。取り返しがつかなくなってからだ。何度も何度も、後悔を繰り返す。なのになぜ学ばない。もう悔やむのは終わりにしたい。

「久しぶりだね。」

 母は呑気にそんなことを言う。

「色々とごめんね。お母さんとしてだめだよね。もっとあなたと時間を共にするべきだった。でも、働いている間は、お父さんのことを忘れられた。悲しみに囚われずに済んだの。」

 優しい声が日光によく合う。朝。気持ちが良い朝。気分が良かった。何か爽快な気分になる。

「誰も悪くないよ。」

 誰もが精一杯に励んだのだ。悩んで泣いて。葛藤の末、出した答えなのだ。

「だから、嫌なんだよ。」

 それは、単純に責める相手がいないから、なのかもしれない。怒りの矛先を向ける相手がいない。責めても許される相手がいない。もしくは、彼らの努力が報われないことに対する憤怒なのかもしれない。悔しさなのかもしれない。

「みんな優しい。みんな偉い。みんな頑張った。その裏返しがこの結果だなんて。」

 展示されない、作品の裏側に絵を描いたようだ。いくら頑張ったって報われることはないのに、描き続ける。馬鹿らしい、の一言で片付けることもできる。でも、それが人間らしくて好きだった。誇りだった。

「お父さんの死を無駄にしないであげてね。」

 そんなの責任転嫁じゃないか。僕にできることがあるのいうのか。全く何も思い浮かばない。

「最近、学校はどうなの?」

 母は声のトーンを変えた。

「今は夏休み。学校はないよ。」

「そうだったわね。」

 母は笑った。のんびりとしている。ほんわかとした空気を感じる。そのペースに自然と合わせている気がする。

「楽しく過ごしてる?」

「まあ。」

 少年が誤魔化すと、母はくしゃりと笑いながら不満そうに言う。

「もっと詳しく教えてよ。」

 詳しくか。その言葉に従って、あの人との関係を話すわけにはいかない。

「例年通り、友達の家で遊んだり、一緒に出かけたり、それなりに楽しく過ごしてるよ。でも、宿題が多いから忙しいけど。」

 全部嘘だった。一度も友人と遊んでいない。あの人を友人だと定義するのなら、嘘ではないけれど。

「それと、今までにない夏になりそうだ。」

 この言葉については詳細を求められなかった。ただの誇張表現と見られたのだろう。それで良かった。

「それならよかった。あなたが楽しいのなら一番ね。親としては。」

 和ませるような声に落ち着く。しかし、疲れが溜まっていそうだ。疲労が声にも表れている。

「お母さんはどう?忙しすぎてない?」

 間違いなく忙しいだろう。側から見れば。でも、彼女自身が満足しているのならそれで良いが。

「でも、その疲労が心地よいのよ。お金も貯まっていくし。」

 胸が潰される。疲弊をあげながら四六時中働いて得るお金と、同等、もしくは、それ以上と金額を不正な方法で僕は得ようとしている。申し訳なさ以外の何でもない。

「いつもありがとうね。」

 そんな言葉でこの申し訳なさを埋めるには、軽すぎるか。

 面と向かってお礼を言うのは、なんだかくすぐったかった。母は満足そうに前を見つめている。お願いだから、死なないでほしい。お母さんには、しばらくは生きていてほしい。それが今の少年の一番の願いだった。

 お墓に到着する。郊外にある墓地のようだ。割と都会にある自宅から、一時間ほどかかった。

「ごめんね。なんか今、スズメバチが繁殖しているらしくて、駆除できるまで入れないんだって。ここまで来たけど、また今度にしよっか。」

 驚いた。確かに、一時間もかかったのだから、入りたい気持ちもあった。でも、まだ、お墓で手を合わせたくなかった。心のどこかでもう一度、お父さんと会って話せるんじゃないかと思っている自分がいる。まだ、現実から背いていたかった。

「そうなんだ。でも、久しぶりにドライブできたから楽しかった。」

 母はにっこりと笑った。

「せっかくだから、どこかごはんに行く?ちょっと贅沢しようか。」

 笑顔で頷く。これくらいの小さな幸福が永遠に続けばいいのに。理想でしかないけれど。


 一生懸命に考えた。どう捉えるのが正解か。だって、どれだけ反対したって何か努力をしたって、もう一度、お父さんと会話できるわけじゃない。それが一番の事実だ。僕がどう頑張ったって変えられない。

 それなら、せめて納得できるような捉え方をしたい。死んで良かったとまでは言わなくても、無駄じゃなかったと思えるようにしたい。

 話し相手を探す。お母さんには十分に反抗した。それに彼女は今完全じゃない。弱っている。あまり刺激しない方が良さそうだ。僕に残された存在はあの人しかいない。ここ3、4日会話を交わしていない。近いうちに、家にお邪魔してこのもやもやを解消するしかない。あの人なら、何かしら良い答えを持っている気がする。僕が想定もできないような。


 そして、翌日は青年の家に訪れる。午後2時頃だ。いつ訪ねても、必ず家にいるのだから不思議だ。偶然なのかもしれないけれど。

「暗い顔だけど、どうしたの?」

 その問いに答える気になれなかった。返事する気力もない自分の悲劇さを彼に見せつけたかったのかもしれない。

 そして、一秒でも早くこのモヤモヤを解消したい。

「何?お父さんのこと?」

 思わず反動的に顔を上げる。自分は素直なのだと実感する。

「やっぱり。それで、何があったの?」

 青年は、優しい顔を見せる。正直、気を遣って自分から答えを誘導するように動くのはめんどくさい。こっちは聞いてあげる側なのだから、手間をかけないでほしい。でも、なぜか続けている。絶対に同情ではないのだけれど。きっと、相手に気を遣って犠牲を払える自分に惚れ込みたいだけなのだろう。

「お父さん死んじゃってた。」

 少年は涙が込み上げてくるのを感じる。波が押し寄せてくるようだ。自分じゃ制御できない何かしらの力が働いている。

 泣きたいわけじゃない。それを伝えたいのに、伝えられない。泣くか否か選択できるのなら泣いてない。

「そっか。」

 青年はあまり驚かない。突然に自分の世界に入り泣き出す少年への対応に困る。前もこんなことがあった。同情してあげられればいいのだけれど、残念ながらできない。バレないように真顔になる。誰も見ていないのなら、悲しい顔も笑った顔も意味がない。

「お父さん全部嘘をついてた。離婚なんてしていなかった。遠くに消えたわけでもなかった。」

 髪の毛で、今青年がどんな顔をしているのか見えない。この人なら淡々とした顔をしていそうだ。でも、少しは同情してくれるのではないかと期待している。

「大金が消えたのは、お父さんの手術費が原因だった。結果的に助からなかったけど。」

 青年は考える。少年の父親の手術の成功率はどれくらいだったのだろうか。割合が5割以上で失敗したのなら医師にも責任があるが、3割程度だったのなら、父親にも大金を費やした責任はあるだろう。貪欲にもほどがある。

 父親に膨大な金をかける価値はあったのか。死ぬ可能性が大きいことはわかっていただろうに。

 それもその後の生活が危ういレベルだ。たとえ成功したとしても、即座に仕事に復帰できるわけではないだろうし、入院代もまだまだかかるだろうし、生活が不安定になるのは予想ついていたと思う。

 それならば、残される息子と妻のことを思い、大人しく病気に殺されていくのが、父親としての使命だと思う。だなんて、病気もせずに大して苦しみも味わっていないから言えるようなことだと思うけれど。でも、考えるだけなら誰の反感も買わない。

 こんな爆弾発言をこの状態の少年にするわけにはいかない。ぐちゃぐちゃになってしまう。どうにかこれをポジティブな言葉に変えられないだろうか。

「父親は、君と母親の生活を不安定にさせてしまうほどの資金を使ってまで手術を買った。」

「自分勝手だと?」

 少年は青年を睨みつける。いくら死人とは言え、いや、死人だからこそ、父親を侮辱されるわけにはいかない。彼は自分自身を守れないのだから。

「いや、彼はその後の生活とかが頭に浮かばないくらい必死だったんだ。理性を失ってしまうくらい生きたいという思いに溢れていて、死ぬことを受け入れられなかった。」

 一生懸命に良い方向へ持っていった末に出た言葉だった。無理矢理感はあるだろうけど、多少は励ましになると思う。

「そんな言葉をかけられるんだ。」

 歳下にそんなことを言われると思わなかった。ショックだ。

 少年の心は、言葉自体というより、彼が自分を励ましてくれているという事実のおかげで多少は軽くなった。肩の重みが1/3くらいは減少した。予想外だ。それは嬉しかったし助かった。

 でも、この人を認めるわけにはいかなかった。

「あなたは結果的に全て何とかなる。丸く収まると教えてくれた。そうゆうものだと言っていたけれど、1ミリも僕の思い通りにはならなかった。何も上手くいかなかった。」

 わかっている。この人は100%悪くない。でも、この状態の僕に怒りの矛先を、他のものに向け直すというのは、矛の重さのせいで難しい。

「その文句を言いに来たの?嘘つきって。」

 少年は首を振る。確かに半分くらいはその思いもある。誰かに責任を押し付けたかったという気持ちもある。でも、一番はそれじゃない。

「あなたもこんな気持ちだったんじゃないかって。」

 少年は涙で濡れた真っ直ぐな瞳を向ける。同じ世界へ誘導するような吸い込まれるような瞳だ。青年を完全に同類の人間だと分類している。

「あなたなら、僕の気持ちを共有できるかなと思ったんです。」

 青年は顔を歪めた。確かに、似た経験はしている。しかし、堂々と語れるような解決法は持ち合わせていない。

 でも、抱擁感のある笑顔を見せる。

「答えを求めてここに来たのか。」

「そうです。」

 別に僕はカウンセラーじゃないのだけれど。何か勘違いをしているのだろうか。片親を亡くした人なんて探せばいくらでも存在するだろうに。

「確かに君の気持ちは半分くらいはわかってあげられる。死に方が違うから、全部はわからないけどね。」

 青年の父親は自殺をした。それに対して特有の感情が生まれるのも仕方ない。

「助言ならしてあげられる。でも、自分で解決法を見つけないと。全員が全員、同じ方法で自分の気持ちを整理できるわけじゃないから。」

 少年は頷いた。彼が言うことは最もだ。自分はこのどうにもならない感情を片付けることができるのだろうか。

「もう一回詳しい話を聞かせてほしい。」

 青年がそう頼むと、少年は母に教えられた最初から最後までを全て話した。自分の感情は含ませずに事実だけを淡々と語った。

「じゃあ、君の両親は、父親の病気を二人で隠していたのか。君のために。」

 最後の言葉を強調しておいた。しかし、実際のところは彼だけのためではないと思う。少年の話にもあったが、冷酷が現実に打ちのめされる少年を目の当たりにしたくなかったという理由も大きいと思う。つまり、少年のためだけではなく、自分たちのために隠し通すことを選んだ可能性がある。

 この点において、最終的には暴露することになったのだから、母親からは倍の罪悪感を味わう羽目になっただろう。父の死と隠されていたという事実を一度に知ることになった少年に向けての罪悪感を。父親はどうかといえば、望み通りの結果になり、今は少年の様子を知ることもないのだから、この点だけを見れば幸運だということになる。

「この二人の行動に対してどう感じた?」

 少年は考える。秘密にされていたことに対して何を感じたか。当時の気持ちを頑張って思い出す。

「秘密にされたという妬みよりも、自分だけが知らずに平和に暮らしていたという後悔の方が大きかったと思います。だから、両親に向けての恨みより自分に向けての恨みがあった。お父さんに何もしてあげられなかったから。」

 なんて心の綺麗な息子なのだろうか。青年は感心する。自分だったら、母親に一番に怒りをぶつけていただろう。

「優しいね。」

 そんな単純な言葉では片付けられないくらい綺麗だ。

「でも、君が後悔する必要はない。だって、君にできることは何もなかったから。両親が秘密にすることを選択した時点で、君に決定権はない。気がつくチャンスもない。当然の結果だ。何も間違ったことはいていないし、逆に良いことをするチャンスもなかった。」

 確かにその通りだった。僕は何もできなかった。能力が無かったというより、させてもらえなかった。できたのにできなかった。たとえ、その原因が自分自身じゃなかったとしても、後悔してしまう。

「母親に対しても特に恨みとかは感じない?」

 恨み。それとは無縁だった。むしろ心配をしている。

「全く。お母さんは強いから。お父さんの意思をできる限り守り続けた。いくら強くても、僕が勘違いをしてお父さんを貶しているとき、どんな気持ちだったのだろうって考えてしまう。本当に申し訳ないことをしたと思います。」

 申し訳ないどころじゃない。

 想像するだけで辛いとかじゃなく、残酷すぎて想像することすらできない。

「なるほど。」

「それじゃあ、亡くなったことに対してはどう感じている?」

 父が死んで何を感じたか。もちろんポジティブなことは何もない。ひたすらネガティブなことばかりを考えている。

「お父さんは完全な被害者だと思っています。」

 当たり前のことだ。しかし、大切なことだと思う。人によっては、亡くなった人を恨んでしまうこともあると思うから。

「じゃあ、加害者は?」

 加害者。誰だろう。候補として挙がるのは医者しかいない。しかし、彼らもできる限りを尽くしてくれた。僕があれこれ文句をつける筋合いはどう考えたってない。

「神様とかの選択によって亡くなったのならその人。もしくはウィルスとか?」

 少なくとも特定の人間ではない。

「つまり死の原因を作ったものってことで合ってる?」

 少年は頷いた。自分の気持ちが整理されていく気がする。

「それじゃあ正常な悩みじゃないか。」

 この悩みは普通のものなのか。この人も同じ思いをしたということだろうか。

「別に君だけが異常なわけじゃない。誰だって通る道なのだから、君だけが悩む必要はない。」

 そう言われると安心する。自分だけじゃないというのは強みになる。

「それならよかった。」

「でも、人を亡くすってこんな気持ちなんですね。僕は今まで知らなかったけど、これを何人もの人が経験しているんだと思うと、尊敬でしかない。」

 僕が知らないだけで、今この瞬間に生死を彷徨っている人だっているし、逆に誕生している人もいる。僕が想像すらもできないほどの残酷な体験をしている人だっている。そのような人たちに対して、自分じゃなくてよかったという言葉を向けてきた。今までは。でも、当事者になってやっとわかった。誰だって、何かの組み合わせによって悲劇を味わうことになるのだと。

「でも、ポジティブなこととネガティブなこと。この二つの境目って何なんだろう。」

 ここからが嬉しいこと、ここからが悪いことと分ける何かの基準があるのだろうか。

「人それぞれ感じ方が違うっていうのはありきたりの話だけど。でも、嫌なことの代表と言えば、死だけどね。」

 確かに言われてみれば、苦労話でよく聞くのも誰かの死だ。

「死に結びつかなくても、交通事故とか病気とか命に関わる問題はよく取り上げられる気がする。」

 それもそうだ。逆にそれ以外はあまり思い浮かばない。

「つまり、結局、一番大切なのは命だってことじゃない?」

 その最終結論は納得がいくものだった。少年は大きく頷く。

 この人はやっぱりすごい。何か歳以上の経験をしている気がする。尊敬すべき人なのだろう。

「そうですね。実はもう一つ疑問があって。」

「何?」

 だから、僕は学者でも教師でもカウンセラーでもない、と青年は言いたくなる。しかし、断固拒否する理由もないので聞くことにする。

「そのような目に遭う人ってどうやって決まるんですかね。」

 誰もが一度は考えたことのある問題だと思う。僕は未だに答えを見つけられていない。

「また随分と壮大な疑問だ。」

 そんな問いを聞かされても、と青年は言いたくなる。僕が知るわけがない。一体僕を誰だと勘違いしているのか。考えるのがめんどくさい。

「僕はたまたまだと思うけどね。悪い部分だけピックアップされるけど、たまたまバスの席が空いていたっていうのと同じくらいの単なる偶然だと思う。」

 やっぱりそうなのか。僕の父はたまたま誰に決められたわけでもなく亡くなってしまったのか。

「一部の人は運命はすでに定められているというけれど、誰かが決めているなんていうのは、信じられない。逆に何億もの人間の一つ一つの運命を操っているのなら感心する。いくら何でも多忙すぎる。」

 そうゆう理由か。何だかがっかりする。何か根拠があるのかと思ったら。いやでも、物理的に不可能というのも一応根拠なのか。

「納得しました。」

 一度、少年の疑問祭りは落ち着くと予想したが、休む暇もなく次の疑問が吹っ掛けられた。

「ちなみにあなたはどうしたんですか?」

 今更ながら、それを聞くのが一番答えに近づける気がした。

「それ聞く?」

 青年は困ったように眉をへの字にした。

「まずいですか?」

「いや、まずいというか、これという答えは持っていないから、何の役にも立たないと思う。」

 押すか引くか迷った。どうやら答えを僕に伝えること対して、多少だが抵抗感を感じているようだ。参考程度で知りたかったのだけれど。

「じゃあ良いです。」

 青年は頭をかいた。これくらいの質問に答えてあげられるくらいの人間だったらよかった。返答できないのは単純に、解決していないからだ。間違った方向へ刃を向けてしまったからだ。

「でも、何か少し解決したような気がします。ありがとうございます。」

 青年は頷く。僕にもこの分野でできることがあったのかと驚く。


 家路につく。夕焼け空を眺めながら、自分自身と会話をする。

 確かに気持ちの波は落ち着いたかもしれない。感情の起伏に身を委ねて、胸が詰まるような思いをすることはなくなった。それはよかった。

 でも、一時的に傷に絆創膏を貼ったようなもので、完全に悩みが解消したわけではない。根本的な問題は何も解決していないような気もする。何もしないよりはもちろんマシだ。やはり彼も言っていたように自分の答えを見つけるべきなのだろうか。お父さんの死を腑に落ちる形で受け入れなければいけない。まだそれはできていない。それまでは、お墓に行きたくない。石と化した父の姿をこの視界の中に入れたくない。


「顔が明るくなったじゃない。」

 母がそう言った。

「そうかな?」

 自分の頬に触れる。

 やはり、人の温かみに触れるというのは、直接解決にはならなくても、それだけで自分に安らぎを与えてくれる。荷物を代わりに持ってくれる。

 でも、それは何か表面的なもののように感じた。実際、顔が明るくなったところで、心の底から暖色に色変わりしたとは限らない。表面的に明るみを帯びたところで意味がない。何か自分の中にまだ闇が潜んでいるような、そんな予感がした。

 即座に吹っ切れるほど、単純な人間じゃなかった。


 夏休みは残り約1週間。ここ数日は、時が過ぎるのが異常に早かった。のんびりとした1日を過ごすことはなかったからだろうか。思考を巡らすのに忙しくて、気がついたら時が経っている。

 考えてばかりいても、仕方ないので、気分転換にあの人の家に遊びに行くことにした。僕に課された業務は全て終わった。あとは前回のプロジェクトの結果を確認するだけだ。

「まだ顔が晴れてない。」

 青年には、母と逆のことを言われる。やはりこの人は騙しきれないのか。自分のテンションを上げるためにも気分を晴らせたふりをしていた。

「そりゃあ、すぐには立ち直れないですよ。」

 離婚が理由でお父さんと別れたと勘違いしていた時は、彼に依存していないふりをすることも困難じゃなかった。いや、本当は会いたくて仕方なかったけれど、自分を誤魔化して大丈夫なふりをしていただけなのかもしれない。青年に、自分もお父さんを切り捨てたと言われ、それならいっかと解決させていた。でも、今は状況が違う。彼のことを憎んでいようがいないが、一生会えないのだ。それは絶対だ。覆すことができない。

「いなくなった後に、存在価値を感じるなんて、馬鹿らしい。」

 生きている間に、気がつきたかった。失ってはいけない人間なのだと。

「それは仕方ない。時だって、過ぎ去ったあとに、あの時は良かったとか楽しかったとか、その時間の価値に気がつくのだから。それが普通だから。」

 無くなってから価値に気がつく。なんて情けないのだろうか。

 本当に大切なものを知るのは、それが無くなってから。全て終わったあとに知る。今までそんな言葉を聞かされても理論として知っているだけで実感はなかった。でも、身を通して体験することで、その言葉の重要性を知る。

 そういえば、誰かが昔、一緒にいて楽しい人より、いないと寂しい人を選びなさいと言っていた。当時は、その違いがあまりわからなかった。もちろん両方に当てはまる人もいるのだけれど。その人が言いたかったのは、今僕が実感しているようなことなのだろう。以前に忠告を受けていたのに、誤ってしまった。

 『何しに来たの?』そう聞かれると予想していた。しかし、そんな言葉は一つも飛んでこなかった。気を遣ってくれたのだろうか。それとも、理由もなく遊びに行っても良いくらいの関係になったのだろうか。

 迷いもなく靴を脱ぎ、部屋に入る。案内されるより先に。青年はドアを閉めると、僕の後ろを歩く。

「お母さんはまだ忙しいの?」

「まだというか、しばらくは多忙だと思います。」

「君に明かしてから変わった様子は?」

「特に。驚くくらいいつも通りです。」

 逆に心配になるほどに。

「それは良かったのかな。」

 青年は首を傾げる。そこで会話は終わった。

「それで、この間の絵はどうなったんですか?」

 少年が描いた一枚のイラスト。今ならもっと心を撃つような絵画を描けると思う。

「何かイマイチ火が広がらない。少しずつは増加しているけれど、爆発的広がりは今のところあまりない。」

 青年は、不満そうに言った。

 何と反応すべきか迷う。

「そうなんですね。」

 良かったような悪かったような。被害者が少ないという点では良かったのだけれど、報酬が少ないという点では悪い。

「でも、これはこのまま見守るしかないんですよね。」

「そうだね。」

 なぜか自分は刺激を求めている気がする。どうせなら、何か大きなことに繋がってほしい。そう漠然と考えていた。

 その日は特に何も起きなかった。会話は良くも悪くもいつも通り少なく、でも、それが心地よかった。気まずくはならない。

 

 事件と呼べるような大きなイベントがあったのは、それから2日後のことだ。

 2日前のように少年は何気ない気持ちで青年の家を訪れた。目の前まで到着すると、青年は待ち伏せをしていたかのように勢いよくドアを開く。

「すごいことが起きた。」

 すごいこと。何を指しているのかは全くわからない。でも、その表情からは高揚感が溢れ出ていた。包装紙に包まれた誕生日プレゼントを渡された子供のように輝いていた。

 それに釣られて僕も何だかわからないけど笑顔になる。それだけ光っていた。

「すごいことって何ですか?」

 少年の質問はスルーされてしまう。それだけ驚愕することなのだろうか。早足で歩いて行ってしまう。

「見ればわかる。」

 聞こえていたようだった。それならば、せめて返事はしてほしい。

 リビングまで歩いて行くと、青年はコンピューターを指し示す。画面を覗き込む。

「この人って。」

「そう。最近よく見る俳優。」

「この人がどうかしたんですか?」

 見せられたのはTwitterのこの人のアカウント。

「ツイート内容をよく見てみて。」

 言われた通りに凝視する。

「僕たちのサイトのURL。」

 青年は静かに頷いた。

「この人が紹介してくれたおかげで知名度が爆発的に広がった。」

 素直に喜ぶべきなのだろう。しかし、一つ確認しなくてはいけないことがある。

「これはあなたの仕掛けじゃないですよね。」

 この人ならやりかねない。実際、前回、予想外の結果に不服そうにしていたから。

「ただの偶然。これは正真正銘本人のアカウント。偽装するのは無理。」

 青年は首を振った。こんなことまで疑われるようになるなんて。

「それでほらこの通り。」

 コンピューターの画面が変わる。僕らが作ったサイトだ。

「465万!?」

 その数字に驚愕する。思わず声が出てしまった。札束にしたらどれくらいの量になるのだろうか。

「前も言っていたように、すでに何人かが参加しているかのように見せかけるため70万入金していたけれど、それを引いても400万弱はある。一人100円の入金だと仮定したとして、4万人程度が参加している。」

 4万人。割と人気のある有名人のインスタライブの視聴者程度の人数だろうか。YouTuberの登録者数と比べると大したことはないが、4万人という数を改めて見直すと、とてつもない数の人だ。

「でも、一人くらいは最後に表示される『全額負担』のことを暴露している人がいてもおかしくないですよね。その広がり方は危険なんじゃないですか?」

 それだけの人が参加したのなら、炎上していてもおかしくない。急に寒気がした。 

「僕もそう思った。確かに2、3人は見つけたけれど、意外といない。多分、その引っ掛けを知っているということは、実際に入金して焦燥感を味わった人たちだから、自分だけが損したくはないんだろうね。あとは、更新されずにまだ焦っているのなら、明かすわけにはいかないだろうし。」

 確かにそれは当たっていると思った。自分だけが嫌な思いをし、相手にはそれを避ける方法を教えてあげるなんて、表ではできても、誰も見ていないところでは到底できない。

「この俳優にもアンチが集まるかと思ったけど、そんなこともなかった。みんなの心の中で炎上している。でも、それを発信できないから、この人は助かった。」

 そうか。憎んでいても自分のために周りに発信できないのか。

「じゃあ、結果的に、僕らの思い通りに上手く働いてくれているってことですか?」

「そう。」

「今もどんどんと金額は増加していってる。どこまで行くかな。」

 気持ち悪くて仕方なかった。増えていく画面に表示された報酬に吐き気がした。罪悪感に肺が押し潰されそうになっていた。この一円だってもしかしたら、一生懸命に耐え抜いて耐え抜いて、その先に与えられたものだったかもしれない。この一円は滅多に会えない親戚からお年玉でもらった大切なものだったのかもしれない。それを笑顔で、魚を釣り上げるような顔でにたにたと見つめる彼が憎たらしかった。それと同時に隣で何もできずに突っ立っている自分自身にも腹が立った。

「やっぱり無理です。優しい人の顔が脳をよぎる。」

 お母さんとか。佳澄さんとか。学校の友達とか先生とか。それに比べられるように自分は黒い。

「だって、あなたが今してることは価値どうこうじゃない。ただの卑劣な詐欺じゃないですか。」

 彼は価値についての授業をしているつもりだったのだろう。しかし、これは単純に彼の私欲を肥やすためだけの行いだ。

「そう思うのならそれでいい。」

 その言い方は何ですか、と物申したくなる。

 僕の絵の価値はこのように妄想の中のように上がっていく。非道なやり方だけど。

 でも、その価値が上がれば上がるほど、僕自身の価値は下がっていく。それだけたくさんの人を騙したという事実によって下げられる。なんて残酷なんだ。

 青年は何も言わなかった。それが逆に不安を増させた。

 少年は顔を歪める。濃い抹茶を口に含んだように苦を感じているようだった。


 次の日は、ネットニュースに取り上げられた。といっても、マイナーな記者だったが、取り上げられたという事実は変わらない。金額は合計で、843万まで膨れ上がった。僕が朝確認したときには。

 少年は頭を抱えた。そうしている間にも、何人もの人のお金が犠牲となり、彼らはプレゼンターへと姿を変えていく。想像するだけで頭が痛くなる。

「ここまでになるなんてすごいことじゃないか。」

 青年の言うすごいの意味がわからなかった。僕らは偉くも凄くもない。最悪だ。

 善悪で区別をつけるのなら間違いなく悪だ。なのになぜ自信を持てるのか。不思議でたまらなかった。

 四六時中、そのサイトを確認していた。増加の勢いは常に過去最高だった。2倍3倍へと上昇していく。もはやその数の膨大さを理解できない範疇まで届いていた。諦めかけていた。良い人であろうとすることを。自分を制御し続けることを。


 僕の感情に変化が生まれてきたのは、翌日からだった。ちなみにすでに合計金額は1000万円を上回っていた。

「どこまで広がるのかな。」

 青年は至って通常運転だ。いつものように娯楽の一つとして楽しんでいる。

 この人の趣味を自分はいつもここで否定する。なのに、今日はその言葉が出ない。喉に引っかかるわけではない。元々生成されない。別にいいか。そう思ってしまう。いつものモヤモヤがない。

 増していく合計金額。必死に焦って周りに進める被害者の顔が思い浮かぶ。この世の終わりのような皺のよった顔をしているだろうか。口はぽかんと開いているだろう。目を見開いて。スマホに指を滑らして友人にURLを送る。嫌われることなんて気にしている場合じゃない。必死にプレゼンをする。

 なんだろう。この気持ちは。背徳感に溢れたこの気持ちは。高揚感に押し潰されそうだ。

 笑えてくる。声を出して笑う。自分でも引いてしまうくらいに、悪魔的な笑いだった。でも、同時に涙が溢れる。涙が出るほど面白かったのだろうか。それとも悲しかったのだろうか。なぜ泣いているのか。わからない。

 何だか今までお父さんのことで悩んでいたのが馬鹿馬鹿しい。自分は膨大な力を保有している。

 人間が蟻のようだ。行列を作り、律儀に働く。それを上から眺める自分。特別な存在になった気分だ。まんまと引っかかり、左右に足を進ませる。焦って転ぶ。

 何かが発散されていく。心の中に詰め込まれていたモヤモヤが解放されたかのように逃げていく。気持ちが良い。

「どうした?」

 青年は冷やかすような目線を向ける。でも、口角は上がっている。

 これじゃあ、僕はこの人に作られたみたいじゃないか。だって、彼の思い通りなのだから。こうさせたかったのだろう。

「やっと気持ちがわかった?」

 認めたくない。まだ反抗している。でも、言葉で認めなくても、間接的に伝わるだろう。だから無視をした。認めるのは、屈辱だったから。

 青年の目に映る少年は不気味だった。背筋が凍りそうになるくらいに。瞳は涙のせいで赤くなっている。頬には張りがある。口角は当然のように上がっている。

 どうしよう。大変なものを作ってしまった。青年は心の中で頭を抱えた。顔を歪める。

 いくつもの人間を変えてしまった。でも、一番変わってしまったのは間違いなくこの少年だ。

 青年は初めて恐怖を覚えた。

 少年は、しばらくその大きな葛藤を心の中に抑えきれず、発散していた。青年は止めることはなかったが、不思議そうにまじまじと見ていた。観察していたという方が近いかもしれない。

「何してたんだろう。」

 少年は呟く。正気に戻ったようだ。青年は、いつも通りの無邪気さを確認して安心する。

 笑いは収まったものの、根本的な思想は変わっていなかった。膨大な金額を騙し取っても、気持ち悪くならない。むしろ清々しい。雨を降らす積乱雲が過ぎ去り、虹が咲いた空のように気持ちが良い。

「大丈夫?」

 青年は心底心配しているようだった。それも無理はない。少年も今まで感じたことのない気持ちに戸惑いを見せている。

「なんだかおかしくなっちゃったみたいだ。」

 笑いながら少年は空気を冷やかす。青年は冷たい目で見つめる。何も感じていないようで、哀れに思っているらしい。

「誰かが自分の渇望の犠牲になっていると身に染みて実感しても、それが悪いことだと認識できない。」

 大したことないじゃない。たった100円。それだけが無くなったって、何も生活が不安定になることはないだろう。僕の逃げ場のない感情を発散させるのに彼らを利用しても文句はないだろう。

「ネットニュースに取り上げられるほど、大事ではない。ちょっとしたいたずらじゃないか。」

 別にそれくらい許されたって良いだろう。

「自分の悲劇さを世間に知ってほしい。しょうがないと認めてほしい。それは承認欲求というんじゃない?」

 承認欲求。聞いたことはある。よくインフルエンサーなどが例に挙げられるけれど、自分もそれに当てはまるのだろうか。誰かに認められたい。だから、なのだろうか。何も感じないのは。

「もしくは、どうしようもない憤慨を世間にぶつけれているのか。それだとしたら、まさに君の父親の思う壺だけど。」

 そちらの方が近いかもしれない。だとしたら、本当にお父さんは正しかった。僕が間違っていた。怒りなんてどうにでも操作できると勘違いをしていた。それは今まで頭を赤く染めて怒りに震えたことがなかったからだ。

 それとも、青年が説明した両方の要素が重なってこの感情が生まれているのか。

 まだわからない。でも、どちらにしても、ただの娯楽ではない。そこはこの人と境界線を引かせてほしい。だから、彼の異常な感情を認める必要はない。そこは安心だ。

「まあいい。今日はもう帰ったら?少し頭を冷やした方がいい。」

 青年の助言もあり、帰路についた。

 帰宅する。いつも通り誰もいない。沈黙が流れる。慣れきっている。でも、時々、昔の賑やかさを思い出してしまう。そして胸の中心を痛める。

 何かする気にもなれなかったので、とりあえず、寝ることにした。大抵のことは寝れば解決する。頭痛も腹痛も。悩み事も。

 でも、すぐに眠ることはできず、考え事をする。

 どうすればいい。悪事を続けても良いと思ってしまうのは、承認欲求からなのか憤慨からなのか。もちろん、ぶつかる先のない怒りに振り回されている部分はある。どうやっても生き返らない父親の病気に向けた怒り。僕に病気のことを教えてくれなかった父親本人に対する怒り。死を感じながら父と会話を交わす権利を与えられていたのに、その特権を十分に活かせられなかった母に対する怒り。

 確かに怒りはこれ以上ないほどに溜まっている。今まで感じたことがないくらい。一つ驚いたのは、父親が亡くなって、哀よりも怒をより実感しているということ。

 ただ、怒りだけじゃここまでの思考には発展しない。別に、悪事を働いてしまえなんて思わないだろう。

 そうなると、やはり承認欲求なのだろうか。でも、思い当たる節はある。実際仕方ないと思っている。何か許される気がしている。それに、この悲劇を自分の中だけで抑え込んでおくのは何か損な気がする。この悲劇で誰かの同情を得られるのではないかと少し思っている。待遇が良くなるかもしれない。自然と何かおまけをしてくれるかもしれない。なんて父の死を利用しようとする自分は最低だ。でも、そうすることでしか活かせないのだから仕方がない。こうしてマイナスなことばかりではないと自分に納得してもらわないといけないのだから。

 そこまで考えると、唐突に眠くなった。それから12時間以上は眠りについた。お母さんは何も言わずに寝かせてくれた。父親のことで悩んでいると同情してくれたようだった。

 

「落ち着いた?」

 青年の?いつものひんやりとした声だ。気がついたら、足が勝手に彼の家まで僕を運んでくれた。それに抗わなかったのだから、自分も彼の存在を求めていたのだろう。

「何か考えた?」

 珍しく優しい声だった。ふかふかの枕のようだ。寝てしまいたくなる。

「まあやっぱり承認欲求なのかなって。」

 思考全部を裸にするのは恥ずかしいので、これくらいにまとめておく。それを察したのか青年はそれ以上問い詰めてこなかった。

「とりあえず、いつもの穏やかさが戻ったみたいでよかった。」

 昨日は完全に壊れていた。何か壁が破壊していたみたいだった。

「前に僕も父親を亡くしたって言ったでしょ?その話の続き話すから。」

 珍しい。自分の話なんてしたことがなかったのに。気を遣われているのだろうか。僕を励ますために。そんなことをできる人だったっけ。

 でも、青年の初めて見る本物の笑顔は心地よかった。作り笑いをしているうちに、本物と区別がつかなくなっただけなのかもしれないけれど。

「君の父親は病死だった。でも、こっちは自殺だった。僕の父親は自分自身で生涯を締め括った。」

「自殺?」

 現実味のない言葉に喉が詰まる。

「知らない?」

「いやそうゆうことじゃなくて。」

 青年の瞳は潤っている。ダイヤモンドのような輝きを隠すような闇が見える。ビー玉の影のようだ。

 これは嘘じゃない。根拠はないけれど直感的にそうだと思った。

「飛び降り自殺だって。本当に馬鹿だよね。僕がまだ高校生のときだった。」

 紅く染まった死体を今でも覚えている。嘘だと信じたいくらいに残酷だった。夢だったらよかったと何度思ったか。時よ戻れと何度呪文をかけたか。そのときのことを思い出すと、ビルの屋上から飛び立ちたくなる。立ち直るのにそれなりの時間を要した。これ以上ないほどの苦汁を味わった。

「父親は、価値のないコインを買わされたんだ。財産がゼロになるまで。騙されたんだ。」

 当たり前だけど初めて聞く話だ。空気を壊さないように静かに耳を傾ける。その境遇はまさに悪事を働いても仕方ないと思わせるようなものだ。

「今はわかる。騙す側の気持ちが。だって、気持ちが良い。何もせずに金が積み上げられていく。快感でしかない。」

 堂々と語る青年を冷ややかな目線で見つめる。道を誤ったのはここだったのか。

「父があそこまで狂わされた価値ってものを確かめたかった。」

 彼は当たって真剣だった。その表情と立ち振る舞いには批判をする余地がなかった。異議を受け付けなかった。

 だから、この人は。するすると針に糸が通ったような快感を味わう。

「確かに父さんは死んだ。その事実は変わらない。でも、その死にどう価値をつけるかは残された人次第だ。だから、父さんの死を無駄にしないように、人を騙し始めた。彼のおかげで価値について興味を持つことができたから。息子が裕福になって幸せを噛み締めるような人生を送れるなんて親にとっちゃそれ以上の幸福はないだろう。」

 何かを履き違えている気がする。しかし、心に響く。序盤の名言らしきものは。後半は理解ができなかった。無理矢理の自己中な思想に見えた。

 そうか。もしかしたら、彼が間違っていると教えてくれる人がいなかったのかもしれない。だから、このような道に進むことになってしまった。

 でも、総じて、何かヒントを得られたと思う。有意義な時間だった。

「本当はこんなこと話したく無かったんだけど。」

「じゃあ何でこの話をしたのですか?」

 青年は首を傾げる。そして、何か思いついたように言う。

「君に同情してほしかったんじゃない?」


 僕はどうやって生きていくべきだろうか。何をして誰と生きていくべきだろうか。具体的なことはわからない。でも、何か必要とされていたい。世の中の役に立ちたい。

 将来の夢。今までなんとなく誤魔化してきた。自分が何になりたいのか。考えてこなかった。

 自分には何ができるのだろう。何を知っているのだろう。何が好きなのだろう。

 青年は言っていた。お父さんに価値を与えられるのは僕らしかいない。あの悲劇は僕に何を与えてくれた?考える。

 僕は命のあっけなさを知った。自分の無力さを知った。何もできなかった。後悔した。自分に何かしらの技術があれば、父親を救うことができたかもしれない。答えは単純だった。

 医者。それがこの経験を最大限に活かせる仕事だと思う。お父さんは、特効薬さえあれば、もっと技術者が居れば、救われた。もう一度、会話を交わすことができた。それならば、自分がその技術者になればいい。自分が特効薬を開発すればいい。

 具体的に何をしたいかはわからないけれど、医療従事者になりたい。いや、ならなくてはいけない。

「今決めました。僕、医者になります。」

 なんて純粋な笑顔なのだろうか。今からなら何色にでも染まれる真っ白のキャンパスのような無垢な少年が羨ましかった。自分が見窄らしく見えるくらいに輝いている。

 青年は、独り立ちをする雛を見つめる親鳥のような表情をしていた。嬉しさと寂しさとが入り混じっていた。自分の心が蔑んで見えるくらいに美しかった。目が釘付けになる。ずっとこの瞬間を忘れないでいたいと思うくらいに何もが完璧だった。一言で言えば美しい空間だった。でも、それだけじゃ伝えられない。少年の中の葛藤が晴れ澄み、全てが絶妙なタイミングで重なった。そして、夢が生まれた。

 西陽は少年を応援するように照らす。

「そうだね。」

 必死に涙を堪える。


 その日からは妙にやる気になっていた。もう夏休みはあと3日で終了すると言うのに。しかし、この夏休みでスタート地点に立つことができた。あとはひたすらに努力するだけだ。やはり、寄り道も無駄じゃなかった。もしタイムスリップできるのなら、昔の自分に教えてやりたい。たまには寄り道しても良いのだと。その先にスタート地点が待っているのだから。

 正直言って、気分が高揚していた。何をするにも笑顔だった。でも、その笑顔はしばらくして崩されてしまう。

 帰宅をしてお風呂を済ます。暖かい夕飯を温めて口に詰め込む。

 いつものようにテレビのリモコンを片手で持ち操作をする。チャンネルを変えているうちにニュースに行き着いた。

 興味深い番組がなかったので、ニュースを拝見することにした。

「続いてのニュースです。」

 母作のカルボナーラを口に運ぶ。

「近頃、ネット上で話題となっている募金サイト。警察は詐欺の疑いをかけ捜査を始めました。」

 目を見開く。フォークが指の合間から滑り落ちる。声にもならない声が漏れる。慌ててグラスに入ったお茶をこぼす。したしたと水滴が机にばら撒かれる。服が濡れる。

 その後もニュースキャスターは詳細を発信し続けた。頭に全く入ってこなかったが、画像なんかも放映され、明らかな僕らのサイトだとわかってしまった。ニュースキャスターによると、合計金額は、5000万円を超したらしい。

「どうしよう。」

 頭を抱える。ひとまず、お茶を布巾で拭く。それと同時に自分の心を落ち着かせる。大きく深呼吸をする。

 青年に連絡することはできない。今から行くか。いや、お母さんに迷惑はかけられない。僕が突如消えたら心配をかけるだろう。それに、もう警察が来ているかもしれない。彼の家に行くのは危険だ。

 僕は何をすべきだろうか。警察は捜査を始めたと言っていた。まだ僕らに辿り着くまでには時間があるだろう。

 何もできない。それを実感していたから、いつも通りに過ごした。過ごすつもりだった。でも、無理だった。寝てしまえば、考えなくて済むと、無理矢理ベッドに入るが、逆効果だった。何もすることがなく、不安は余計に募るばかりだった。

 時刻は7時を指している。誰かに助けを求めよう。母は距離が近すぎる。相談相手にはならない。連絡先を漁る。誰か良い人はいないだろうか。

「もしもし。」

 選ばれたのは颯斗だった。指が勝手にこの連絡先をタップしていた。

「話したいことがあるんだけど、今大丈夫?」

「いいよ。」

「家誰かいる?」

「いないけど。」

「行ってもいい?」

「いいよ。」

 簡単に手元にあったスマホと少々のお金を手に握ると家を出た。ご近所さんでよかった。歩いて5分もすれば到着する。なのに、日常生活では特に会わないのが不思議だ。

「両親は?」

 家に到着するとそれが一番初めに気になった。

「飲み会。」

 僕は運がよかった。神様に見放されたわけではなかったみたいだ。

 ほっと息をつくと、家にあげてもらう。

 何年ぶりだろうか。家具の配置もすっかりと変わってしまっている。それが時の経過を伝えている。

「随分と緊急みたいだけど、何があったの?」

 何から話すべきだろうか。少年は悩む。話したいことが山ほどある。全て正確に話し切れるだろうか。

「実は、親にも話してないことがある。」

 それから少年は全貌を明かした。

 あの日にあの青年に出会ったこと。詐欺のようなものの手伝いをしていること。父の現在を知ったこと。それにより、途中で自分の感情が理解できなくなったこと。ニュースで見たこと。

 何一つ隠さずに暴露した。幼い頃から信頼関係を結んできたから、この人なら大丈夫だと安心できた。颯斗の存在は大きい。

 颯斗はずっと真顔だった。感情を表に出さなかった。可哀想だとも驚いたとも言わなかった。壁に向かって会話をしているようだった。

 話終わると、先を急ぐように彼は言った。

「もう遅いよ。なんでもっと早く頼ってくれなかったんだよ。」

 まるで、全部知っていたような態度だ。

「話せないって。」

 だって、初っ端から万引きを実行したという話だ。その時点で相手を絶望させる。

「もしかして、前から知ってた?」

 颯斗は頷いた。当たり前のようだったから、反応に遅れた。

「え?嘘。」

「ほんと。」

 どうして?最近会ったのは一度だけだったのに。

「最初に違和感を感じたのは、まあもちろん、あの食事の時。実際に問い詰めたけど、否定された。」

 確かにあの時は否定した。だって、あまりにも突然だったから。それにまだ実行中だったから、バレるわけにはいかなかった。

「でも、明らかに動揺していた。だから、ある時、尾行させてもらった。」

 体がびくりと動く。知らなかった。意外と気がつかないものだ。

「そうしたら、お前はある家に入って行った。心当たりあるだろ。」

 心当たりありまくりだ。絶対あの青年の家だ。そこしかない。

「何してるのかは知らなかったけど、お前は食事の時に詐欺の話で異常に反応していたから、そんな感じのことを中でやっているんだろうなとは思っていた。」

 当たりだ。全て正解だ。

 颯斗は真顔で淡々と語る。そういえば、昔もこんな風に無表情だった。

「その日はそれで帰ったけれど、また次の日も同じように尾行した。行き先は同じだった。しばらく、見張っていたら、お前が出てって、あの人も家を出た。案外、不用心なようで、鍵を閉めていなかった。服装的に、遠出するようだったから、部屋内に侵入した。」

「それって不法侵入なんじゃ。」

 颯斗はなんてことないというかのように表情ひとつ変えなかった。万引きと良い勝負じゃないか。人のことを言えない。

「あの人モノマリストなの?」

「わからないけど、そんな感じだと思う。」

「ものが全くなかった。」

 本当に侵入したようだ。恐ろしい。躊躇もなく犯罪に近いことをしてしまうなんて。

「それで、あるものを置いて帰った。」

「あるもの?」

「あるもの。」

 思い返してみると、すぐに脳裏をよぎるものがあった。

「もしかしてナイフ?」

 一度だけ見せられた血液の付着したあの刃物だろうか。

「やっぱり知ってたんだ。」

 颯斗は感心したように頷く。

「え?あれ颯斗の仕業だったの?」

 予想もつかなかった。僕とは無関係だと勝手に考えていた。あの人個人の問題だと。

「手当たり次第に作ってみたんだけど、意外と本物っぽくできて自分でも驚いた。」

「一番は、反応が見たかった。あと、お前が彼を恐れて離れて行ってくれるかなと思ったけど、案外意思が強かったみたいで、全く離れる気配もなかった。」

 それは申し訳ない。まさか自分のためにやってくれたとは思いもしなかった。

「なんかごめん。」

 一応謝罪をしておいた。

「別に。」

 そんな反応をされると思っていた。

「でも、それだけじゃない。いざとなったら刃物のことで通報しようと思った。どうやって刃物の存在を知ったのかとか、色々と設定を考える必要があるから、まさに最終手段だったけど。」

 そこまで考えてくれていたなんて。僕の中のイメージは怖い兄だった。ちゃんと優しさも持ち合わせていた。

「でも、颯斗だって僕に直接聞いてくれたらよかったのに。」

 颯斗は首を振った。

「そんなのお前が何を考えているかなんてわからないから無理。聞いてもどうせ何も話してくれないだろうと思った。それに、あの人とそれなりに信頼関係とか主従関係があったのなら、壊そうと外部から手を貸すことで、もっと最悪なことに発展してしまうかもしれないって思った。警戒されると思った。」

 なんていうか颯斗は大人だと思った。そこまで先の可能性まで考慮することができるなんて。いつのまにか差が広がってしまった。昔は背も同じくらいだったのに。

「それであの人はどうゆう人なの?」

 どうゆう人か。何と説明したら良いのだろう。

「不思議な人。僕が可哀想だなって思うくらい狂わされた人。でも、危険な感じはしなかった。友達みたいだった。」

 友達。自分からそんな言葉が出るとは思わなかった。確かに母に言い訳するときは、友達だという体にしておいたけど、実際に友人ほどの関係だと感じていたとは。

「よくわからないけど、不審者じゃないみたいだからよかった。」

 颯斗は安心したようだった。

「それで僕はどうすればいいの?」

 ニュースのことをもう一度話す。大袈裟に言えば、警察に追われている。

「コンピューターをその人に貸したんだっけ?」

 頷く。今思えば不思議な話だけれど。だってあんなに機械に詳しそうなのだから、一つくらいは所有しているはずなのに。

「それじゃあ、サイトを作成したコンピューターをハッキングする方法で追ってくると思う。と言っても、実際に詐欺がと言われたら微妙なところだしどうなるかはわからない。」

 確かに僕らのサイトにも一応忠告はしてあった。全額負担してもらうと。小さい字ではあったけれど。

「一旦、明日、その人の家に行ってみるべきだと思う。一緒に行ってあげるから。」

 大きく頷いた。それが最適だと思う。しかし、一人では行く勇気がなかった。颯斗がいてくれると助かる。

「じゃあ、そろそろお母さんも帰ってくると思うし、一旦帰る。本当に助かった。ありがとう。」

 どれだけ救われたか。言葉じゃ表現しきれないくらい有り難い。悩みという類のものが全て掃除機で吸い取られたような気分だ。

 僕の帰宅の10分後くらいにお母さんも帰ってきた。いつも通りに接した。


 そして、翌日、颯斗と待ち合わせをしてあの人の自宅に向かった。夏休みは残り2日。

「緊張してる?」

 頷いた。確かに言動がカタコトだったかもしれない。先ほどから手汗が止まらないのだ。

 颯斗は一歩前を歩いている。

 心の準備ができないうちに、彼の家に到着してしまった。人気はなかった。まずは安心する。胸を撫で下ろす。

 アパートの2階だ。階段一段一段が高く感じた。

 颯斗が前に立ち、インターホンを押す。

 3回は押した。しかし、返事はなかった。

「おかしい。」

 颯斗は首を傾げた。そして、ドアノブに手をかける。次の瞬間、手首を横に回した。ドアノブはくるりと回り、戸を開けた。

 颯斗はいつもと違い驚いなような表情でこちらをちらりと見る。迷いもなく中へ入る。

 少年も小走りになりながら、リビングへと急ぐ。

「何もない。」

 そこには空間しかなかった。元々、家具が少なかったのに、さらに減少している。少ないどころか何一つとしてない。人が住んでいる気配もない。

「逃げられた?」

 その言葉で、唐突に現実に襲われた。

「え?」

 辺りを見渡す。

「僕のコンピューターだ。」

 部屋の隅にポツリと置いてある。少年は大事そうに抱えた。

 颯斗は髪の毛をくしゃりと掴んだ。

「やっぱり悪い人じゃん。」

 少年にはそれが理解できなかった。言葉の意味は理解できる。でも、この状況が理解できなかった。

「でも、あの人は、父親が自殺してその無念を晴らすためと言ったらおかしいけど、とりあえず理由があってお金を巻き上げていた。それに、いつもはちゃんと返金しているって。詐欺じゃないって言っていた。確かに異質な趣味だけど、悪い人じゃない。」

 少年は必死だった。でも、なぜこんなにも必死に彼の弁解をしているのか自分でもわからなかった。

「そんなのほんとなわけないじゃん。騙されてたんだって。何を根拠に信じてるの?」

 颯斗は冷静だった。確かに、全部嘘だって可能性はある。わかっている。でも、違う気がする。

「でも」

 わからない。あの人が何を目的として何に尽くしていたのか。本当のところはわからない。でも、彼を信じたい気持ちが僕の中のどこかにある。

「違うと思う。」

 颯斗は何も返さなかった。

 少年も疑心暗鬼になっていた。全部嘘だった?そんなことはあり得るのか。でも、確かに颯斗が言うように事実だという証拠があるわけではない。自分は騙されていたのだろうか。

「失望した瞳には僕の通じるものを感じた。父親が自殺したっていうのは本当だと思う。」

 現実の二文字が重荷となり肩に襲いかかっているようなそんな表情は忘れられない。諦めてしまったかのような。

 あの表情が嘘だと言うのなら、僕はもう、何も、誰も、信じられない。

「現実を見た方がいい。」

「その人は、君じゃなくて君のコンピューターを買ったんだ。」

 少年じゃなくて、コンピューターに価値を感じた、ということなのだろうか。

「違う。」

 否定した。でも、何も根拠がない。自分を貶されているようで瞬発的に否定してしまった。

 少年は部屋の隅に縮こまる。颯斗は辺りを捜索し始めた。

 考えることが多すぎる。

 自分に嘘をついたところで何になる。自分には正直になろう。

 きっと、万引きの動画を撮影されていたから、自然と脅されている気分になっていたのだろう。だから、従うを得ないと勝手に思っていたのかもしれない。まあ若干、興味が湧いていたのは事実だけれど、何か従わざるを得ない空気を感じていた。

 それと、あの人が僕を選んだのには特に理由があったわけではないのだろう。僕の名前が登録されたコンピューターと、彼の代わりに犯人となる人間が欲しかっただけに違いない。それが誰なのかはさほど問題じゃなかったはず。いや、問題だったのかも。自分の正体を見破られないように、僕みたいな知恵のない人間を選んだんだ。

 それが悔しかった。この感情が正解なのかわからなかったけど、あの人に認められなかったことが悔しかった。なんて考える自分もすでに狂わされているのだろう。

 やっぱり敵わない人だ。

「颯斗の言う通りかもしれない。思い返してみれば、いつも手袋をはめていた。指紋を残さないようにしていたんだと思う。」

 でも、僕に話してくれた家族の話は本当だと思う。少なくとも僕はそう信じている。口にしたら否定されるだけだから、心の中に留めておこう。

「僕はこれからどうなるのかな。」

 不安しかなかった。母をきっと悲しませる。警察ごとになるのは間違いないから。

「わからない。でも、他人の誘惑に頼ることしかできないほど、お前は一人じゃない。だから、間違っても同じことを繰り返すな。」

 その言い方が命令じゃないか。

 でも、一人じゃないと言われたのが嬉しかった。心強かった。笑顔と同時に涙が溢れる。

「ここに来た証拠を残したら困るから今すぐ拭いて。」

 颯斗もそう言いながら笑っていた。


 颯斗には、僕は間違っていた道を選んだというような言い方をされたけれど、悪いことばかりじゃなかった。夢に向けてのスタート地点を見つけることができた。これは僕にとっては、大きな一歩だ。

 そして、すっかり頭から抜けていたけれど、割と頑張って稼いだ5000万くらいがゼロになってしまった。まあ半分くらい置いて行ってくれたとしても、詐欺の証拠になってしまうし、お母さんに説明もできないし、困るのだけれど。これからは、真面目に働かなくては。夢のためにも。

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