第四章


 少年は、四時ごろの生暖かい風に包まれながら、帰路に着く。

 これから共に食事をするのは、お母さんの高校の同級生、佳澄かすみさん家族だ。半年に一度くらい母と佳澄さんはレストランで日頃のストレスを発散する。僕は、なんとなくそれについていく。一番の目的は、ご馳走だけど、母同士の愚痴を聞くのもなんやかんや言って楽しい。お母さんの新しい一面を知れる気がするから。こんなふうに思っていたのかと。

 佳澄さんには、三つ上の息子がいる。颯斗はやとという名前だ。小さい頃はよく遊んでくれたみたいなのだが、残念ながら記憶にない。ただ、今もなんとなく呼び捨てで呼んでいるので、かなり仲がよかったのだろう。写真でしかその様子を思い描くことはできないが。

 最近は、あまり会話することがないが、兄的な存在としてある程度は慕っている。しかし、向こうもこちらも思春期なので、仲良く接することはできない。お互いに社交的な性格ではないのも、一つの要因な気がする。

 珍しく早めに仕事を切り上げたお母さんと準備をし、自動車に乗ってレストランまで移動した。ビルに入っているレストランなので、ビルの地下駐車場に駐車した。とてつもなく高級レストランというわけではないが、基本的に外食はしない我が家にとっては、非日常の空間だ。天井が高い。カーペットが心地よい。この特別感も意外と気に入っている。余分なほどに定員がいる。

 四角い茶色のテーブルに案内されると、すでに向かい側に二人がいた。佳澄さんと颯斗だ。

「美和ちゃん久しぶり。」

 みわというのは、母の名前だ。

 久しぶりに顔を合わせた興奮を隠しきれない母の横で礼をする。

 佳澄さんは何一つとして変わっていない。お母さんだけが老けていく気がする。こんなこと、面と向かっては言えないけれど。

 颯斗は少し背が高くなったのだろうか。座っていてよく見えないが。大人びた表情に驚く。

 人見知りなのは颯斗も同じで、気まずい空気が流れる。極力、目を合わせないようにする。やっぱり来ない方が良かっただろうか。

 ぼちぼちと目の前に置かれていく食事をつつく。中華料理だ。独特な味わいが口の中に残る。時々思うのだが、美味しいと思って口に入れたら、どんなものでも美味しく感じるのだろうか。正直、僕には日常の食事とこの食事の違いがさほどわからない。全く同じとか言い切れないが。

 母同士は会話に花が咲いたみたいで、上司の愚痴や懐かしの習慣なんかについてネタ切れすることなく語っている。僕らは、時々自分の話題が出ると、ちょこっと付け足すくらいだ。最近の成績とか、僕の趣味とかをべらべらと話す。別に嫌じゃないけど、なんだか恥ずかしい。親バカみたいだ。でも意外と嬉しい。だって、佳澄さんは褒めてくれる。お母さんはそうそう褒めないのに。

 ちびちびと水を飲んでいると、突然の衝撃に襲われた。

「そういえば、この間、詐欺にあったみたいなのよ。」

 少年は、その言葉に異常に反応する。危うく手にしているグラスを落とすところだった。ゆっくりと持ち直して、耳の辺りを触れる。何事もなかったかのように食事を進める。しかし、意識は佳澄さんの声に向けられている。

「私は、本当に詐欺なのかわからないんだけど、友達に説明したら詐欺だって騒ぐのよ。」

 お母さんはわかりやすく驚いた。その表情を二つの目でしっかりと捉える。やっぱり驚くか。

「いくら盗られたの?」

「大したことないのよ。ほんの100円ちょっとで。」

「どうゆう詐欺なの?」

 母は興味深々のようだった。もしかして気がつかれたのだろうか。いやそんなわけはない。何も彼女に明かしていないのだから。隣の少年も次の言葉を静かに待っている。

「なんかね、インスタで友達から壁紙をプレゼントされたの。それで開いてみたら、単なるプレゼントではなく商品だったみたいで、せっかく作ってくれたから試しに買ってみたの。感謝の気持ちも込めてその友達に連絡してみたの。冗談も言えるような関係の友達だったから、『プレゼントなのにお金取るの?』って送ってみた。そうしたら、反応は意外で、彼女に送金されたわけじゃなかったみたい。それじゃあ私の100円はどこに行ったのって話よねって詐欺とかに詳しい友達に相談したら、それはきっと詐欺だって言うのよ。どう思う?」

 少年は、震えが止まらなかった。周りの世界は通常通りに動いているのに、自分だけが異なる世界で怪物を見ているかのように錯覚した。腹部からの発汗が止まらず、深呼吸をする。痺れる右手を左手で押さえつけてなんとか誤魔化そうと試みる。

「確かにおかしいけど、そんなしょぼい詐欺やるかね。」

 しょぼい詐欺。思わず反論しそうになってしまった。危ない。口を抑える。

「そこなのよね。わざわざここまで作り込んで、100円なんて変よね。」

 やっぱりそこが引っかかるのか。

「それで何かしたの?警察に届けたとか。」

 応急処置で落ち着かせた体も再び叫び出した。警察という言葉に反応したようだった。目線が定まらない。鼻を啜る。

「いや、流石に警察に届けのは大袈裟だからね。100円だし。」

 佳澄さんは躊躇してくれたみたいだ。ナイスすぎる。神様を拝むかのような視線を向ける。

「でも、代わりにこうゆうのを取り上げるYouTuberがいるんだけど、彼にDMを送ってみたの。まだ何も反応はないけどね。」

 不幸中の幸いと見るべきなのか、大ピンチと見るべきなのか。警察よりはマシか。

「それ大丈夫なの?聞くだけだと危なそうだけど。」

「まあこっちの個人情報は与えてないし。」

 そこでこの話題は通り過ぎた。心を落ち着かせながら、食事を進める。心臓が飛び出るかと思った。身内に責められるのが一番怖い。見知らぬ人に怒られたところでダメージはあまりないのだけれど。

 会話の中心にいた母二人は、僕の異変に全く気がついていないようだった。しかし、真正面から視線を感じた。何か勘付かれたのだろうか。不幸にもその予想は的中してしまった。

 スマホがバイブし、画面をクリックして通知を確認する。颯斗からメッセージが送信されたみたいだった。

『話したいことがあるから、一回ここ出よ。一階したの本屋に行く口実で席立つからそれに続いて』

 颯斗は少年がメッセージを確認したことを見届けると、宣言通り席を立った。それに続いて少年も後を追う。

「話したいことって?」

 もちろん本屋なんて興味がないので、ベンチに腰掛ける。颯斗が先に座ったから、その隣に座る。

「さっき詐欺の話が出た時の挙動が不自然だったけど、何か関係してるの?」

「そんなわけないじゃん。」

 考える間もなく咄嗟に言葉が出た。否定の言葉だった。相手が言い終わるよりも早かったかもしれない。

「それなら別にいいんだけど、それが本当なら。」

 颯斗は目を細めた。そこに笑みはなかった。明らかに疑われている。ここは、否定しなければ。

「第一、僕にそんな技術はないでしょ。人を騙すような。」

 苦笑いをしながらそう続けた。その後の沈黙で逃げ出したいくらい鳥肌が立った。怖い。颯斗は何か考え込んでから口を開いた。

「別に直接詐欺をしたと疑っているわけじゃなくて関係しているのか尋ねたつもりだったんだけど。」

 まただ。再び自分で墓穴を掘った。何をやっているのだろう。自分が馬鹿馬鹿しい。

「そっちね。」

 安っぽい演技で誤魔化す。全く自分は何をしているのか。

「まあ大したことじゃないんだけど、今学校で詐欺についてちょっと学んでるから、親近感が湧いて驚いただけだよ。」

 信じようがない理由だけど、即興で思いつくのはこれくらいだ。どうか信じて欲しい。

「本当に関係ないならそれが一番なんだけど、明らかに不自然だったから聞いてみただけ。その理由に信憑性があるのかはわからないけど、困ってないならとりあえずいいや。」

 どうやら今回は見逃してくれるみたいだ。胸を撫で下ろす。その様子を怪しまれていないか、隣を確認する。

「何か話したくなったら連絡して。」

 そう言うと颯斗戻っていった。僕も後に続く。ため息を一つつく。

 彼のこの行動は優しさで出来てるのか、好奇心によるものなのか。それとも、僕を焦らせたいだけなのか。颯斗もあの人と一緒で読めない。前はもっと親しかったはずなのに。色々と話せていたはずなのに。お母さんによると。

 それからは特に何もなく家に帰った。しかし、颯斗の問い詰めるようなあの顔は記憶に居続けた。忘れたくても残り続ける。

 お風呂に浸かりながら考える。

 今から引き返そうと思えば、それは可能なのだろうか。今、ここで手を引けば、許されるのだろうか。大丈夫なのだろうか。許されるって一体誰に?わからない。

 それとも、もう手遅れなのだろうか。すでに、危険区域に足を踏み入れてしまったのだろうか。地雷を踏みつけてしまい身動きができないのだろうか。

 結局は全て自分の気持ち次第なのだろう。しかし、その選択権を感情という不安定なものに与えるには重すぎる。

 自分の本心がわからない。誰かわかるのなら教えてほしい、なんて無理か。

   

 数日後、あの人にこの一件を明かすか迷ったけれど、やはり黙っていることにした。

 そこそこ親しく接してくれているだけで、他人であることには変わらない。向こうも興味ないだろうし。母の友人が詐欺に引っかかったことなんて。

 それでも、家には通い続けた。もはや日課のようになっていた。当たり前のように家を出て、いつもの道を辿る。

「ねぇ見てこれ何かDM来てるよ。」

 青年は呑気にそう言う。少年にもその穏やかさは伝わり、平然とした顔で少年は近づく。首を傾げながら。

「誰からですか?」

 画面に表示されたアカウントを見る。

「あ、この人知ってる。」

 少年は呟いた。炎上した動画や、話題になっている有名人を取り上げるYouTuberだ。確か『リビルチャンネル』といった名前だ。

「このURLはこのYouTuberの動画ですかね。」

 青年は、顔を歪ませた。宣伝だったとしても、このある意味公式なアカウントにURLを送信することがあるだろうか。間違えて転送してしまったとは考えにくい。何か意図を持って見せつけられているのだろう。嫌な予感がする。

 URLをクリックすると、案の定彼のYouTube動画に飛んだ。

「どうやらこれから生放送が始まるみたいだ。」

 二人はまじまじと画面を見つめた。カウントダウンがされて動画がスタートする。視聴者はそれなりにいる。10万人弱くらい。意外と人気なようだった。

『どうもお元気ですか?リビルチャンネルです。』

 高らかな挨拶から始まった。決まり文句なのか流れるような挨拶だった。YouTuberらしき振る舞いだ。

『さて、今回はですね。とあるDMが届いてまして、それを紹介したいと思います。』

 青年は顎を右手に立てかけながら聴いている。少年はその後ろから覗き込んでいる。そろそろ腰が痛み始めたみたいだ。

『その方の話によると、友人からプレゼントとしてスマホの壁紙がデータとして届いたらしいんですよ。しかしですね、それは無償ではなく有料だったんですね。ねー酷い話でしょう?』

 雲行きが怪しくなってきた。二人は目を合わせると、何かを伝えるように瞬きをした。青年はため息をつき、少年は自分の手を握った。

『結局、その方は購入されたみたいなのですが、不自然に感じてプレゼントをくれた相手に連絡してみたらしいんですよ。そしたら、1円も送金されてないって。その方は詐欺なんじゃないかと疑っているわけですね。』

 少年は、目を泳がせた。もしや、そのDMを送ったのは、佳澄さんか?思い返してみれば、YouTuberにDMを送って告発したと昨日話していたような気もする。

 佳澄さんの名前は挙げない方がいい。彼が逆ギレして佳澄さんに害が及んだら申し訳ない。彼女は本当に何も悪いことをしていない。

 その後もこのYouTuberは概要とタラタラと喋り続けた。2、3分はあっただろう。

『というわけで、その詐欺容疑のあるアカウントを晒します。はい、どうぞ。』

 次に表示されるであろう画面を待ち望む。期待というより焦りが大きかった。

 画面が切り替わった瞬間、準備をしていたかのように声を上げる。

「これって」

 少年が指差した先には、一つのアカウント名が表示されている。

「僕らのだ。」

 青年は冷静だった。冷静すぎて逆に心配してしまう。他人事のようだから。

「これ大丈夫なんですか?」

 少年は明らかに動揺している。自分の身の危険を感じているようだ。

「別に問題ない。別のアカウント作れば。」

 少年はそうなのかと納得したが、本当にそれで解決するのだろうか。頭を悩ます。

『みなさんも気をつけるように。まあうても、彼女が奪われたのはほんの100円なんで、きっと度胸のない奴らですけど。』

 YouTuberが笑顔で毒を吐くと、青年は画面を笑顔で睨みつけた。不意に首元に突っ込まれる氷のような衝撃があった。

『お、今ゾクゾクとDMが来ています。彼女の他にも釣られた方が何人かいらっしゃるみたいです。』

 確かに次々の流れていくコメントの中にも、当事者のような書き込みがいくつかある。

「むかつくね。この人。」

 それは同感だった。喋り方一つ一つが癪に触る。内容的には、反論できないくらいこっちが悪者だけど、むかつき具合的には負ける。

「これで金稼いでるのがさらにきもい。」

 青年の顔を覗き込む。最大限に怒りを抱えているのかと思いきや、いつもの平穏さを保っている。

「どうしようか。」

 その時の彼は悪い顔をしていた。


 リビルはDMを漁っていた。何か動画で取り上げられるようなネタはないだろうか。今日はあまり収穫がない。何かしらしょうもないネタでもいいから見つけないと、登録者数が減少してしまう。毎日投稿を絶ってしまえば、自分に飽きた視聴者が離れていくのが目に見える。狂いそうになりながら、検索をする。

 その時だった。着信音と共に届いたのは、ある一つのマッサージだった。

「これ、この間の。」

 彼が以前に取り上げた詐欺グループからのメッセージだ。復讐か何かだろうか。この仕事を続けている以上、人から嫌われることには慣れている。

『この間の生放送拝見させていただきました。大変興味深い内容で感銘を受けました。あなたの情報収集能力と迷いのない発信力には参ります。そこで提案があるのですが、勝負事はお好きですか?もし私に勝つことができたら、繋がりのあるジャーナリストからの特大ネタをお教えします。あなたにこのネタを受け渡す素質があるかどうかのテストをさせてください。しかし、私があなたを負かすことができたならば、前回の生放送の内容は撤回してください。』

 リビルは、ニヤニヤと手に収まる電子機器、スマホを見つめている。

「こいつは馬鹿なのか。」

 この勝負、乗るしかない。たとえ負けたとしても、前回の発言を撤回するくらい大したことない。金銭的に考えても、一度収益として得たお金が奪われるわけでもない。そして、勝つことができたら彼の言う特大ネタがいただける。それに、この勝負自体がネタになる。この誘いを無視する理由がない。

『面白いです。その勝負にのります。ところで、何で勝負しましょう?』

『あなたの動画を拝見させていただいたところ、ゴーカートゲームが得意なようですね。実は、私もそれなりに実力があるもので。お互いに得意ゲームである方が、平等で盛り上がるので、ゴーカートゲームはどうですか?』

 リビルは、動画外でもゴーカートゲームの腕を磨いている。正直、負ける気がしない。これだけは他の何よりも自信がある。

『やりましょう。ゴーカート。』

『ありがとうございます。時間帯はこちらで指定させてください。明日の午後1:00からというのはどうでしょうか。ご都合いかがですか?』

『明日の午後1時からですね。空けておきます。ちなみに、その様子を動画にして公開してもいいですか?』

『もちろん。それならば、生放送はどうですか?一般公開の動画だと盛り上がりに欠けます。もし、編集を加えたい、もしくは、ボツになる可能性がある、とのことでしたら、生放送じゃなくても結構ですけど。』

 生放送か。リビルは文字を打つ手を止めた。確かにリスクはある。負けたらだらしがない。しかし、最後の一文が鼻にかかる。こちらだってそれなりに自信はある。それならば、正々堂々と生放送で戦って勝つのが勝負強いYouTuberだろう。

『そうですね。生放送にします。』

 若干乗せられた気がするが、勝てば何も問題がない。

『いつもゲーム機でやられているようですが、生放送ならwebバージョンの方が安定していますし、カメラにも繋がりやすいと思うので、こちらの方が良いでしょう。操作もさほど変わりません。フィールドはこちらで設定しておきます。なので、当日送信するURLに1時に入ってください。』

 webバージョンか。やったことはない。しかし、周りの話を聞く限り、差異はあまりないらしい。きっと大丈夫だろう。

 フィールドというのは、対戦場所や制限時間、使えるアイテムの設定などだ。それが直接勝ち負けに影響するかと言われたら、しない。結局は実力次第だ。だから、相手に任せてしまってもいいだろう。

『了解しました。それでは、明日よろしくお願いします。』

 取引は終了した。その後は特に予定もなかったので、ひたすらにゴーカートの練習をした。こんなに刺激的な気持ちになるのは久しぶりだ。


 翌日。約束の13:00。

 いつも通り、撮影用のゲームチェアーに座る。結局、昨日は5時間近くゴーカートをしていた。オンラインでやったものは、どれも一位。きっと平気。

 昨日から予告していた生放送を15分前にセットする。まだカメラは回っていないが、すでに何人かの人が動画に入っている。その数は、約束の時間に近づくほどに増加していく。

『詐欺グループからゴーカートで勝負を申し込まれました。』

 そのタイトルが人々の興味を惹きつけるのだろうか。生放送というのも、やはり鍵だったのだろう。

 なぜか異常に緊張している。幼稚園の頃にやったお遊戯会なんかよりもよっぽど。あのときはあのときで心臓が飛び出てしまいそうだったのだが。コップに注いだコーヒーを飲んで心を落ち着かせる。いくら勝負事とはいえ、ただのゲームだ。なぜここまで手が震えるのか。

 1分前。DMの画面は極力見せるなと言われているので、事前に添付されたリンクに飛んでおく。簡単にログインをした。メールアドレスなどが求められるので、生放送前にログインしておくことを推奨された。結局、時間通りにはいかず、1分遅れで生放送を開始した。すでに、相手はゲーム内に入室したみたいで、ゲームスタート待ちの状態だ。

「どうもお元気ですか?リビルチャンネルでーす。」

 カメラに向けて喋るというのは、慣れないものだ。補足すると、カメラの向こう側に何人もの人がいるということが未だに信じられない。つい、一人の空間だと感じてしまう。そのため、生放送中は特に身を引き締める。

「皆さん休日はどうお過ごしですか?」

 もちろん何も返ってこない。時々、自分の頭がおかしくなったんじゃないかと錯覚する。誰もいない空間に話しかけていると。

「まあ余談はさっさと終わらせてと皆さん思ったいると思うので、早速本題に参りたいと思います。」

 視聴者が求めているのは、自分の余談ではなく、本題の勝負だ。

 マウスで画面を変える。表示されたのは、ゲームスタートの待機画面。いよいよ始める。

「はい、ということですね。今回はタイトルにもある通り、ゴーカートで詐欺グループに決着をつけたいと思います。実はですね、昨日唐突にDMが来まして、悔しいから勝負がしたいと。随分と幼稚な理由だなとは思ったんですが、まあこの勝負には乗らないわけがないでしょ、ということで、勝負することになっちゃいました。」

 つい、話を誇張してしまう。話しているうちに自分を擁護したいのか相手を悪者に作り上げる。きっと、根底にある理由は、面白いと思われたいってことだろう。生正直な理由を話したところで面白くない。たとえ事実とはかけ離れてしまっても、面白さを追求する必要がある。

「まあでも、ゴーカートには自信があるので、割とそこそこの勝負はできると思います。ぜひ応援よろしくお願いします。」

 なんて保険をかける。割とそこそこ、なんて変な日本語だ。

「いつもは、ゲーム機バージョンでやっているのですが、今回は相手の指定もあってスマホバージョンでやっていきたいと思います。」

「それじゃあ、早速いきましょう。」

 そう言って画面をタップする。

「今回は三番勝負です。」

 自分のカートはスタート地点に立っている。ここからカウンドダウンで始まる。

 画面に映された全ての記号や文字、模様に集中する。上には、残りの充電と1:13という時刻、アンテナマークが表示されている。そして、その下には、フィールドに映る自分のカート。周りには、カラフルな装飾。これはきっと、レインボーコースだろう。一番得意だ。しかし、ここは裏道がない。スピード勝負だ。

『3、2、1、ゴー!』

 その効果音と共に、カートを走らせる。スタートダッシュは上手く行った。まずはこのまま一位を死守する。フィールドから落下しないように注意を払いながら、できる限りのスピードで風を切り突き進んでいく。

 スマホ版は思ったよりも車体が左右に動かない。それが操作を楽にさせている。最高のコンディションで最高のパフォーマンスをできた気がする。終わってみれば、一位。振り返れば一瞬だった。とりあえず、深呼吸をした。

 集中しすぎていたせいか、視聴者を置いてきぼりにさせていたことに気がつく。

「なんとか無事に勝つことができました。」

「もうあと2試合あるので、続けて頑張ります。」

 同じように全力を尽くした。大学受験の試験よりも集中していた気がする。そりゃあそうだ。こちらの面目に関わる問題だ。じゃあなぜ誘いに乗ったのか、と問われてしまったら答えられないけれど。

 結果は、全勝。意外にも簡単に勝ってしまった。次は逆に撮れ高の問題を気にしてしまう。でも、全てギリギリのところで勝利したので、ある程度の撮れ高はあっただろう。

 コメントを確認する。

『やっぱリビルつよ』

『爽快感あるわw』

 よかった。幻滅されていない。お客さんあっての仕事だから、彼らに満足してもらえなければ、仕事として成り立たない。

「ということで、詐欺グループは成敗しておきましたので、みなさんご安心ください。それじゃあまた。明日の動画で会いましょう。」

 動画を締め、生放送を終了した。

 深く深くため息をついた。大きく伸びをすると、立ち上がり、コンビニにお菓子を買いに行く。

 とりあえず、勝利できて良かった。


「生放送終わりましたよ。何も起きませんでしたけど。」

 少年は、心配そうに声を薄くしながら呟いた。ご馳走になったピザをちょうど食べ終えたところだった。ごくごくとお茶を飲み干す。

 青年は事前に何も教えてあげてくれなかった。生放送を見てみてとだけ伝えられていたので、その通りにした。

「まだ何も起きない。これから。」

 青年はそう言って画面を見つめる。今の生放送に何が隠されていたのだろうか。少年は首を傾げる。

 空気が静まった。少年は、期待するような目で青年を見つめる。

「言っておくけど、そんなすぐに起きるものじゃないからね。そんな目で見ないで。」

 期待に逸れるのがくすぐったいのか、青年は顔を背けながらそう言った。

「じゃあ、いつになったら仕掛けは発動するんですか?」

 青年は少し悩んでから口を開いた。

「誰かが気がついてくれたら。もし誰も違和感に気がつかなかったら、視聴者になりすまして告発するけど。」

 まだ先が長くなりそうだ。

「多分、1日もすればこの生放送は忘れ去られるだろうから、今日中に誰も気がつかなかったら、自分からコメントする。」

 そう長くもないみたいだ。1日で忘れ去られてしまうものなのだろうか。最近の人はせっかちだなと思う。

「じゃあ、聞きたいことがあるんですけど、今聞いてもいいですか?」

「どうぞ。」

 青年は、こちらに顔を向けた。緊張する。

「どうして、このリビルって人を嵌めようとしたんですか?」

 返事がないので不安になる。無言というのはこれほどまでに人を傾かせるのか。

「人はものを購入するとき、一度自分に交渉する。買いたいという欲を自分自身で押さえつけながら、それに価値があるのか、考える。」

 それが今回の件とどう繋がりがあるのだろう。関連性の見えない話に驚く。自分の質問は無視されたんじゃないかと思う。

「時々、YouTuberなんかがしょうもないものを買うことがある。何でこんなものを買うのだろうか。そう思うが、彼らにとっては価値があると自分に交渉して買わせてもらえたのだろう。動画にすることでどれくらいのお金を儲けられるかどうかということは関係ない。儲かる可能性があるという要素一つだけで自分を説得させられたから好奇心に引っ張られ購入したという具合だ。」

 それはわかった。YouTuberの特性はわかった。しかし、それをなぜ今?

 少年は恐る恐る呟いた。

「それを僕に伝えるためだけに?」

 青年はいたずらな笑みで頷く。

 いやそれはおかしい。だって別にそれなせなら彼を嵌める必要はなかった。実際にどうやって騙したのかはわからないけど。この内容だったら今のように口で説明されただけでもわかる。どう考えても、それっぽい理屈を説明して僕を納得させるための手段にしか見えない。

「もしそうだとしたら、相当遠回りじゃないですか?だって、口の説明だけで伝わる。」

 青年はため息をついた。

「だから、前言ったじゃないか。ムカついたからだって。」

 結局その理由だったのか。もっと他に理由があるのかと思ったけど。

 やはり僕が考えた通り、それっぽい理由を代わりに並べただけだったのだろう。今の意味不明な語りは。

「いつもの悪趣味ですか。」

 青年は黙り込んだ。そして、しばらくして反抗しようとぼそぼそと話し出す。

「君は知らないだろうけど、古代ローマのエンターテイメントの方がよっぽど悪趣味だから。だって、罪人と猛獣を戦わせ、目の前で猛獣に肉を引きちぎられる人間を見て歓喜をあげるんだから。」

 その話はどこかで聞いたことがある。残酷な話だと思う。でも、それが彼らの中の常識なのだったら、自分も溶け込んでいただろうと思った。価値観は周りに左右されることが多々ある。

「確かにそう考えると、まだあなたの方がマシですね。」

 マシという言い方が気に入らなかったのか、青年は背を向けた。

 

 少年は、持参している暇つぶしの本を開きながら、二人の関係が不安定になっていることに薄々気づき始める。それが、価値観の差の表れなのか、仲が深まった証拠なのかはまだわからない。

「まだ誰も気がつかないんですか?」

「そうみたい。」

 時刻はすでに5時を過ぎていた。日も1日の業務を終え、地球にさようならの挨拶をする。

「そろそろコメントしてみてもいい頃じゃないですか?」

「そうだね。リビルの動画は、誰も集中して見てなんかいないってことがわかった。」

 青年は嫌味を堂々と言う。それが清々しくもあるが、裸になった感情に恥ずかしさを感じる。

「君は何か気がついた?」

 思い返してみる。一応集中して違和感を探していたのだが、至って普通の動画のように思えた。

「いや何も。」

 青年はニンマリと笑った。

「それじゃ君もまだ未熟だ。」

 その通りだ。まだ成人していないのだから、未熟なのは当たり前だ。

「結局何を仕掛けていたんですか?」

 少年はせっかちだった。

「簡単に言うと、あの場で実際に勝負はしていない。リビルは勝ってもいないし、負けてもいない。」

 その言葉を何度も咀嚼する。しかし、意味がわからなかった。その様子を見て、青年はにたりと笑った。

「リビルが生放送を通して、視聴者に配信したゴーカートの映像は事前に録画していたものだ。ゲーム中の映像以外は正真正銘の生放送だと思うけど。」

 わかったようなわからないような。

「それはリビルがやったんですか?」

 そうだとしたら一体何の目的で?

「いや、彼は何も知らない。純粋にゲームで僕に勝ったと思っている。」

 しばらく考えていたけど、諦めて顔を上げると、青年の顔があった。

「あの動画は、事前に僕が撮影したものだ。URLで送ったのは、web版ゴーカートのページじゃなくて、僕が作ったページ。といっても、作ったのはログインページとスタートするまでの待機のページだけだけど。」

「そんな。」

 少年は驚きが隠せない。清々しいほどの騙しように惚れ惚れしてしまうほど。

 どれだけ巧妙な技術を持っているのだろうか。

「彼の動画で癖は掴んだ。得意なのはレインボーコース。ここは10回やったら10回、同じようなやり方で一位を取っている。それにこのコースは裏道がない。選択肢が少ないものを選んだ方が良いから、その点でも最適だ。」

 少年は、彼の思考回路に圧倒させられた。

「どうせ最初は無駄話をするだろうから、そのときようの画面も作っておいた。ログインするページの次に、ゲームのホームを作る。そこできっと5分くらいは話すだろうから。時間だけ経過させておき、その画面の中心を押せばすぐにゲームが始まる仕組みにした。まあ今回はゲームじゃなくて動画が再生されるのだけれど。そして、動画がスタートすると、それとは別に先ほどの続きから時間が経過されるようにすればいい。」

「なるほど。」

 わかった風の相槌を打ってみたけれど、一つ一つをかいつまんで理解するには時間がかかる。おおよそのことはわかった。

 この人がとてつもない技術者だってことはわかった。最初に出会ったときに、ほぼ初心者だと嘘をついたのはなぜだろう。

 しかし、何か腑に落ちないのは、これらが全て彼の中のちょっとした憎しみを解消するだけのものだってことだ。この技術と賢明さを何か良い方向へ使えないだろうか。

 残念な人だ。

「でも、この仕組みを世に発表したところで、言わば彼も被害者ですよね。あなたが批判されるんじゃないですか?」

 騙されていたのは彼も同じ。

「やっぱり未熟だ。」

 やれやれと言うかのような表情で少年を見つめる。

「目的を改めて確認すると、視聴者を離れさせること。ゲームで正々堂々と勝負をして負かさなくても、ずるをして騙していたという方が衝撃がより大きいだろう。」

「全部リビルの自作自演の仕業にすればいい。」

 それができるのなら、それでいいが、一体どうやって?

「どのような方法でそのようなことを?」

 青年は、黙り込んだ。そして、何か作業を始めたようだった。結局、方法がないんじゃないかと少年は失望する。しかし、渡されたのは、iPadだった。

「もう一度、生放送のアーカイブを見てみて。」

 表示されているのは先ほどの生放送。期間限定でアーカイブが残されているらしい。これもこの人の指示なのだろう。

 動画を再生する。仕組みを説明されたところで、違和感は見つからない。本家との違いがほとんどない。いくら熱心な利用者でも気がつかないだろう。

 ゲームがスタートする。いくら注意を払った隅々まで違和感を探しても何もない。

 その様子を微笑みながら見られているのが悔しい。でも、馬鹿にするような視線を感じるということは、すでにその仕組みの片鱗が現れているのだろうか。

「もういい。」

 唐突にiPadは取り上げられる。

「この続きをいくら見たところで、意味がない。」

 やはり、すでに手掛かりは現れていたのだろう。

「意外と気がつかないものなんだ。」

 まるで実験台にされたようだ。癪に触る。

「君はこのゲーム内の動画の中にヒントが隠されていると思っているんだろう。でも実際には違う。」

 それならどこにヒントが隠れているのか。

 青年はiPadの上の方を指差す。指し示されたのは、充電残量、時間表示、ネット環境などだ。その中に何が隠れているというのか。

「もういい?」

 悔しいけど、何も思い浮かばない。

「時間。よく考えてみて。」

 時間?1:05と表示されているけれど。

 青年は呆れながらホーム画面を押す。

 すると、表示されるのは、18:22の文字。

「わかった。」

 少年の弾けるような声に、青年は耳を抑える。

「本来なら13:05と表示されるはずだってことですよね。」

 青年は大きくため息をついた。そして、見上げるように少年を見つめる。

「遅すぎる。もっと早く気がついてもおかしくないのに。」

 やはり自分はまだ未熟なのだろうと少年は実感する。

「馬鹿ですいませんね。」

 馬鹿にされて嬉しいわけがない。

「いや別に馬鹿にはしてないけど。」

 本心では脳がないやつだと思っているに違いない。

「それで、その内容をコメントするんですよね。」

「そう。そうしたら、視聴者は動画は全て意図的に作られたものなのだと感じる。実際にはそうじゃなくても、大衆によって価値がないとそう評定されてしまったら、ゴミ以下のものになってしまう。」

 リビルも可哀想だ。この人ではなく彼に同情する。一度取り上げて、少し嫌味を言っただけで完全な悪者にさせてしまうなんて。

「馬鹿にされたことがそんなに気に食わなかったのですか?」

 このような質問を以前にもした気がするが、もう一度無意識に訊ねるということは、自分の中でそれだけ納得できないことなのだろう。理解しにくい感情なのだろう。

「怒りの感情だけで、ここまではしないけど。だから、前にも言ったじゃないか。暇つぶしだ。」

 青年は、正確に自分の感情を理解していた。きっと、怒りなんてその場で冷めるくらいの些細なものだ。しかし、自分が被害者になり、いわば復讐の形で相手にやり返しすることにより、誰かからの同情を得たいだけなのだろう。それが可能な相手を選んでいる。正直、標的なんて誰でもいい。せめて、やられたからやり返すという形を取ることで、美化しているだけだ。納得させたい誰かというのは自分自身かもしれない。個人的な欲を満たすために、自分を説得させて許可を得るなんて馬鹿らしい話だけれど。

「まあいい。とりあえず、コメントするから。」

 青年はぽちぽちとコンピューターを操作し、あっという間に矢は放たれた。

 そして、飲み干したコーヒーカップを片付ける。ため息をすると、少年に向き直った。

「そんな犯罪者を見るかのような目を向けられたら、悪いことをした気分になるじゃないか。」

 死にかけの蟻を見下すような憐れみも感じる。とりあえず気持ち悪い。

「それくらいにはなってください。」

 少年は自分にしか聞こえないくらいの声の大きさで呟いた。

「なんて言った?聞こえなかった。」

「別に結構です。」

 もう一度口に出すことを拒んだ。彼に伝えることが目的じゃない。心の容量がオーバーして、言葉が漏れただけだ。

「それじゃあ、僕はもう帰ります。」

 その言葉を最後に、部屋の中に再び沈黙が流れた。YouTubeを再生して、静寂を誤魔化す。リビルは嫌いだが、YouTubeは嫌いじゃない。

 少年は颯爽と帰っていった。何がそこまで気に食わなかったのだろう。一応、多様性の時代じゃないか。そんなキャッチコピーに頼るのは虚しいが、実際認めてくれてもいいはずだ。正義感が強いのか。

 自分があの少年を実験台のように扱っているのと同じように、彼もまた自分という人間を知ろうとしているのだろうか。別に勝手にどうぞって感じだけど、こっちに迷惑はかけないでほしい。向こうも同じことを心に宿しているのだろうか。

 冷蔵庫の炭酸水を取り出す。一気に口に含むと泡が踊り出した。シャワシャワと口の中で奏でられる音楽が心地よい。

 ここにはお風呂がない。まあ一日中、冷房に当たっているから、汗をかくこともないのだけれど、なんとなく気持ちが悪い。

 服を部屋着に着替える。パーカーのセットアップだ。着心地が良い。部屋着なのだから、それは当たり前か。

 ゲームチェアに座り、コンピューターを立ち上げる。少年のコンピューターにもだいぶ慣れた。機能的には足りない部分もあるが、それはもう一つのパソコンで補えばいい。少年には見せていないが、デスクの下に忍ばせている。

 ため息をつく。日頃のストレスが口から抜けていくようだ。さほどストレスは溜め込んでいないつもりだが、こうしていると日々疲労しているのだと感じる。

 少年のコンピューターを操作する。ウォレットを開く。購入されたクラブカードの枚数を確認する。

 3246枚。(1200+350)円×3246枚で、503,1300円。人数的には少ないと思ったけど、意外と貯まった。まだこれからも貯まっていくだろう。

 少年の瞳にこの数字が映ったら、どんな顔をするだろうか。罪悪感に潰れたような顔か、清々しい顔か、その中間くらいの顔か。また怒られるのだろうか。やりすぎだと。しかし、今回は一応了承を得ている。少年からのものだけれど。許可は取ったはずだ。それに、前回ほど卑怯でもない。

 胸の辺りに手を置く。少年のいうように、この心はすでに麻痺されてしまったのだろうか。簡単に傷つかないだけじゃない。簡単に傷つけられるようになってしまったのか。人の苦しみに気がつかなくなってしまったのか。人の苦しみを笑えるようになってしまったのか。だとしたら恐ろしい。でも、どうしようもない。治療で治るようなものではない。一度罹ったら治らない病気だ。こんなものを病気というのは失礼か。

 でも、こうなってしまったのは自分だけのせいじゃない。自責しても解けきれない。

 全てあいつのせいだ。今頃はどこにいるのだろう。見つけない方がいい。目を合わせたら、憎しみに侵略されて何か物理的に攻撃してしまいそうだから。幸せな顔なんてより一層見たくない。本当に自分自身を抑えられなくなる。想像しただけで、吐きそうになる。どこかで勝手に死んでてくれ。交通事故か病気かで苦しんで死んでてくれ。寿命が尽きて、家族に看取られながら和やかに死ぬのだけはやめて欲しい。こちらが報われない。苦しんでいて欲しい。自分の手ではなく、誰かの別の人の手によって苦しんで欲しい。自分は隣からそれを傍観している。その構図がベストだ。

 あいつのことを考えるだけで、呼吸が粗くなる。終いには、あの日のこの目に映った悪夢が脳内に描写される。いなくなってもなお、こちらの頭を悩ますなんて、最低なやつ。

 これ以上、思考を巡らせても意味がない。空っぽになった体に栄養を注ぐように、カップラーメンを流し込む。不味くはない。でも、美味しくもない。毎日同じような食事で病人にでもなったようだ。


「これは現時点での数字だけれど。」

 そう言って見せられた驚異的な金額に目が錆びる。

「503,1300円。」

 知らない数字ではない。でも、手にしたことない数字だ。お小遣いの範囲を明らかに超えている。

 青年は、少年の様子を伺うように顔を見つめる。迷った末に、このタイミングで、結果を報告することにした。喜怒哀楽の中ならば、きっと怒か哀の表情を見せるだろうと予想していたが、いくら待ったところで金額はさらに膨れ上がるだけだ。今のうちに共有しておいた方が良い気がした。

「なんか現実味がないですね。」

 遠い世界の話ではないけれど、日常の中に隠れている数字なのかもしれないけれど、少なくとも僕からしたらどう扱っていいのかわからない金額だ。

「本当にこれ全部くれるんですか?」

 初めに青年とそう約束していた。だって、彼は大金を稼ぐことが目的じゃないのだから。

「君が望むなら。」

 全て僕に委ねられているのか。畏れ多い。

「もし全部この手に得たとして、このお金、お母さんにどうやって説明しようか。」

 独り言のように呟いた。突然、この大金を渡したら、きっと説明を要求されるだろう。アルバイトじゃ数週間でここまで稼ぐことはできない。仮に、その理由が通ったとしても、どこで働いているのかなど質問攻めにされたら、動揺して何か話してしまいそうな気がする。この人の存在を明かすわけにはいかない。

「いっそのことどっか遠くに逃げてしまえば?生活していけるだけの量はあると思うよ。」

 随分と簡単に言う。そう単純なものではない。

「無理ですよ。」

 少年は、相手を馬鹿にするように笑いながら言う。

「あなたは、独り身だからそういう考えが当然のように浮かぶのかもしれませんが、母のことを考慮したら、そんな計画性のないことはできません。」

 お母さんの悲しむ顔が見たくないとか、表向きな理由はいくらでもあるけれど、一番はめんどくさいから。何から何まで契約するのも、母が警察とかに通報して大事になるのも、母の顔を思い浮かべながら寝床につくのも。これからを一人で過ごしていくのには、早すぎる。それに、学校とか習い事とか、今周りにある現実に対する処置をしなくてはならない。大変だ。

「冗談だから本気にしないで。」

 青年は笑いながら、言葉の力を弱めた。

「まあなんとかなる。」

 なんとかならない。根本的な問題に気がついていなかったことに今気がつく。大金を持ったところで、どう渡せばいいのか。

「それか。もういっそ全部話しちゃえば?」

 それは、一番に排除した選択肢だった。当たり前のように選択肢から消した。

「いくら非道だからといったって、相手は母親なんでしょ?無理でも理解しようと努めてくれるはず。」

「そんなわけない。」

 大して理論的に考えてもいないのに、そんな言葉が飛び出た。

 理解してくれないというより、理解してほしくない。いや、僕の頑張りは知ってほしい。でも、悪くないと認めてほしくない。お母さんには、正しい人であってほしい。

「じゃあ、もしこのこと知ったら、母親は君を見捨てると本気で考えているの?」

 沈黙が場を支配した。

 少年は、言葉が詰まったように何も言えない。咳を一つする。

「そうじゃないと思う。違う?」

 優しいこの笑みは、手作りなのか、どこかで買ってきたものなのか。

「それとは別の話じゃないですか。」

 絞り出すようにそう答える。

「見捨てられるのが怖いから話せないんじゃないの?」

 首を横に振る。全力で否定する。

「僕が嫌なのか、告白後の対応じゃなくて、明かすこと自体です。」

 やっと自分の気持ちに適する言葉を見つけられた。

「お母さんの顔を曇らせるのが怖い。恥をかかせるのが怖い。」

 無意識に涙が溢れる。溜め込んでいたつもりはないのに。

「大丈夫だって。そんなことにはならないから。」

 泣き止まない少年への青年の対処はどこか他人事のように感じる。根拠のない大丈夫なのか、根拠のある励ましなのか。

「第一、恥だと思っているのが悪い。君がしたことは明らかな犯罪ではない。ちょっとずるをしたくらいだ。」

 そんな励ましは少年には効かなかった。

 青年は呆れるように呟く。

「そんなので、よく万引きなんてしようとしたな。」

 目先だけの行動だったのだけれど、その度胸を称える。万引きに比べたら、こんなの些細なことだ。二つ目の件に関しては、法に触れることは一つもしていない。

「ごめんなさい。困りますよね。泣きたいわけじゃないんです。でも、勝手に。」

 制御できない感情に負けずに、少年は言葉の連なり作る。

 最初に少年を見つけたときもこんな感じだった。

 この少年は弱い。でも、涙という武器を持っている。発散できる媒体を得ている。それは強い。僕なんかよりもよっぽど偉い。

「今悩んだってどうせ解決しない。またこの先に悩むだろう。それだったら、今泣いたところで無駄だ。何も解決しないのに、涙を流して何になる?考えれば考えるだけ無駄だ。感情を使えば使うだけ無駄。」

 それくらいだった。自分の言葉の力で救えるのは。何もしないよりはマシだ。

 少年は涙を拭う。意外にも、青年の言葉に効き目はあったみたいだ。しばらくすると泣き止んだ。

「取り乱してしまいすいません。」

 大人っぽい言葉を使ってみる。それで、なんとか今の幼稚な行動をかき消す。

「その場その場を上手くやっていけば、結果的になんとかなるから。気がついたら丸く収まっているから。そうゆうものだから。」

 人生の先輩からの言葉を有り難く頂戴する。この言葉だけは、この人を切り捨てたとしても念頭に置いておこうと決心した。

「頑張ります。」

「何を?」

「とりあえず、何か。」

 青年は笑った。つられて僕も笑う。こうしていれば、悩みもいつか消えているものなのだろうか。知り得ないが、この人が言うなら正しい気もする。

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