第三章
「それじゃあ次はどうしようか。」
青年は呑気にそう呟いた。少年が作り出していた緊迫を無視するようだ。
その様子に腹が立ったのか、少年はイラついたように口を開く。
「そう問いかけてるふりをしていますけど、本当は案をすでに考えついているんですよね。陰謀を共に企てるふりをすることで、無理矢理共犯者にさせないでください。」
少年は気持ちが良かった。爽快感に溢れていた。頭脳明晰な人間になったような気持ちだった。サバサバとした言葉で相手を裁くというのはこんなにも清々しいものなのか。できることならもう一度試してみたい。
それと同じくらい、青年は気持ちが悪かった。ぐちゃぐちゃになった粘土を顔に貼り付けられる気分だ。自分に惚れかける少年に情けをかけることでしかその悔しさを取り除くことはできなかった。
「何かすごい人間になったような気分でしょ?今。」
少年は否定ができなかった。今まさに感じていたことだ。
「その感覚と同じ。人を騙すのは楽しい。」
青年は自信満々に暴論を吐く。だんだんと活気を増していく表情に慄く。
「列に並んで一方通行にちびちびと駆けて行く蟻を上から見下ろすのと同じような気分になる。」
少年は悔しかった。平気な顔をして、とんでもない思想を言葉に出す人間と同等な存在として見られるのが。しかし、彼に説明されるとそれが真実のように聞こえてしまう。彼が言うように、僕にも詐欺師のかけらが潜んでいるのだろうか。
「まあとりあえず、もう言っちゃうけど、君の主張するもう一つの理由ってのは、大したものじゃない。楽しいから。」
そう言うと、なぜかすっきりとした顔を見せる。何かの殻から抜け出したような笑顔だ。怖いというより理解し得ない。
「君がもう来なくなっても、僕は続ける。」
正直失望した。絵に描いたような間違った人間の言葉を安直に受け取ろうとしている自分に。惑わされてはいけない。もし、僕がこの家でやらなければいけないことがもう一つあるとしたら、この人の歪んだ思考を正すことだろう。
「前はちょっとぼかしたけど、はっきりいえばある種の趣味だ。」
青年はそう言い切った。少年は、眉を顰める。顔を全体的に暗くする。
救いようがない人間だ。そう思った。偉そうに上から目線で言えるようなことではないかもしれないけれど、青年に向ける軽蔑は、恐れよりも情けが大きかった。哀れに想うことが可能だった。
「勝手にしてください。でも、僕は断じて、好んで人を騙し、私腹を肥やす人間にはなりません。」
彼に自分の意思を突きつけるというのも一つの目的であったが、それと同時に自分への戒めとしても捉えられた。その口調はどこまでもストレートだった。
「それじゃあ僕と君の違いは、好むかどうかってこと。どちらかが折れるまで議論し続けるのなら、君が好む側に転ぶまで続くだろう。」
随分と馬鹿にされた。良い気がしない。腕を組む青年を睨む。
「どこからその自信は来るんですか?」
彼は、夢に出てくるような深い深い森のような顔をした。少年には、それが哀の表情に見えた。鎮まり返ったその表情は、壮絶な体験を想像させる。
「何か酷い体験でもしたんですか?」
酷い体験と一括りにするのは、申し訳ないが、一応オブラートに包んだつもりだ。
「酷い体験でもしなかったら、こんな曲がった人間にはならないよ。」
曲がった人間だという自覚はあったみたいだ。
何か傷つけてしまったような気がする。触れてはいけない禁句を口に出してしまった気がする。
「きっと君の方が正しい。さっきの議論も同じように、100人に聞いたら、100人が君に賛成するだろう。表向きの回答では。」
青年の言葉は諦めのようには聞こえない。これは、国語で習った『逆説を導くための余談』なのだろうか。続きの言葉を静かに待つ。
「どうゆう意味ですか?」
先走って聞いてみる。
「つまりどちらの方が正解か定めるのは、正しさだけじゃないってこと。」
難しい言葉は使われていないのに、理解するのに時間がかかる。
「全くわからないって顔。」
青年は笑った。くしゃっと笑った。
「君は今までの所業、全部が正しかったって自信をもって言える?」
今までの行動を思い返してみる。最新から過去へと流れるムービーの一シーンで止める。そして顔を歪める。
「はい、と答えたら、万引きの話を出しますよね。それだったら言えないと答えるしかないです。」
何と言っても彼は目撃者だ。母を簡単に失望させるだけの力を彼は所有している。僕からしたら、恐れ以外の何者でもない。
「でも、君の今までの生き方とか行動とかに賛成する人は少なからず1人はいると思う。」
青年の顔は真剣だった。真っ直ぐだった。
「もし正しさだけが裁量だったら、君の意見なんて聞く耳を持たれないだろうけど。」
少年はなんとなく理解した。つまり彼は、正しさだけで正解を選ぶのなら、僕の意見の方がより優れている。しかし、選択する裁量は正しさだけじゃないから、彼の意見の方が秀でている可能性もある、と言いたいのだろう。理解したけれど、僕にはこの人の持論を理解することができない。
「自分の意思を捻じ曲げてでも人に信じ込ませるというのも面白そうだ。」
青年は何かに目覚めてしまったようだ。これから宗教的に教えを説かれるのだろうか。少年は彼の中の芽生えに気がつかないふりをして話を進めた。
「それで次は何をやるんですか?」
彼の思考を発展させないように、早めに食い止めた。何か危ない気がしたから。
青年は一つ先払いをすると、名探偵のように誇らしげに胸を張りながら語り出した。
「君が購入した限定の本。それを著名な芸能人も所有していると知ったら、君のその本に対しての価値は上がる?」
正直読書マニアだというわけではないので、本に対してあまり価値を感じなのだが、彼が説明したいのはそこではないと思う。本じゃなくても何でもいいのだろう。だったら、引っかからずに素直に回答するのが最適だ。
「無意識ですけど、きっと上がると思います。」
自分が単純な人間であることは十分に理解していた。でも、自分だけではない気がする。
「だよね。嘘でもいいから、著名人も同じものを買ったと書いておけば価値は勝手に上昇する。ましてや限定のものなんて特に。」
彼の意見は全て説得力がある。人に何かを説明する能力に長けているのだろう。羨ましい。しかし、その能力を万人が認めるような行いに繋げられないのが虚しい。才能の無駄遣い。そんな言葉が浮かんだ。僕の力でどうにか改善できるような問題ならば、手を貸せたら良い。なんて上から目線すぎる。
「それを利用するんですね。」
青年は、そのセリフを溜めて溜めて言う予定だったのか、先にセリフを言われた後の首の動きが不自然になっていた。空気が抜けた風船のようにしぼんだ。
「そうゆうこと。今日はそれだけ説明しとくから。もう時間遅いし。」
確かに外はすっかりと闇に覆われていた。電球に照らされた室内から眺めているのもあって、夜はさらに色を濃くさせていた。
やりたくないのならやらなければ良い。そんな単純な理論では片付けられない。何かの衝動に駆られている。僕の人生がまだ80年くらい続くのなら、まだ始まって10年しか経っていない。ちょっとくらい寄り道するのも悪くないだろう。
歩く。とことこと。もう見慣れたこの風景も、経験によって何か違うものに見えたりするものなのだろうか。80年後に同じ道を歩いたら、景色は変わって見えるのだろうか。
とにかく、正しい道だけを選ぶ決断をするには早すぎる。多種多様な経験をするという点では、許してもらえるかもしれない。
そうやって自分を説得している間に気がついた。自分は完全に惹かれている。それはあの人自身なのか、人を騙す快感に対してなのかは、わからない。どっちにしろ認めたくない。きっと、惹きつけられるのは非日常に対してだろう。そうしておこう。
家に帰ると暖かい熱気に包まれた。単純な室内と暖とは何か違う。温度的な温かさでは作ることができないものだった。人がそばにいる暖かさだ。リビングに直行すると、ダイニングテーブルに夕食を並べる母がいた。
「随分と遅かったじゃない。ベストタイミングだけど。」
その顔は、裏のないトランプのように率直で眩しくて、なんだか自分が見窄らしく感じた。母親に対して抱く感情ではないと思うが。
「今日はどこに行ってたの?」
「友達の家。」
日常会話の一部だ。
「楽しかった?」
「うん。」
頑張って話を繋げようとするお母さんと早く終わらせようとする自分。
「何をしてたの?」
疑う気はもちろんないのだろうけど、ひやりとしてしまう。
「いつもと同じでゲームとか?最近、流行ってるスマホゲームを一緒にやってた。」
「楽しかったのならよかったわね。」
母は、自分の仕事に集中するように、僕から目を逸らした。
これから、この人を裏切るのだ。親不孝で片付くような話ではない。卑劣すぎる。
お母さんの悲し涙を見たいわけじゃない。決して見たくない。お父さんが失踪してから、何度も号泣してきたのをこの目が覚えている。それでも、あの人に必死に食らいつき、ついていこうのするのは、あの人の言うように何かに目覚めてしまったからなのだろうか。わからない。
その日の夕食は味わっている場合なんかじゃなく、何かに急かされるように次々と口に詰め込んだ。美味しいも不味いもわからなかった。唐揚げだった。暖かかった。それは記憶に残っている。
今日の話をする。聞かれたから答える。それだけだった。母を気の毒に思い始める。でも、それはまだ序章だった。
ついには思ってもいないことを口にしてしまった。
「お母さん。お父さんはいつ帰ってくるの?」
空気が凍った。ひんやりと冷たかった。言葉を口にした瞬間に、後悔に襲われる。でも、撤回する気にはならなかった。母も被害者ではあるが、心のどこかで彼女を責めてしまう。彼女はゆっくりと瞬きをした。
きっと母は答えに困り顔を歪めると、想像できた。なのに、なぜか彼女を追い詰めるように答えを求めてしまう。
「今どこにいるの?何でいなくなったの?」
理性なんかに構っている暇はなかった。心の奥の疑問を淡々と口にする。まるでロボットように。
「今はきっとどこかで楽しく暮らしているのよ。」
そんな模範回答じゃ満足できない。何かに追われているように、いくつもの最悪な言葉が頭をよぎる。
「他の人を好きになったのかな。」
ああやってしまった。青く青く僕を追い詰める後悔が濃くなるのと同時に、母の怒りに操られた真っ赤な顔が濃くなっていく。
洗濯機の音が不気味だった。それだけ、人自身が作り出す音が耳に入らない。
今更言い訳しようがない。きっとどっぷり怒られる。一時間ほどの説教を覚悟したのだが、その怒りのロケットは地面に着陸する前に燃え尽きたみたいだった。
「そうね。」
母は静かに呟いた。逆に心を配る羽目になる。想定外の行動をされると。
このまま、放っておくことも選択肢としてはあったが、もしそうしたら取り返しのつかない結果を招きそうな予感がした。あえて言葉にはしたくないけれど、この世で一番望まないことが目の前で起きてしまいそうだった。
「別にお母さんが悪いとは思ってないから。悪いのは全部お父さんだから。」
今更意味がないのに、擁護し始める。自分の必死さに笑えてくる。多重人格かと思えるくらいの変わりようだ。結局、守っているのは自分自身なのだろう。最悪の結果を招いてほしくない。自分のためにも。
しかし、母の表情は明るさを増すどころか、逆に闇が深まっていく。
「だから、悲しい顔しないで。」
何かのセリフのように感動的になってしまった。確かにこれは本心だった。でも、咄嗟に出た言葉なので、言葉に重さが定められるのなら、とびきり軽いだろう。宅配ではなく郵便で届けられるくらい。
そして、自分勝手さに呆れる。
せめてもの償いなのか知らないけど、皿洗いを手伝った。自分は結局素直な人間なのだと教わった。
その一方で青年は、一人、カップヌードル用のお湯を沸かしていた。
大きくため息をつく。
「なんで、あの少年を誘ったのだろう。」
正直に言えば、技術的には必要なかった。人手だって十分に足りている。あの少年が何かの能力に秀でているわけではないし、それを買ったわけでもない。
それに、他の人間とコミュニケーションを取るのは、あまり得意じゃない。ましてや、子供なんて、接し方がわからなかった。それなのに、なぜだろうか。
一応、自分は彼を脅迫して、ここに来させたことになっているのだろう、彼の中では。そこまでするほどの価値がないと思う、あの少年には。
そして、僕自身の中では、彼を稼ぎ方を伝授することで救っているつもりだ。それもおかしな話だ。金に困る人間なんて、いくらでもいる。彼だって珍しいことじゃない。僕は彼に情けをかけて救うふりをして、利用したのだろうか。いや、利用するにもしょうがない。使えない人間を利用するなんて馬鹿げた話だ。改めて自分の行動を振り返れば、理解ができなかった。咄嗟の行動だったことは確かだ。何をどう決断したら、あの結論に辿り着くのか。
お湯は沸いたのか柔らかい湯気で存在感を示す。カップヌードルの麺に注ぐ。ぬくぬくとした煙が暖かかった。温度的な温かさではない。カップヌードルのじわじわとラーメン近づき食べられる状態への変化の過程が、自分自身の食欲をそそるからだろう。
まだ3分経過していないのだが、待ちきれず、箸で何本か掬うと口に入れた。
「あっつ。」
「そんな毎日来なくてもいいんだよ。」
翌日、いつも通りの時間に彼の家を訪れる。
「でも、暇なので仕方ないです。」
こっちだって、好きでここに来ているわけじゃない、というと語弊があるかもしれないけど、とにかく彼のように詐欺だけを生きがいに生きている人間とは別なのだと自分自身に示したかった。
「別にいいんだけど。」
慣れた足運びでリビングまで摺り足で行く。当たり前のようにソファに着席すると、汗を拭った。
「なんか今日元気ない?」
青年が気がついたように、少年にはいつもの覇気は宿っていなかった。枯れた花のように潰れた表情をしている。
「まあ、昨日少し色々あって。」
少し色々、とかなり矛盾しているがそれはどうでもいい。
青年はその内容を尋ねることもなく黙っていた。それが彼らしかった。
「あなたには興味のないような内容だと思いますけど。」
そう前置きを設置して保険をかける。
お茶を口に一口含む。熱された体にひんやりとした麦茶は沁みた。
「昨日、考えていたんです、価値について。」
価値についてあーだこーだと教えられたものだがら、実践してみようとしたたったそれだけの衝動だ。
「もしかしたら、お父さんは、お母さんや僕との生活より、汚い札束の方に価値を感じたからいなくなってしまったんじゃないか、と。」
僕らは単純に見捨てられたのではなく、父の選択肢の中で選ばれなかった残り物だったのだ。
「それじゃあ、悪いのは君のお父さんで仕方なかったと?」
頷いた。今回の件で誰が悪者か、投票してもらったとしたら、全票が父に入るだろう。
「でも、見捨てたのは君も同じじゃないか。」
「それはどうゆう意味ですか?」
僕は見捨てられた側だ。
無意識に座り直す。背筋はピンと伸びていた。
「もしも、君にとってお父さんが不可欠な存在で、彼の存在価値を感じているのなら、全てを捨ててでも捜索に専念するだろう。」
「それ以外を捨てる価値があるのなら。」
そんなことを言われると思わなかった。感想はそれに尽きる。
「でも結果的に、君の父親には、そうするだけの価値がなかった。貴重な時間を費やすほどの価値がなかった。そうだろ?」
そんな鋭い視線を向けられても、何も答えられない。
そうなのかもしれない。僕は無意識に彼の存在価値を他と比較して切り捨てたのかもしれない。
「それなら被害者ぶるのはやめた方がいい。相手を選択する権利は同等に与えられたいたのだから。君だけが捨てられたわけじゃない。君も彼を捨てたんだ。」
彼の主張は最もだった。正しかった。自分が間違っていた。案外、自分も悪い人間なのかもしれない。お父さんが消えたことを理由に、何もできないと勝手に思い込んで、彼のために時間をかけようと考えなかった。本気で探せば、本気で思いを伝えれば、昔の3人での生活を取り戻すことができたかもしれない。
「それが悪いことだって言ってるわけじゃないから。ただ、ある意味自分自身で導いた結果なのだから、仕方なかったなんて言い方は不適切な気がするだけ。」
だんだんと声が小さくなっていった。自信がないのだろうか。しかし、次の言葉は自信が満ちていた。
「今からでも遅くないと思うけど。」
その言葉に目を覚ます。もう完結したわけじゃない。これからひっくり返すことだってできる。問題は、自分が何を望むのか。何に価値を感じるのか。
「やっと気づきました。お父さんとの生活に魅力を感じていなかったのは多分僕も同じだった。だって、もう一度取り戻したいとは思わない。一生懸命に探すのは何だかめんどくさい気がする。それに、きっと、お父さんが消えたことに対する悲しみはあまりなかった。だけど、自分が可哀想な人間でありたかったから、悲しみふりをしていただけだと思う。」
むしろ僕の方がタチが悪い。だって、切り捨てた上で利用したのだから。自分が可哀想なのだという目で見られるように。
そこまで語ると、裸になった気分になった。自分の感情を細部まで言葉で表現したのはおそらく初めてだった。しかし、完全に本心ではなかった気がする。もっと自分に正直になるなら、魅力を感じなかったというのは完全な嘘だ。できることなら3人の生活に戻りたい。でも、僕らを捨てた父を美化するわけにはいかない。だから、酷評しているのだろう、彼のことを。それも含めてお父さんを捨てた。
「君もなかなか酷い人間だ。」
青年は笑った。
少年も同感だった。いくら積み上げてきた思い出は少なかったとはいえ、産みの親をこんなにも簡単に切り捨てることができるとは。自分でも驚いた。いくら本心ではなかったとはいえ、言葉にできてしまうとは。
「でも、それでスッキリしたんじゃない?」
「自分の本心を確認できて。」
「まあそうですね。」
自分は選ばれなかった被害者であるだけではなく、選ばなかった加害者であるなら、この結果も少しは納得できるものになったと思う。
自分の話がひと段落したところで、彼に目を向ける。
「あなたも自分についてもうちょっと教えてくれてもいいんじゃないですか?」
せめて家族構成とかは知っておきたい。ただの興味本位だけれど。
「話して笑えるようなものはないよ。」
その言い方に闇を感じた。ここは突き詰めない方が良い気がする。
「家族はいらっしゃるんですか?」
この質問ならさほどダメージを受けることもないだろう。
「母は生まれてすぐ離婚したらしくて、顔も知らない。父は何年か前に自殺した。だから今は一人。」
少年の顔は引き攣っている。瞳を揺るがす。
「なんかごめんなさい。」
全部自分のせいだ。隠したい過去を思い出させてしまったかもしれない。
「なんで謝るの?別にいいよ。」
謝ると余計傷つかせてしまうかもしれない。可哀想だと思われることによって。
「別に楽しいよ。一人も。自由気ままに生きられるから。」
青年は勧めるような言い方で、陰鬱とした雰囲気を誤魔化そうとする。
「そうですね。」
声のトーンはいまいち上がらなかった。
「そんな顔しなくていいから。」
青年は苦笑する。そして、背を向けると、いつもの椅子に腰掛けた。その目線はひんやり冷たいものを感じた。長いまつ毛を伏せている。そして、何事もなかったかのように口角を引き上げた。
「それじゃあ次にやること教えるから。」
やっと勉強の成果を発揮できる。少年は心構えをした。
「簡潔に説明すると、ある団体をアプリ上に作成する。共通した趣味や仕事を持つ者同士でグループを作ることができたり、ある団体グループを作成に入会できるアプリがある。最近のスポーツクラブなんかはそのアプリを利用してクラブに入会させ、会員にのみネット上で配布されるカードで実際のスポーツクラブに参加することができる仕組みを使用している。同じようにクラブを作り、そこに金を払って入会してもらう。その入会費がこっちの利益になる。実際には、カードを購入すれば入会したことになるから、カードをあるわけだけど。ただそれだけ。これだけなら何も誤ったことはしていないでしょ?」
なぜか少年に確認を取る。やはり自分も間違った人間になりたいわけではないみたいだ。極力良い人間であり続けようとしている。その葛藤が微笑ましい。
「はい。おそらく。」
まあそう答えるしかないよな。
「でも、それだけじゃ誰もそのクラブに入りたいとは思わないですよね。具体的にどのようなクラブなのですか?」
これから順を追って説明するつもりだったのに、せっかちだ。表情を何一つ変えずに説明を続ける。
「これは慈善団体。ときに寄付金を集めたり、直接的な支援活動を行ったりする。活動は不定期だから、しばらく活動が行われなくても不思議に思われない。それにこの団体に入会する人は慈善活動が目的じゃないだろうしね。」
単純に良い団体だ。慈善という言葉に惹かれているだけなのかもしれないけど。
しかし、最後の一文の意味がわからない。これから説明されるのだろう。
「その団体に入会すると、称号がもらえる。電子カードみたいなものだ。それを自分のネット上のウォレットに保管することができる。自分のアカウントのプロフィールにも表示できる。おそらく、このクラブに入会する人の目的はそのカードだろう。」
声を張り上げた。青年はプレゼンテーションをするかのように堂々と語っている。その様子は、どこかの会社の社長かのように堂々としていた。似合いそうだ。
「慈善活動をなぜするのか。決まってる。自分と他人から認めてもらうだけだ。ただ良い人でありたいし、それを周りに認めてもらいたいから、会員になりそのカードで証明する。」
淡々と説明しているようだが、その声に震えを感じる。自分と照らし合わせているのだろうか。大体、実際に体験していないと思いつかないようなことを考案しているあたり、実体験込みなのだろう。
「ちなみに、芸能人も入会してる。」
「それはどうやって?」
「本当は同姓同名の別人だったって設定にすれば問題ない。アカウント名を参加者の欄に記載するだけだ。」
少年は笑ってしまった。よくもまあそんな卑怯なことを。ギリギリのラインを攻めているあたり、笑えてくる。
「活動がなかったって誰も文句を言わない。だって、その団体に入会しているというだけで満たされているのだから。それ以上に求めることはないのだから。」
その団体が慈善団体というところが、慈善という言葉を悪用しているところが、何だか憎たらしい。大衆を上手に操っているようだった。微笑みながら。
「カードはいくらぐらいが妥当だろう。」
正直、ただの称号なのだから無料でもいいくらいだが、それじゃあこんなことをする意味がない。
「入会費は高くても2000円くらい。月額は500円くらいだったら、検討する気になると思います。」
一度に消えるのは2500円。高いっちゃ高いけど、そこまででもないだろう。
「じゃあ、その意見も参考にして、入会費1200円の月額350円にしよう。」
どのあたりを参考にされたのだろう。予め決まっていたような気もする。とりあえず、頷いておく。別に反論するほどではない。
沈黙を切り裂くように声を上げる。
「あのちなみに、どうやったら、そんなことを思いつくんですか?」
単純に疑問だった。思考回路を教えて欲しい。
「どうやったら?気がついたら勝手に思いついてる。」
全くわからなかった。はてなを顔に浮かべると、青年は頑張って頭を絞り答えを見つけ出そうとする。
「あえて挙げるなら、自分だったらどうするか考える。例えば、今回の場合だったら、どんなクラブだったら入会するだろうか、とか。」
それは確かに効果的なやり方だろうけど、それだけじゃここまで思いつかないだろう。結局は感覚的なものなのだろうか。
「何で急にそんなことを?もしかして興味湧いた?」
興味が全く湧かないと断言したら語弊がある。しかし、ここは認めてはいけない気がした。何かとてつもなく奥が深い穴に引き摺り込まれる気がした。そして、永遠的にそこから脱出することはできなくなるだろう。
「いや、何となく。」
それが一番妥当な答えだろう。便利だ。
青年は、わかりやすくそっぽを向くと、不機嫌そうに作業を始めた。置いてきぼりにされた僕は何をしていいのかわからない。
「何かさせてください。」
自分が馬鹿馬鹿しい。詐欺の片腕を背負おうとするなんて。
「それじゃあカードのデザインとか考えといて。そこらへんに紙とペンがあるはずだから。その間に、クラブを登録しとくから。」
紙とペン。なんて原始的なやり方なんだ。必死になって本をガン見していた時間を返して欲しい。
仕方なく構図を考える。どのようなデザインのカードなら欲しいと思うだろうか。必死に考える。
「別に、デザインで入会するか否か迷うことはないと思うから頭を悩まさなくていいからね。君だって電車の定期券のデザインに興味はないでしょ?」
そう言われると、やりがいを感じなくなる。逆に気が楽になるから良かったことにするか。肩の力を抜いて、いくつかの案を産み出した。その頃には約2時間が経過していた。美術の成績が特別いい訳でもないのに、よく頑張ったと思う。ここまで集中して。
「思ってたより良い。」
青年は、上から見下ろすとそう呟いた。
思ってたよりってあまり嬉しくない、と思ったものの褒められて悔しいわけではない。初めて認めてもらえた気がした。そして、何か危ない階段を登っている気もした。
「ありがとうございます。」
礼儀としての礼は言っておいた。
「どれが一番良いと思いますか?」
「別にどれでもいいよ。」
即答だった。思わずずっこけそうになる。2時間も費やして考案したデザインなのに。
なんだか自分が馬鹿みたいじゃないか。どうでもいいものに、一生懸命になって本気で取り掛かった自分が。
「じゃあ、勝手に選びますね。」
「よろしく。選び終わったら、コンピューターでそのでざそのデザインを参考に作るから教えて。」
それは僕にやらせてくれないのか。やはり頼りにはされていないようだった。これじゃあ雑用係じゃないか。
僕だってデザインは何でもいい。しかし、これだけ時間をかけると、どれも捨て難い。特別に思い入れがある三つを選んだ。それ以上は絞りきれない。
「あの、提案があるんですけど。」
自分から提案を持ちかけるとは初だ。それなりに緊張するものだ。
「どうした?」
「いくつか金額別のコースを作って、それぞれカードの種類を変えるっていうのはどうですか?」
固唾を飲んで反応を待つ。
「いいんじゃない?」
案外簡単に受け入れられた。
「君がそんな提案をするなんて思わなかったけど。こっち側の気持ちを理解し始めた?」
「いやそういうわけじゃ。」
彼の効果音をあえてつけるなら、キュルルンというような瞳が僕に向けられる。何か説得力のある理由を付け加えないと。そうしなければ、仲間入りしたことになってしまう。
自分の思考回路を暴露するのは情けないが、こうなったら全て露わにするしかない。
「実は、デザインがどうしても選び切れなくて。どうせだったら全部使ってしまおうと。それをあなたに承認してもらえるように頑張って理由を考えたんです。」
本当にそれだけだ。彼についさっき教えてもらった、相手を騙すための思考法なんかは一切使用していない。
「まあ結果的に良い案が追加されたわけだし、いいんじゃない?」
良かった。承諾してくれたようだった。
「それじゃあその選んだデザインいくつか持ってきて。」
笑顔で頷く。
「この三つです。コンピューター上で描く作業って僕ができるものですか?」
「操作方法を教えればある程度はできると思う。」
「じゃあやります。」
固い決意に驚かされる。何があったのだろうか。やけにやる気だ。自分が思い描いていた以上だ。
「それじゃあよろしく。」
というように少年の手伝いもあり、作業は2、3日で終了した。過去最短のスピードだ。
「毎日のようにここに来てお母さんに怪しまれたりしないの?」
不意にそんなことを聞くと、
「お母さんは一日中仕事があるので、僕のことなんて興味ないですよ。多分、家で宿題やるか友達の家に遊びに行くか、僕の行動範囲はそれくらいなので、お母さんは今も家から友人の家にいると思っているはずです。」
と返ってきた。
ここに来るのは、暇つぶしの意味もあるのだろう。夏休みなんて友達遊ぶ以外にやることがない。あとは宿題か。
中学生の夏休みなんて何してたっけ。頑張って記憶の本棚から探し出そうとしてみるけど、見つからなかった。
「でも、こんな毎日来るってことは、友達いないの?」
「いますけど、向こうは向こうで旅行とか楽しんでるので。」
その言い方だと、この少年も現在の夏休みの日々に満足しているのだろう。
「まあこっちも暇だから全然いいんだけどね。」
特に何か気を使うわけでもないから、孤独が改善されるし、良い相手だと思う。
「でも、今日は母の友人家族と夕食に出かける予定なので、もうそろそろ帰りますね。」
少年の表情から読み取るに、きっと外食するのは滅多にないことなのだろう。贅沢をする時間もお金もないといったところだろう。
「楽しんで。」
そう言って見送ると、自分以外誰もいなくなった。
別にいいけど、何か違う。人が一人いるかいないか、それだけの違いだけには感じられない。人一人以上の差がある。自分以外の存在が、そこにいるか否かは、莫大な影響をもたらすのだろう。
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