第二章
小刻みに震える指先。蒸し焼きにでもされたかのように汗で覆い尽くされる顔。今にも泣き出してしまいそうなその瞳。
少年は、とある雑貨屋で万引きをした。中学生くらいだろうか。
万引きをするほどに穴の開いた心を埋めるのには、高級シャープペンシルで十分なようだった。ポケットの中でしっかりと右手に握られたそのシャープペンシルは手汗に塗れている。暖房に当たりながら筋トレをしているかのように腹の底から熱が湧き上がってきた。きっと今熱を測ったら先生や母さんを欺いて学校を欠席できるだろう。
と、その様子をひそひそとスマートフォンで撮影する青年が1人。成人しているようだが、まだ若い。20代前半といったとこだろう。綺麗に整った顔に不釣り合いな不気味な二つの瞳。一体何を経験したら、こんなに真っ黒に染まるのだろうか。録画されていく少年の非道だが果敢な行動を満足げに凝視している。彼の目線はまるで二人が血縁で結ばれているのかと思わせるほど、優しく包み込むようだ。本当に兄だと言われても疑わないくらいに。
少年はその青年の存在に気づこうともしていないようだった。視野が半分ほどに狭められいるようだった。周りが見えていない。
そして、店から脱出した。どうやら人生初の万引きは成功したようだった。手に汗握るとはまさにこのような状況なのだと学ぶ。
少年は、これ以上ないほどの安堵の表情を浮かべた。頭を左手でぐしゃぐしゃと掻くと深呼吸をした。
まさか一連の犯罪が第三者に撮影されているとは知らずに、自分の行動を称えるように大股で帰っていく。自身に満ち溢れたようにも見える。
しかし、少年を追う不審な影が一つ。先程の青年のようだ。多少の距離を開けて跡をつけている。人通りこそ少ないが、昼間は太陽に照らされ安全な道とされている。そう簡単に尾行されていることに気がつかない。
「ねぇ君。」
突然、話しかけられた少年は絵に描いたように飛び跳ねて盗ったシャープペンシルを落とした。よほど緊張を張り詰めていたのだろう。彼は大驚失色したようだった。
「何がしたいの?」
青年は優しく話しかけた。周りに人はいない。静かな街だけが彼らを見守っている。
撫でるような青年の瞳は、一歩道を外れたら不気味以外の何者でもない。ただ、おそらく根は暖かいのであろう少年に向けられているという事実と真昼間の太陽光が、その瞳を美化させていた。
何も喋らない少年に呆れたのか、青年は目線を合わせるために低くした腰を元に戻した。手に腰を当てて、自分の腰を労っているようだった。
少年は一人静かに泣き出した。そして、その場に座り込んだ。滝のように溢れ出す涙は、青年を困らせた。彼は人目を気にするように周りに目を向けた。逃げ出すことも考えたが、このチャンスを無駄にするわけにはいかない。
「どうしたの?話は聞くからこっちおいで。」
できる限り柔らかく手を引こうとしているのだろうけど、目が笑っていない。少年を無理矢理立たせる手は徐々に硬くなっていく。力任せに引っ張り上げると、手を引いて大股にその場を去った。
少年は、溢れ出す涙に感情を占領されながらも必死に理性を保とうとしていた。不審者についていってはいけない。親からも学校からも何度も何度も、もうわかったよと言いたくなるくらいに耳に詰め込まれてきたことだ。しかし、今回は仕方ない。状況が状況だ。この人はきっと急に泣き出した僕を心配してどこか人目のないところに連れて行こうとしているのだろう。いや、人目のないところって危ないんじゃないか?でも、見た感じ悪い人には見えない。それにもしかしたら万引きしたところを目撃されていたかもしれない。変に逆らったら警察に見せると言われそうだし。この人を、心配してくれた良い人にしたいのか、万引きしたことで僕を脅そうとする悪い人にしたいのか、自分でもわからない。
なんてことを少年が考えている間に、青年は彼の手を引き、近所の公園に連れて行かせた。ここなら人目に触れることもない。一旦ここで落ち着かせてからその次だ。
ベンチに少年を座らせ、自分もその横に腰を下ろすと、足を組んだ。そして、暇そうに、揺れる木々に必死にしがみつく葉を一枚一枚観察していた。いよいよ夏本番が近づいてきている。
それが5分くらい続いた。学生時代以来の木々の観察にも飽きてしまい、隣に座る少年を見つめる。緊迫感に襲われて気持ちと同時に位置が高まった肺が、元の位置に戻ったようだった。今にも蒸発しそうなほど真っ直ぐに太陽光を浴びる涙を拭うと彼は深呼吸をした。
「やっと落ち着いた?」
「はい。もう多分大丈夫。」
少年は精一杯の笑顔を見せた。暗闇ばかり見てきた青年には眩しすぎたようで、彼は目をくらませた。
「よかった。」
「これから話聞くつもりなんだけど、ここじゃちょっと落ち着かないし、うち来ない?」
少年の中にあるサイレンが鳴った。明らかに散々言われてきた不審者だ。実際に対面してみると意外にもわかりやすいものだ。断る以外の選択肢はないように思えた。が、何を考えたのか、少年は首をくっきりと縦に動かした。
青年はにこりと怪しげな笑みを浮かべると、立ち上がり歩いて行った。少年は、その後ろをまるで同じ道を歩く弟のようについていった。
いつでも引き返すことはできる。反対方向に突っ走ればいいだけだ。絶対にその方がいい。頭ではちゃんとわかっているのだ。でもなぜか、なんでかわからないけど、素直についていく。
自分の気持ちが理解できないわけではない。貪らしい現実に退屈して、非日常が恋しくなったのだろう。現実から逃げ出したくなった。これから自分の身に何が起こるのか、楽しみで仕方ない、とまでは言わないがそれくらいのことは感じる。それに、彼が不審者ならこんなわかりやすい誘いはしないだろうとなぜかこの人を信頼する自分がいる。どうせ断っても脅される可能性だってあると、なんとかそれ以外の理由を考えようとしている。
それから10分くらい歩いた。あとどれくらい歩くのか、聞く暇もないくらいに速足だった。ついていくので精一杯だった。
「ついた。」
見上げるとそこには真っ白の発泡スチロールのような壁で覆われているアパートがあった。こんな言い方は申し訳ないが、安っぽかった。所々に茶色の染みが付いている。
少年は、正直な感想を隠すように感心した表情を見せた。そして、何も言わずにスタスタと階段を登っていく青年を追いかけた。
「どうぞ。」
銀色のドアノブを握る青年の手は手袋で覆われている。もう夏だというのに、随分と寒がりなのだろうか。
少年の驚きがじわじわと胸に広がっていった。辺りを見渡す。
ものがない。本当にここに住み、ここで生活しているのかと疑わせるほど、なかった。書斎のような机と椅子。硬そうなソファ。使いづらそうな棚。明らかに収納のスペースがないのに、部屋は整っている。仮にモノマリストだったとしても、いくらなんでも少なすぎる。
「ここが家なんですか?」
「まあ。ここでも十分やっていけるよ。」
大したことじゃないというかのような自信に満ちた青年の顔に不信感を感じる。
「布団とかは?」
「ソファで寝れるじゃん。」
確かに寝られなくはないが、熟眠できるのだろうか。それも毎日ここで寝るなんて。
「まあそれは置いといて。君の話を聞かせてよ。」
少年はソファに腰掛けた。案の定、迎え入れるようなふわふわ感はなかった。代わりに覚悟しとけよ、とでも言うような頑固な質感があった。
青年は滑り込むようにゲーミングチェアのような椅子に身を投げた。勢いの反動で、椅子は机にあたり跳ね返った。そんなことは全く気にしていないようだった。青年は、遊園地に連れていってもらえるとわかり心が躍る幼児のような表情だ。
「こんな話、他に投げかける先がないから話しますけど、重く捉えないでください。」
そう前置きをすると、深呼吸をしてから話し始めた。
「1ヶ月前くらいに両親が離婚しました。原因はよくわからないけど、父は僕らとの生活に飽きてしまったらしいです。」
青年は同情する表情を見せないどころか、表情を何一つ変えずに日常会話のように受け流している。
「それでお金が極端に減ってしまって。別に離婚しただけならよかったんです、まだ。父は、母と共同で管理していた口座からほぼ全ての財産を取り上げてから消えました。残されたお金は、一週間は生活できても、その先の生活を想像できないくらいの量で。誠実な母についていった僕は、あまりの失望感に真面目に働いて稼ぐなんて考えは浮かばなくて」
万引きを。そう言いかけたところで目を見開き、その言葉を飲んだ。危ない。まだ目撃されたことが決定したわけじゃない。自ら墓穴を掘るなんて馬鹿らしい真似はしたくない。
「興味深い話だね。」
青年は目を輝かせた。少年の動揺は、気がつかなかったことにしたらしい。
「じゃあつまり君はお金を稼ぎたいってことであってる?」
少年は静かに頷いた。それをしっかりと両目で見届けると青年は再び口を開いた。
「奇遇だ。それなら手を組もう。」
少年はその短い首を傾げる。手を組むって一体何をさせられるのか。
「価値って面白いんだよ。」
青年は語り始める。目の前に座る少年に教師のように丁寧に説明するようだ。当の本人は口をぽかんと開けて、なんだかわからないというような表情を浮かべている。
「君のお父さんが持って行った紙幣。そのペラペラの紙に幾らかの価値がある、彼はそう信じているだけだ。価値があることは何によって保証されているかって?国家だ。国家は何にも保証されていない。この社会の形を作っているのは事実だけど突然消えてなくなることだってある。そんなものに人間は必死に喰らいつく。」
少年は、何が言いたいのかわからず、幾度か瞬きをしている。
「ピンときていないようだね。じゃあ、例えば、さっき僕が撮影したこの動画。」
青年はスマートフォンを取り出し、カメラロールのある動画をタップする。そして、椅子から身を乗り出し少年にその動画を見せつけた。動画が再生されると少年の眼孔はこれ以上ないほどに開いた。手が震えている。
やっぱり。震える右手を左手で必死に押さえつける。その様子を青年は大人な顔で眺めている。
「大丈夫。誰にも見せないから。」
少年の焦りはその言葉で半分くらいは減少しただろう。
「この動画。そこら辺を歩いている全くの他人に売るとしたらいくらで売れると思う?」
少年は首を傾げた。今はそれどころじゃなかった。証拠を握られているという焦りに身を狩られて上手く動けなかった。
「きっと売れない。受け取ってもくれないだろう。」
青年はにたりと笑った。
「でも、君のお母さんに売ったらどうだろう。」
俯いていた少年はその言葉に顔を上げた。青年と目が合う。釘付けになってしまうほど異彩な輝きを持っていた。
「きっと必死な顔して何百万でも出すだろうね。」
青年は、少年から目を逸らすと、背もたれに背を任せ、くつろいだ。
「そういうことだよ。誰かにとっては、ガラクタ以下の価値だったとしても、他の誰かにとっては幾らでも出せるような価値だってことがある。」
「人によって価値観は違う。その中で一番普遍的な価値が紙幣ってことだ。その価値観ってものをを操れば、何かすごいものが起きると思わない?わくわくしない?」
少年は意味がわからないというように眉を顰めた。価値で人を操って何が楽しいのだろう。
「まあいい。とりあえず、お互いにメリットがあるのだから手を組もうという話だ。どう?」
そう言われてもすぐに「はい」とは答えにくい。具体的に何をさせられるのかまだわからない。
「僕は何をすればいいんですか?」
「そうだな。コンピューター持ってる?」
「はい。お父さんが誕生日にくれたのが一台。」
確か使い方がわからず、自分の部屋の棚の奥底にしまってあったはずだ。お母さんが場所をずらしてなければそこにある。
「いいね。じゃあそれを持ってきて欲しい。ここに。」
「それだけでいいんですか?」
「うん。」
「わかりました。」
コンピューターを持っていくだけなら、友達の家に行くとでも言って、お母さんを説得させれば簡単できる。人に見せられないような怪しいことをするのだろう。お母さんを悲しませるかもしれない。でも、好奇心には勝てなかった。
「いつ来ればいいですか?」
「いつ来れる?」
「平日なら放課後、休日なら一日中空いてるのでいつでも行けます。」
流石に学校は休めない。
「でも、もうすぐ夏休みなので、夏休みに入ったら毎日来れます。」
「じゃあ来れる時に来て。平日の昼間以外はここにいるから。」
「わかりました。」
青年はにこりと優しい笑みを浮かべる。
「あ、そうだ。」
少年は何か思い出したようだ。
「あなたのことは何て呼べばいいですか?」
青年は手を顎に当てて、迷うような動作を見せた。
「何でもいいよ。」
名前を聞いたつもりだったのだが、秘密主義なのだろうか。確かに、今日出会ったばかりだし、名前を教えるのには早すぎるのかもしれない。この人が生きる社会では。
「わかりました。」
何も承知していないが、そう答えた。その方が大人だと思ったから。
「それじゃあ、また今度。気をつけてね。」
少年は玄関まで見送られ、靴をゆっくり履くと家を出た。ばたりとドアを閉める。
扉を挟んで二人は、それぞれため息をついた。自分を落ち着かせた。
すっかり辺りは暗くなっていた。灰色の中に黒の点をできる限り多く塗り込んだようなそんな夜空だった。
少年は自分の現在地を確認して、ため息をついた。
はあ。お母さんになんて説明しようか。明るい家々に沿って歩きながらそんな風に現実に引き戻されると、1分前まで周りに広がっていた非日常が恋しくなる。
何が起こるのかわからない。ずっと、一瞬一瞬、どの瞬間を切り取っても心臓が飛び跳ねていた。破裂しそうなほど踊り狂っていた。その分しばらくは休んでもらわないとな。
掴めない人だった。どれだけ握力を込めようと指の隙間から華麗に通り抜けていく水のように。それが、自分の中の誘惑的な感情を引っ張っていたのだと思う。あの人を簡単に言葉で表せることはできても、それは本質とは程遠い表面だけの説明になってしまう。
まだ未定のこの先の人生を少し預けてみるには心配だけど面白いことが起きそうな、そんな予感がした。
道路に這いつくばる小石を一つ蹴る。意図的にやったわけではなく故意に蹴ってしまっただけだけど。何かドラマや映画に出てくる悪者になったような気分で清々しかった。
きっと僕の中で何かが変わっていく。それは、人生を大きく揺るがすものかもしれない。良くも悪くも。でも、ここで諦めるには何か勿体無い気がしてやまない。試しに別世界へ連れていってもらうのもいいんじゃないか、と思った。
少年と青年が出会ったのは日曜日。翌日は月曜日だ。
学校の授業中、休憩なしに少年を襲い続けたのは青年の幻像だった。幻像といっても頭の中で何度も笑いかけているだけだが、厄介でしかない。そのせいで全く授業内容に関心を向けることができなかった。次回の定期テストで赤点が一つでもあったら、あの人のせいにしてやると決心した。少年は幼かった。
翌日から、あの人の家にお邪魔したら、好奇心に負けたみたいに映るだろう。そうして、あの悪魔的な大人の微笑みに包まれるのを想像したら気持ち悪かったけど、結局、一度家に帰ってから覚えたばかりの道を辿ってあの人の家の前に来ていた。
アパートの脆そうな階段を登る。大きく深呼吸をしながらあの人の部屋の前まで来ると、覚悟を決めてインターホンを鳴らそうとした。指をボタンのスレスレのところまで運んだところで、ガチャリとドアが開く音がした。咄嗟に後退り、頭から血を流させるくらいの勢いで迫ってくる扉から避けた。
「やっぱり来たか。」
「待ち構えてたんですか?」
「そんな逆ストーカーみたいなことはしないよ。」
青年は少年を中に入れると、昨日と同じようにソファに座らせ、自分は書斎の椅子に座った。
「あ、これ。昨日言ってたコンピューターです。最新ってわけじゃないんですけど、それなりに新しいので使えると思います。」
「ありがとう。」
青年はそう言って受け取ると書斎の机にドスンと置いた。ノートパソコンだった。
「ソフトとか適当に買っちゃっていい?僕のお金で出すから。全部終わったら捨てるけど。」
「あ、はい。どうぞ。」
「じゃあ、ちょっと準備するから適当にくつろいどいて。」
「わかりました。」
少年はそうやって気持ちの良い返事を返したものの何もなさすぎてすることがない。ただソファに座って考え事をするくらいしかなかった。
青年はこちらを振り向く。何を言われるのかと待ち構えていたけれど、笑いかけられ思いがけないことを言われる。
「ねぇ、万引きって古いよ。いつの時代だよってくらい。」
いや確かにある意味原始的な方法だったかもしれないけど、僕よりも幾年か長くこの世に滞在しているこの人にそう言われると腹が立つ。
「思いついたのがそれだけだったから仕方ないです。」
青年は鼻で笑った。
「そういえば学校どこ通ってるの?」
「三丁目の公立のとこです。」
「あー、あそこか。一回だけ前通ったことあるよ。薄ピンク色の校舎でしょ?」
「はい。あまりあの色、気に入ってないんですけど。」
「そうなの?まあ確かにちょっと古びた感じだよね。」
少年は苦笑いを浮かべると、窓の外を眺めた。普通の景色。友達の家に遊びにきたようなそんな感覚だ。何もいつもと変わったことはない。
「あとはダウンロードするだけだから。なんか食べる?」
「いや大丈夫です。」
「でもお茶くらいは出さないとだよね。」
青年はそう言って冷蔵庫のような棚の方へ歩いていった。
「お気遣いありがとうございます。」
お母さんが誰かの家にお邪魔するたびに口に出す決まり文句を真似した。少し背伸びをした気がする。
「できたみたいだ。ダウンロード。」
青年はお茶で埋まったマグカップを手に持ち、書斎の方へ歩いて行った。
「このアプリ使えるんだよね。」
「何のアプリなんですか?」
「財布代わりのアプリみたいな?誰かから送金されたりするとここに貯められる。個人情報を入力しなくても送金できるから安全。」
「あと、個人的な友人が開発したアプリだから信頼できる。」
アプリ開発者の友人を持つなんて、この人もよっぽど立派な人なのだろう。でも、本当に掴めない人だ。どうやって日常生活をしているのか。想像がつかない。
「じゃあどうしようか。早速やってく?」
「僕何もわからないので一から教えてください。」
「そんなこと言われたって、こっちも手探り手探りやってる感じだから教えられないよ。感覚で?」
青年は苦笑した。
少年は引き気味の笑顔を見せた。雲行きが怪しくなってきた。もっとITのスペシャリスト的な人なのかと思っていた。最近始めのだろうか。不吉な趣味だ。
「まずは下準備。」
「偽インスタグラムを作って、何人かの人をログインさせる。その人らは警戒心のない人。だから、ログインさせたことで獲得したメールアドレスに当選メールを送る。」
青年は考える。偽インスタにログインさせることでパスワードとメールアドレスは得られる。その人になりすますことは可能だけど乗っ取りは好きじゃない。
「当選人数は、現実味のある数がいいな。」
「例えば千人に一人とかの当選確率とかですか?」
「それくらいがちょうどいい。」
少年は、何か認めてもらえた気がしたのかニンマリとした。
「人間は、特別に選ばれたとなるとその機会をできるだけ逃したくないから。」
「でも、どの枠から選ばれたことしようか。何か買い物をしたからとか理由はいくらでも作れるけど全ての人に当てはまるものは、」
二人は頭を悩ませた。10秒くらい無言の時間が続くと、青年は声を上げた。
「そうか。アカウントから抽選で選んだことにすればいい。emailのアカウントでも何でもいい。」
少年は思いつきもしなかった。
「抽選の結果、何かを買わせたいんだけど、人間は住所入力とかめんどくさいことを拒むから。それに住所を他人に明かしたりはしないだろう。だから、何かデータをプレゼントすればいい。」
「アンケートに答えさせるのはどうだろうかな。」
青年はまるで一人で会話をしているようだ。
「見た目はシンプルに選択問題を多めに入れる。それと、提供として名の知れた企業の広告を出す。もちろん偽だけど。知っている俳優や企業を見ると安心するだろう。」
何て言うか、せこい。こうやって詐欺師は人を騙しているんだなと感じる。
「初めは個人情報は入力させない。いくつかの質問で選択をさせてから最後に名前だ。それで、あなたの友人にも限定で紹介したいという理由で友人のメアドかSNSのユーザー名も入力させる。その二つなら警戒心もなく与えられるだろう。」
果たして僕はこの場に必要なのだろうか。少年は考える。そんなモグラ叩きのように発想がニョキニョキと飛び出してくるなんて、僕には程遠い世界の話だ。
関係ないことを頭に浮かべながら青年の話を聞いていた。
「一旦その人には何でもいい、プレゼントを与えておく。そして、紹介された友人に、『あなたは〇〇さんから紹介されました。』ってメールを送る。信頼は使える。特に知人から紹介されたらなにか良いものではないかと勘違いしてくれる。紹介した張本人は、「ユーザー名くらい検索すれば出てくるし大したことない」とでも思っているだろう。でも、その繋がりが肝なんだ。」
青年は熱く語り出した。何に活かせる知識なのかわからないけど、この知識が今後の人生で何かに生きるかもしれない、と少年は思った。娯楽だと思って体験していたことが思わぬことに繋がるときだってある。
「そして、友人にも同じようにアンケートを答えさせる。DMから送られてきたアンケートなんて普通は答えない。例え、知人に紹介されたと記されてあっても。その点SNSを使うというのは便利だ。その人のフォロー欄や投稿、アイコンで誰が好きなのか、何に興味があるのか一目でわかる。それさえわかってしまえば、『俳優のサインが当たる。』とか『ダイエットグッズが当たる。』とか餌をつけて獲物を釣り上げればいい。その際も、絶対当たると書くと返って疑われてしまう。だから、100人に1人とかギリ疑われず、当たりそうな確率を書いておく。そのアンケート内でメアドも入力させる。同じように人を紹介させて、という輪の連なりを増やしていく。何か違和感に気が付かれてしまっても、その輪一つが壊れたくらいでその他に影響はない。それでいくつかの輪を作る。これで一人に振り掛けても、周りへの瞬発的な広がりが増す。」
青年は満足したように頷いてから口を閉じた。少年は圧倒された。年上だとはいえ、経験値はさほど変わらないはずなのに。どう生きたらこんな卑怯なことを考えつくのだろう。
「まあこんな感じだけど、まず偽インスタにログインさせるだけでも、それなりに放置させる時間が必要だから、1日2日じゃできない。だから、今日はできるとこまで。」
少年は元気良く返事した。しかし、内心は焦っている。自分にできるような仕事があるのだろうか。
「じゃあちょっと公式インスタのURL調べてくれる?」
「はい!」
不覚にも、仕事を与えられた喜びに、胸の高鳴りが声に現れてしまった。少年は恥ずかしさに赤面した。
作業中、なんとなくテレビの中を通過するニュースに気がとられる。
放送されているのは、この国が安全なのかと心配になるくらいの卑劣な殺人事件だった。しかし、全く関係ない誰かの話に感じてしまう。自分じゃなくて良かった。それが率直な感想だ。加害者と被害者の中になんらかのトラブルがあり、それが事件を招いたのだと知れば安心する。だって、自分がそのトラブルに巻き込まれなければ、被害を受けるのとはない。怖いのは無差別殺人とかだ。自分がその対象になりうると考えただけでゾッとする。
「関係ない話なんですけど、こうゆう人に生きている価値はあると思いますか?」
日頃思う疑問だった。この人なら何か答えを持っていそうな気がした。
「急にどうした?」
「いや特に理由はないんですけど、気になって。」
青年は、頭を悩ますふりをした。
「人の価値ってのは大体その人の行いによって決まると思う。」
その言葉は誰かから聞いたことがある。
少年は頷いた。
「僕の考えでは、この犯罪を犯すことで価値の数値がマイナスになるかもしれないけど、それ以前に、もしくは、その以後に何かプラスになるような行いをしたのであれば、生きる価値のないと一概には言えないと思う。例えば、犯罪によりマイナス100を食らっても、彼が更生してプラス100の善行をすれば、プラマイゼロで価値のない人間と定義づけるには無理があるってこと。あくまで個人の考えだけど。」
やっぱり、自分の答えを持っていた。かっこいいと尊敬の目で見上げた。
「でも、その考えだと、何もしなかったら価値がないってことですか?」
「生きてるってだけでも、十分立派な善行だと思うけど。存在しているだけで、誰かしらには貢献していると思う。」
例え、生まれて間もなく散った命でも、存在していた一瞬で誰かを笑顔にできるのだから、価値がないとは言えない。
「素敵な考え方ですね。」
少年は見惚れるように頷いた。
「だから、曲がった考え方かもしれないけど、親から虐待されてたって親がその子供を必要としているんだから価値はある。虐待されることで親が救われているのなら、貢献していることになる。」
青年は吐き捨てるような言葉を続ける。
「学校でいじめられてたってそのことでクラスが団結する可能性だってあるんだから価値がある。」
少年は、首を傾げた。
「虐待とかいじめを肯定化するんですか?」
それには反感を買う。
「肯定はしていない。ただ、誰かに虐められることで、自分は必要とされていないのだと幻滅するかもしれないけど、実は何よりも必要とされているかもしれないって話。」
「わかったようなわからないような。」
青年の紡ぐ言葉の意味はなんとなく理解ができた。何を説明しようとしているのかアウトラインは受け取れた。しかし、その理論を納得できるかは別だ。
「別にわかってもらえなくてもいいけど。」
青年は寂しそうに言った。
「それから、補足をすると、そのプラスマイナスを決定するのは周りの人だけどね。自分がいくら正しいと思ったことをしたって、周りの評価によったら真逆のレッテルを貼られるかもしれない。簡単な話、戦争中は殺人が栄誉とされていたのだから。」
そうか。周りの状況とかによって、自分の価値は決められる。そのために、人には優しくしろと教えられるのか。
「難しいですね。人から好かれるのは。」
思ったことを口に直結させてみた。
「無理に好かれようとしなくても、一つくらいは好いてくれる人がいるはず。」
そういうものなのだろうか。でも、確かに、どんな卑劣な犯罪者でも見捨てない人はいるはずだ。家族とか弁護士とか。
「複数人に少し必要とされているよりも、一人だけだったとしても、重宝してくれる人がいる方が嬉しい。だから、みんなに好かれる人間にならなくてもいい。」
その言葉で肩の力が緩んだ。誰か一人でいいから、自分を必要としてくれる人に出会えればそれでいい。そう言ってくれているようだ。
「それが実践できていれば完璧なんだけどね。」
青年は、聞こえないくらいにか細い声で呟いた。案の定、少年は反応しなかった。
「君はちゃんと人付き合いは大切にするんだよ。」
頷く。友達をもうちょっと大切にしてみようと改めて感じた。
その後も、なんとか少年は食らいつき、その場に相応しい人間であり続けようと努力した。そのおかげか作業は日没前に終わり、二人は別れた。
帰り際、青年は、
「しばらくはすることがないから、どんなに楽しみで胸がはち切れそうになっても明日は来なくていいからね。」
と忠告した。
馬鹿にしたような言い方に腹を立てた少年は後ろを一度も振り返らずに帰って行った。
家に到着し扉を開くと、お母さんがものすごい形相で突っ立ってた。何かめんどくさいことになる気がする。スッと横を通り抜けて2階にある自分の部屋に突っ走ろうと策略を立てたけど、それは到底不可能だった。横を抜けようとすると、お母さんは僕の道を塞ぐように左右にスライドし、その壁は単純な力じゃ簡単に動かなかった。これは失礼か。
「あなた、見たわよ。この間のテストの点数。ゴミ箱に捨ててあったやつ。」
少年は、やらかしたと言わんばかりに頭をわかりやすく抱えた。ここ最近は、落ち着かず勉強どころじゃなかった部分を考慮して許して欲しい。ただ、万引きに走ってしまったことを口を滑らして言ってしまいそうなので黙っていた。それに少年は熟知していた。何も言い返さず無言でお母さんの怒りを受け入れた方が早く済むと言うことを。
「しばらく、友達と遊びに外出するのは禁止。勉強に専念しなさい。」
「はいはい。」
いかにも、お母さんという感じの説教だ。時代遅れの気もするけど。
そもそも、仕事で忙しいはずなのになんでこんな時間にいるんだよ。お金足りてないんじゃないのか。
もちろん、自分の知らないところで、お母さんが一生懸命働いてくれていることは知っている。お母さんに八つ当たりするのは間違っているってことも十分承知している。でも、そうゆう年頃なんだと理解して欲しい。
自分の部屋に駆け込んだ。ベッドに身を投げて、深呼吸をする。落ち着いて一つ気がついた。外出できないのなら、あの人の家にお邪魔することもできない。手を組むも何も会うこともできない。思わぬ障害だった。
もちろん、四六時中監視されているわけではないので、家を抜け出すこともできるが、お母さんを騙してまで行きたいわけじゃない。それに、しばらくは来なくていいと言われたし、素直に従うとするか。暇になるな。
きっと僕がいなくてもあの人は問題ないのだろう。むしろ、邪魔者がいないから気を使わずに作業に集中できるって思うのかな。
それから、2週間くらいが経って、やっと外出許可が出た。本気を出し、この間の期末テストで過去最高得点を叩き出したのだ。全てはあの人と作業をするためだと考えると、なんかギクシャクするけど、とりあえず良かった。そして、夏休みにも突入した。何かこの夏休みは例年と異なる一カ月になるような気がする。
「お、久しぶりだね。」
まだ記憶に残っていた道を辿りあの人の家に行くと、案の定、そんなセリフが返ってきた。
少年は、成績のせいで外出許可が下りなかったなんて恥ずかしすぎて口が裂けても言えないので、青年に何があったのか尋ねられる前に無言で入っていった。
「結構作業進んだよ。」
「やっぱり僕は要らないみたいですね。」
不貞腐れながらそういうと、青年は首を傾げながら問いかけた。
「お母さんに怒られた?」
「え?」
「いや、なんかそんな感じがしたから。」
焦って汗をかく。手のジェスチャーを付け足して必死に否定した。
「別に違います。しばらく来なかったのは、来なくていいって言われたから。」
「ふーん。まあいいけど。わざわざ来なかった理由を自分から明かすあたり怪しいな。」
しまった。失敗した。
青年はぎらりと瞳を輝かせた。
「それは置いといて。今日は何をやるんですか?」
青年は、「話逸らしたな」と言わんばかりの表情を見せた。
「君が外出を制限されている間に、かなり進めておいたからね。」
もうすっかりバレてしまった。悔しいが、それだけ賢いなら信頼できる。
「前回教えた下準備は全部終わってる。」
まあ2週間もあったのだから当然だと青年は思う。
「こっからが楽しいところ。」
声に胸の高鳴りを込める青年が不気味だった。身に余る服を着ているようだった。
「ちなみに何人くらいが引っかかったんですか?」
「ざっと1000人くらい?」
少年は頭を抱えた。実際に引っかかった人間の数を知ると現実味が湧く。それだけの人を騙したのだと実感する。その1000人の中には知り合いや親戚が含まれているかもしれない。
「楽しいところって具体的は何をするんですか?」
「そうだね。」
「例えば、君が友人からプレゼントをもらったとする。しかし、君は全く同じ商品をすでに購入していた。ちなみに未開封ね。二つはいらないから一つ売るとするとき、どっちを売る?」
まるで数学の問題のような言い方だった。少年は頭を捻った。でも、答えは案外早く出た。
「自分で購入した方ですかね。」
「だよね。他人からのプレゼントって実際の価値より高く思える。まあ値段だけが価値じゃないから、誰かが時間を割いて選んでくれたことを考慮すれば価値が高くなるのも心理的で不可解な選択とも言い切れないけど。」
「まあとにかく友人から貰ったプレゼントは値段が気に入らないものでも、それなりの価値を感じてしまうってこと。」
「はあ。そしてそれを利用すると。」
青年は頷いた。悪魔的な笑みを見せつけながら。
「簡単。前回作った複数の輪の連なりのそれぞれ一人にメールを送る。その時、URLだけの方が、余計な文章を足すよりも、踏まれることが多い。そして、案内されたサイトでは、友人にものづくりをしてプレゼントできるというものだ。作らせるのは、壁紙でもメールで使えるスタンプでも何でもいい。データの方が作りやすいし使いやすいし騙しやすい。」
騙しやすい、か。生々しい表現にみくびる。
「普通だったらそんなのめんどくさい。でも、いくつかの選択肢から選択していくだけで完成するとしたら、5分でできるとしたら、少しはやってもいいという気分になる気がする。作成し終わったら、共有ボタンを押させる。そしたらこっちが勝手に相手に送ればいい。50から200円の料金をつけて。」
確かに、5分でできるのならやってみてもいいという気分になるかもしれない。それに、誰かがそれで喜んでくれるのならやってみたいかも。
「でも、作り手はプレゼントではなく売買するってことは知らないんですよね。それってなんて言うか、卑怯じゃないですか?」
青年は考える。彼の言うことは間違っていない。卑劣なやり方だ。弁護しようがない冷酷なやり方だ。
「そんなものばかりだよ。」
自分の口から出た言葉はそんなものだった。少年の、布に染み込んだ青い絵の具のようなしみじみとした顔が視界に張り付く。そんな顔をされたら、誤りを認めてしまうじゃないか。なんとか自らを奮い立たせる。
「受け取った相手は、たとえ必要なかったとしても、友人が自分だけのために時間を割いて一から制作してくれたことを考えると買わないわけにはいかない。まあ、実際には5分で作り終えたような簡単な作品だけど。」
「それに人間が一番壊したくないのは人間関係だ。買わないなんて選択肢は消える。でも、彼らは自分が友人との関係にかけたお金は、作り手に送金されると勘違いをしている。実際には、企業側つまり僕たちに送金される。」
「そんな。酷い。」
少年は失望したようだった。自分の選択はやはり間違っていた。こんな非道なこと続けるべきじゃない。
「どうしてそんなことができるんですか?」
「実はずっと聞いてみたかったんです。お年寄りとか若者とか弱い者を狙って騙したりする詐欺師ってなんでそんな冷酷なことができるんですか?」
少年の瞳は至って純粋だった。純白な疑問なのだろう。
しかし、その瞳に応えられるような正しい答えは持っていない。
「勘違いをしているようだけど、人からお金を騙し取るのを詐欺だというなら、僕は詐欺師じゃない。」
少年は何を言っているのかわからなかった。正真正銘の詐欺師じゃないか。
「今回は君と手を組む約束をしたから別だけど、いつもは全部返金している。」
「それって、じゃあ何のためにこんなことをしているんですか?」
「ただの趣味。」
青年は投げ捨てるようにそう言った。
「趣味?」
少年は理解できないというかのように首を傾げた。
青年は頷く。わかっている。理解できないような悪趣味だってことくらい。初めっから、理解してもらえるんじゃないかと勘違いなんかしていない。
「趣味は言い過ぎた。厳密に言えば、趣味ではない。中毒性に嵌っているだけ。」
「つまり依存していると?」
「なかなか言ってくれるね。解釈的には間違ってないけど、言い方が気に入らない。」
同等な意味じゃないか、と少年は思う。
中毒にしても依存にしても、只事ではない。スマホ依存がまだマシに感じる。だって誰にも悪影響を与えないのだから。
「多分だけど、君が思っているような中毒とはちょっと違う。まあ内容的には変わらないけど、もっとちゃんとした理由があってのことだから。」
「その理由は何なんですか?」
少年は容赦しなかった。
「気が向いたら教える。」
青年は1ミリも笑っていない。その真剣な表情は、少年を凍らせた。それ以上質問はなかった。
「まあそれは置いておいて。君はホームページを作ってくれる?」
「おしゃれな感じに仕上げて。花の画像とか入れて。色は薄い桃色か紫色。フォントは教科書体。手作り感がない公式らしいホームページにして欲しい。」
何も解決した気がしないのは僕だけだろうか、少年は考える。そもそも卑劣なやり方に僕が反抗し、なぜそんなことができるのかを尋ねたところから始まった。その問いの答えはもちろん、僕の反発もなかったことにされている。
しかし、何か反対してはいけない殺気のようなものを感じる。ここは黙って作業に集中すべきだろう。空気も読めない子供だとは思われたくない。
それから、お互い何も話さず無言で作業を続けた。学校でホームページを作る講習みたいなのを受講したことがあったので、右も左もわからないという状態からは抜け出すことができた。しかし、学校で教わったのはもちろん簡単な基礎的なものだった。流石に公式感を出すようなそれっぽくなる技術は持ち合わせていない。とりあえず、基本的な情報をサイトに打ち込む。フォントは言われた通りの教科書体に設定したけれど、それ以降が進まない。僕にはそれくらいが限界だった。元々プログラミングなんてやったこともないのだ。できるはずがない、と自分自身を擁護する。
「ちゃんとやってる?」
一時間ぶりくらいに声を聞いた。
「やってはいますけど、僕の知識じゃ到底完成しないです。」
青年は、片方の頬をつりあげて笑うと、当たり前のように言った。
「じゃあ勉強して。本なら貸してあげられる。」
「え?今から?」
青年は眉にひょいっと吊り上げてから頷いた。そして部屋を離れ、しばらくすると10冊ほどの本を手に乗せ戻ってきた。
「これ全部ですか?」
コンピューターやソフトの使い方から、プログラミングの基礎、サイトの作り方、専門用語集などなど、分厚い本が山のように積み重なっている。
「時間なら割とある。」
いや、あるけど。だからといって、この本の山を読破できるかは別の話だ。
「何のために?」
第一、僕はこの分野の専門に進みたいというわけではない。特別に興味があるわけでもない。なぜか、波に巻き込まれ、奇跡的にここにいるだけだ。
「いずれ、何かのためになる。」
そりゃ、否定はできないけど、もっと他の科目の勉強をしていた方がためになる気がする。と、勉強とは無縁の日常を送っているくせに、逃げ道を作るためそんな大人びたことを考える。
「別に強要はしないけど、必要なんじゃない?だって、することがなかったら暇でしょ?」
それも確かだ。僕がここに彼の助手のように存在する意義がなくなってしまう。いてもいなくても同じだなんて、情けない。
「わかりました。ありがとうございます。」
一応、厚意で貸し出してくれているのだと思うから、お礼を言っておいた。
と、借りたのはいいものの、全く頭に入ってこない。漢字とひらがなの組み合わせはなぜこんなに眠気が襲うのだろう。いや、漢字のみの方がきついか。カタカナだったら、もう少しユーモアがあるだろうに。思考は勝手に意図もしない方に傾き、本質は頭の中を通り抜けてどこか遠くに消えていく。
「どう?何かわかった?」
「この本に何か魔術でもかけました?睡魔が襲ってきて一文字も頭に入ってきません。」
少年は、目を擦りながら真面目にそんなことを言った。青年は、面白い生き物を見つめるような目で彼に視線を向けている。
「まあ頑張って。」
青年は、満面の笑みを作った。
少年はため息をつきながら読み進める。
「それ持って帰っていいから。」
「ありがとうございます。」
少年はそう言ったものの、家族に見つかってはいけないと背筋を伸ばした。もし、この本を読んでいることがバレてしまったら、内容によっては問い詰められるだろう。きっと。
そんなこんなで気がついたら1週間が経っていた。全て読破した少年は誇りを胸に青年の家へ向かった。勉強よりも優先させてこの本のことばかりを頭に巡らせていた。脳内で復習の作業を何度も繰り返し脳に定着させた。移動時間もブックカバーをして、常に持ち歩き読み進めた。そのおかげか、この分野についてそれなりには詳しくなったと思う。パソコンをいじれるくらいにはなっただろう。
「もう来るのが遅いから、ほとんど作業終わっちゃったよ。」
自信満々に胸を張って登場した少年は、肩を下ろした。
「え。僕の番ないんですか?」
これだけ頑張った努力が報われないなんて。
「まあ次のやつで頼むからよろしく。」
「次のやつってまだ続けるんですか?」
「そのつもりだけど。」
嬉しいような悲しいような。学んできた成果を発揮できる場が設けられることは喜ぶべきだが、これからもこの卑怯な所業を続けるのだと思うと、素直に喜べない。
「わかりました。僕にできそうなことがあったら読んでください。」
そう言ってもう座り慣れたソファに腰を下ろすと、本の復習を始めた。
青年はその様子を奇妙そうに見ていた。ここまで、ハマるとは。まだ対して何もさせてないのに。
「ずっと聞きたかったことがあるんですけど、今良いですか?」
青年は頷く。大した質問ではないのだが、気になった。
「普段は何されているんですか?」
大人に向ける一般的な質問だと思う。
「何してると思う?」
「え?」
まさか逆に質問されるとは思わなかった。一生懸命に頭を悩ます。
「IT系の会社のそこそこ偉い人とか?」
頑張って失礼にならないように少し盛った。でも、ベンチャー企業の社長とかをやってそうなイメージだ。
青年は微笑んだ。
「真面目に普通の会社員やってるよ。確かにIT系と言われれば、そうだけど。」
意外と一般的な仕事をしているのか。もっと彼の才能を活かせそうな職業もありそうだけど。なんて流石に上から目線すぎる。
「この仕事で稼げたらそんな必要ないのに。」
心の声が漏れた。日常的に人を騙しているのかは知らないけれど、手際の良さから推測するに、日頃からこの仕事をしているのだろう。
「この家だって、もっと良いやつ買えるんじゃないですか?」
会社員をやっていたとしても、もうちょっと広々としていても良いと思う。大学生じゃあるまいし。
「別に僕はお金に塗れたいわけじゃない。節約しているんだって。」
そういうことなのか?まあ深掘りする話でもない。それ以上、話は進めずに、個人の仕事を進めた。少年はひらすらに本を読み続けた。
「ほらできた。」
青年の高い声が響いた。
少年はそばまで近寄ると、パソコン画面を覗き見る。何かホームページのようなものが画面に表示されている。
「すごい。」
気がついたらそう呟いていた。まるで本物みたい。公式だって言われても疑わないくらい信頼性のあるサイトだった。なんていうか公式の特徴を捉えている。
「あとは、ここで送信する人を選択して送るだけ。」
青年は誇らしげに説明した。
「これだったら、僕も騙されそう。」
今時のいわゆるエモい写真がところどころに載せられていて、何か良いものではないだろうかという誘惑を感じる。青空と花束の写真なんかは、友人へのプレゼントをさらに美化させるものだった。お母さんに見せたらきっと引っかかるだろう。
「明日が楽しみだ。どれくらいウォレットに貯まるかな。」
青年は、純粋で素直な子供のようだった。
その率直な心からの笑みは、普遍的なものと変わらない趣味なのではないかと、少年を納得させるようなものだった。
単純に、この状況が楽しいのだろう。心を躍らせるのだろう。理解できないが、否定もできない。
家に帰ってもその表情が頭から離れようとしなかった。脳裏にくっきりと焼き付いていた。母に『ごはんよー』と甲高い声で呼ばれた瞬間も、『お風呂に入りなさい』と野太い声で急かされた瞬間も、彼に常に監視されているようだった。それくらい共にいた。
新しい種の人間のように思えた。理解できない行動で自分の欲望を満たす。創作作品で登場するような極悪犯罪者に出会ったような気分だ。事前に距離を置いてしまうような。何か僕たちを遮る壁を感じるような。そんな感覚だった。到底僕は追いつかないところにあの人はいる。追いつく必要があるのかどうかはわからないけど。
脳に染みついたあの人と共に、少年は翌日も日常的に青年の家を訪ねた。
「おはようございます。」
少年のその挨拶にいつもの張り切った笑顔が見えなかった。何か変化があったのだろうか。いくら休日とはいえ、朝から来るなんて想定外だ。
「そういえば、だいぶ貯まったよ。」
お金が、とは言われなくても、何を指しているのか察しがついた。煌びやかな笑顔でその功績を称える気にはなれなかった。家に入れてもらい、成果が金額として表れたとき、喜びという感情からは一番遠いところにいた。
約20万円。画面に表示された額を目でなぞる。膨大な金額、という肩書きは荷が重いだろうけど、中学生でバイトもしていない僕にとっては、夢のあるような金額だった。
気持ちが悪かった。気味が悪かった。顔も知らない相手から、お金を巻き上げるというのは、こんなにも胸が縮むものなのだろうか。悔しくはない。悲しくもない。ただ、胸が痒かった。鼓動は早くはないが大きかった。これが正当な感情なのだろうか。
腹の真ん中あたりが痺れた。両腕の一部に寒気を感じる。まるで、喉に詰まった魚の骨のようだ。ふと、思い出して唾を呑み込むと存在感を表すように痛めつける。どうにかその障害を頑張って呑み込んで高笑いをしてしまえば、それで解決する気もした。そうするほどに技術と道具がなくても、気がついたら骨は消え、痛みとも同時に別れを告げられるかもしれない。でも、希望がなかった。いつになったら、この大きく育った骨を呑み込むことができるのだろうか。僕はいつまでこの傷を喉で飼わなければいけないのだろうか。自分で選んで魚を食べたくせに。この事態も想定していたはずなのに。
この少年の葛藤が小さく見えるくらい、隣に直立する青年は大きかった。簡単に言えば、慣れているのだろう。きっとどこかの神経が麻痺している。そのせいで違和感を感じない。可哀想だと思う。
自分の犯した罪を忘れている間は幸福だった。忘れるというより、考えていない間は幸福だった。しかし、尻尾がだんだんと見えてきて、頭の中でその内容の全貌を再生したとき、むずむずと心が捻る音がした。
「次はどうしようか。」
「まだ続けるんですか?」
「そのつもりだけど。」
「20万もあれば十分ですよ。」
「20万じゃ対して何にもならない。舐めすぎ。君には価値がわからないかもしれないけど。」
そうなのかもしれない。僕には、まだわからない。お金の価値もまだ掴めていない。
「価値の話をするならば、こんな不正なやり方で稼いだお金なんて価値がないですよね。それが結論じゃないですか。」
「そう言われちゃ何も返せないな。」
何か答えを発見してしまったようだった。正解だったようだ。
「でも、それは君がそう信じているだけ。世間からすれば、汗を垂らして稼いだ紙幣も、椅子に座り指を動かすだけで稼いだ紙幣も何も変わらない。同じ。」
少年は黙り込んだ。このいかにもというような暴論に反論できるほどの力を持ち合わせていなかった。それなら、僕はこの暴論を否定するために続けようか。罪を犯し続けようか。
「わかりました。それじゃあ続けます。手伝います。」
青年は首を傾げた。説得できるような理由ではなかったはずだ。少年の中で何かが解決したのだろうか。
「でも、その前に質問させてください。僕の生活していけるだけのお金を稼ぎたいという願望を叶えるためだけに、人を騙し続けるわけじゃないですよね。他にも理由があるんですよね。」
「どうしてそう思う?」
「なんとなく。」
その言葉でまとめた。獲物を狙うようなその瞳とか、常に怒りを抱えているように感じる動作とか。推し測る材料はいくらでもある。ただ、一つ一つ説明するのはなんだか恥ずかしい。
「まあそうなのかもね。」
案の定、誤魔化された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます