夏への扉
俺は、逃げるように公園を後にした。
そういえば、これからどうすれば良いのだろうか? マホ子を助けた後の事は、全く考えていなかった。
(一旦、菜の花畑に戻ろうか……)
そんな事を考えていた時である。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……
「えっ……」
視界が揺れ、足元が覚束無い。座り込んだ状態で辺りを見まわすと、自分を中心に地面が沈降しているように見えた。
「地震か……?」
辺りを確認する間もなく、脳が揺れる。三半規管が狂う。胃の中の物を全部吐き出す。
蜘蛛の巣のように地面が割れて、破片が暗闇へと落下していく。
蟻地獄にズルズルと引きずり込まれていくような感覚。
這い上がろうにも足が震えて動かない。手を動かしても、両手はただ虚空を掴むだけだった。
(風呂の栓を抜いて、残った水が最後に渦を巻いて吸い込まれていくような……)
叫びすらも吸い込まれていく。深い海の中に沈んでいく。暗闇の中から伸ばした手だけが辛うじて光の中に留まっていた。
今の俺は、本来、この時間(過去)には存在しなかった異物だ。異物を排除しようとするのは、当たり前の反応だ。
「いや、逆だな……」
俺は、過去に取り込まれようとしているのだ。
意識だけが過去に囚われ続けるのだ。
『いい加減、認めちまえよ……本当は子供のままでいたかったんだろ?』
また自分の声が聞こえた。
相変わらず痛い所を突いてくる。
「認めよう……俺は、大人になんてなりたくなかった」
過去とは、つまりマホ子の記憶だ。
マホ子の思い出の中で、俺は子供として生き続ける。
そして過去からマホ子に、願いを託す。
『素晴らしいじゃないか……』
自分の声に黙って頷き、そっと目を閉じる……
水滴が、頬を濡らした。
「……いや違う。その願いは呪いだ! マホ子を前に進めなくする呪いだ!!」
何を考えてるんだ、俺は!? 絶対に戻るんだろ!? 絶対に! 絶対に!!
足掻け! 足掻け! 足掻け!!
血反吐を吐いてでも! 這い蹲ってでも!!
絶対に帰るんだ! マホ子と一緒に未来を歩んで行くんだ!!
「俺は、マホ子の隣にいるんだ!!」
心の中の全部を吐き出して、暗闇に手を伸ばす。
手首のミサンガを見詰める。その先に光がある。
『ネー君……』
どこからか、俺を呼ぶ声が聞こえた気がした……今の俺には、その声だけで十分だった。
深い深い暗闇の底の底の底で、その声は、まるでお釈迦さまが地獄に垂らした蜘蛛の糸のように……いや、もっと太い“縁”のように感じられた。
ここでふと、上着の内ポケットから光が漏れていた事に気付く。
そう、こういう時は、ベタな方が良いのだ!
「何時か、ちゃんと大人になって、この封筒を開けないとな……」
脳裏に映像が浮かぶ……父さんが必死に営業をしていた。母さんが夕食の準備をしていた。サクラちゃんが巨大化してイドの怪物と戦っていた。スグルが真剣な表情でビックブラザーの操作をしていた。アイリが祈ってくれていた。学園の皆が……町の人達が……
―――そして、マホ子が……
次の瞬間、頭上の暗闇が破られる音を俺はハッキリと聞いた。暗闇の中に光が差し込むのを、俺はハッキリと目にしていた。このクセになりそうな浮遊感。
「これって、マホ子の念動力かな?」
ゆっくりと浮遊していく……
水鏡に青空が広がり、水平線の向こうに巨大な紫色の雲が、山脈のように連なっていた。浮遊する雨粒に日差しが反射し、星屑のように輝いている。
水滴が弾けて、初夏の天気雨のにおいがした。
青空に、走馬燈のような映像が投影されている。
初等部の入学式に、夏の公園、オカ研の合宿に、中等部の卒業式……
「これは……この前、死んだ時に見た俺の記憶か……?」
いや、違う。この記憶は……これが、マホ子の宇宙。
『ネー君、私と出会ってくれてありがとう』
目が覚めると、また何時もの公園だった。
「こういうのも、膝枕って言うのかな?」
「ハハハ……膝敷布団かもね」
マホ子が微笑みを浮かべながら俺の事を見下ろしていた。
何時の間にか、またネー君の姿になっていたようだ。
「つくづく、この公園とは縁があるな……」
「うん。私とネー君が初めて出会った公園だもんね」
桜は既に散ってしまい、翡翠色の葉が茂っていた。
緑のカーテンから、月明かりが僅かに漏れていた。
「桜、散っちゃったね……」
マホ子が俺の背中を撫でながら言う。愛おしそうに桜の木を見上げていた。
毎年、桜が散る度に思う。
桜の花が咲いている時間は、こんなにも短かったのか、と……
「ネー君、来年もこの場所で一緒に桜を見ようね……再来年もその次の年もそのまた次の年も……」
「うん……」
「ネー君、これからも2人で……一緒に大人になっていけたら良いね」
「大人か……」
「そう、ゆっくりで良いから……ね?」
風が吹く……暖かく湿った風が頬を撫でる。
海のにおいが、微かに鼻先を掠めた。
「今日は、なんだか夏みたいだね。半袖で良かったかも」
マホ子が風で乱れた髪を掻き上げながら言った。
「また夏が来るな……」
緑のカーテンを見上げながら呟く。
季節は、春から夏へ……少しづつだが変わっていく。
出会ってくれた、あなたの為に 完
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