アルテミス
次の瞬間、俺は魔女の家の中庭にいた。
辺り一面に勿忘草の花が咲き、中央にはブナの木が1本、俺を見下ろしていた。
「やっぱりコアの内部に入ると、人間の状態に戻るみたいだな」
ネー君の状態も決して悪くはないが、やはり自分の足でしっかりと大地を踏みしめられるのは、ありがたい。
それはそうと、今回、マホ子は、こちらに来ていないようだ。
おそらく、“彼女”が拒んだのだろう……
俺は、辺りを見回すと、木の根元で座りながら、文庫本を読んでいる“彼女”を見つけた。
「やっぱり、小谷さんだったんだ……」
小谷さんが、文庫本から俺の方に視線を向ける。
そして、ブランケットが敷かれた地面をポンポンと叩くと、俺に座るよう促した。
紅茶が2人分、淹れてあった。
「残念、見つかっちゃったわね」
そう言って、小谷さんは、紅茶を一口飲んだ。
言葉とは裏腹に、その表情は少し嬉しそうに見える。
小谷さんは、紅茶をブランケットに置くと、文庫本をゆっくりと閉じた。
『月は無慈悲な夜の女王』だったかな……?
「あの日……卒園式の3日前ね。私は、マホを含めた幼稚部の友達と一緒に、隣の公園でかくれんぼをしてたの。ただね、最初は良かったんだけど、だんだん隠れる場所がなくなってきちゃって。それで、マホを見たら、あの子、少し寂しそうな顔をしてたのよ。今になって思うと、周りが皆、マホに気を使って、かくれんぼをしていたのが、辛かったんじゃないかしら? マホがすぐに分かるような場所に隠れてても、皆あえて探そうとしなかったからね。でも、その時の私は、マホが何であんな顔をしていたのか、よく分からなかったのよ。きっと、かくれんぼが退屈なんだなって思っちゃったのよね。だから言ったのよ『魔女の家の窓が少し開いてたよ』って……」
老朽化が原因だろう。魔女の家と公園の間にある壁には、ちょうど子供が1人くらい通れる大きさの穴が空いていたらしい。
「それで、暫くしてから、皆でマホの事を探したんだけど、結局、マホは見つからなくて……私もね、まさか本当に魔女の家の中に入ったなんて思わなかったから……」
「そうだったんだ……」
「そう。それでマホちゃんは、きっと先に帰ったんだろうって……一応、魔女の家の近くで名前を呼んだり、窓から部屋の中を覗き込んだりもしたんだけどね」
時折、言葉を詰まらせながら、それでもゆっくりと小谷さんは言葉を紡いでいく。
「それでね。家に帰ってから、両親の会話で、私たちが帰った後に、魔女の家が火事になったって知ったの。それを聞いて、急に怖くなったわ……もしマホが魔女の家の奥にまだ隠れていたらどうしようって……もしそうだとしたら、それは私の責任だって……もちろん、すぐに魔女の家まで行こうとしたわ。でも当時の私はまだ小さかったし、もう夜だったから両親が外出を許してくれなかった。自分のせいで友達が酷い目にあっているかもしれないなんて、言えるはずもなかったし、マホの家の電話番号も知らなかった……だから、私、その日の夜はとても不安でね。もしマホが火事に巻き込まれていたらどうしようって、一晩中考えてたわ……」
勿忘草の花が風に揺れていた。木漏れ日が目に眩しかった。
「皆が帰った後に、私だけでも魔女の家の中を探せば良かったって、ずっと後悔してた……」
「うん……」
俺は黙って、ただ頷く事しか出来なかった。
「その日は、結局、一睡もできなかった。とにかく居ても立っても居られなくて、次の日の朝一番にマホの家に向かったの。そうしたら、家の前でマホとあなたが遊んでいるのが見えたのよ。あの時のマホの顔は今でも忘れないわ。本当に……本当に楽しそうだった。それでね、その時のあなたとマホを見て思ったの。私にはマホと一緒にいる資格はないんだなって……」
「ありがとう。話してくれて……」
でも、本当は……
「その後、風の噂で火事の現場から女の子が助け出されたって話を聞いたわ。それで色々と合点がいったというか……助けたのって、あなたのお兄さんでしょ?」
小谷さんが俺の目を真っすぐに見据えて言った。四つん這いになって、俺の頬に唇を近付ける。
「それとも違うのかしら?」
動揺する俺に、小谷さんは悪戯っぽく微笑んでみせた。
「私にはマホと一緒にいる資格はない。でもせめて、あの日の事をマホに謝りたい。それが、私の自分勝手な願い……」
「小谷さん、その事……マホ子にも……?」
小谷さんが、俺の唇に人差し指を押し当てて言った。
「お願い、それ以上は言わないで……」
her regret 完
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