復活の日

 波の音が聞こえる。

 同じリズムで何度も何度も寄せては返しを繰り返していた。

 とても心地が良い……ここは落ち着く……

 暗闇にうっすら光が見えた。波間に揺蕩う虚ろな光。

 波の音が聞こえる。波の音が……

 ふと気付く。それが誰かの心臓の鼓動である事に。

 これは俺の心臓の音か? 自分の胸に手を当てる……違う。

 じゃあ……この音は……この優しい鼓動は……


―――その瞬間、目が覚めた。


 目を開けると、そこには優しく微笑むマホ子の顔があった。

 瞳から一筋の涙がこぼれていた。制服の赤いリボンが風で揺れていた。


「まったく、ネー君はお寝坊さんだなあ……」


(えっと、これってどういう状況なんだろう?)


 まだ夢の中にいるような感覚だった。

 一度、目を閉じて状況を整理してみる。

 少し身体が重く感じるが、とりあえず五体満足で無事なようだ。

 制服も着ているし、脱げたローファーも、木の枝に引っかかったマフラーも、どういう訳かしっかりと身に着けている。胸ポケットには携帯が入っている感触もあった。


(まあ、それはそれとして……)


 後頭部がなんだかとても温かい……というか柔らかい……


「マホ子さん、これって膝枕ってヤツですよね?」


 目覚めて(復活して)最初の言葉がそれかよと思う。


「そうだね……」


 マホ子が目尻をそっと人差し指で擦りながら言った。


「ここは何時も通学の時に通る公園、か……?」

「うん。私とネー君が小さい頃によく遊んだ公園だよ」


 どうやらマホ子は、公園の隅にあるベンチに座って、俺が目覚めるのを待っていてくれていたらしい。

 さっき見えた“波間に揺蕩う虚ろな光”は、どうやら街灯の光だったようだ。

 光は、真っ白な桜の花を、まるで夜空に浮かぶ星々の淡い光のように幻想的に映し出していた。


(朝、通った時は、桜が咲いていた事なんて、気にも留めなかったなあ……)


 いろいろと言いたい事はあった。だが何よりも先に言うべき事があった。


「ありがとう。マホ子は命の恩人だよ」


 そう言って、マホ子の濡れた頬にそっと手を伸ばす。


「ううん、私がしたくてした事だもん」


 マホ子が、俺の伸ばした手を掴んで自分の頬に当てる。


「怒鳴ってゴメン……ビックリしたよな?」


 マホ子が黙って首をゆっくりと横に振った。


 風が吹く……暖かい風が頬を撫でる。桜の花びらが散ってプリズムのように輝く。

 俺が立ち上がると、続いてマホ子もすっくと立ち上がった。

 そして、俺の背中をバシバシと叩く。


「いやだから、もっと優しく……」

「うん。やっぱりネー君、背伸びたよ。男の子だもんね。これからどんどん伸びるよ」


(春の風のにおいがする……)


「……きっと、私の身長。もうすぐ追い抜かれちゃうね」


 今なら言える気がした。今言わなきゃ後悔する気がした。

 俺は、マホ子の肩に手を置いて言った。


「お、俺は、その、ずっと前から、その、マホ子の事が好きで、ずっと付き合いたいと思ってて、あの、もちろん迷惑なら断ってもらって本当に大丈夫というか……とりあえず友達からって、もう友達というか……と、とにかく俺の気持ちだけでも知っておいて欲しいというか、と、とにかく好きです! 大好きです!」


(……やっちまった!)


 後で思い出して、ベットの中で叫んじゃうやつだ。

 思わず、目を閉じて下を向いてしまう。

 大事な話をする時は相手の目を見て言う。コミュニケーションの基本である。

 本当にヘタレで申し訳ない。


(頼む、YESでもNOでも良い!……いや、NOだと困るけど……とにかく何か返事をしてくれ!)


 恐る恐る目を開けてマホ子の表情を確認する。

 確認……する……と……


(何あの“きょとん”とした表情!? えっ、笑ったりとか泣いたりとか、そういうの無いの!?)


 思わず、もう一度目を閉じてしまう。

 ひょっとしてアウトオブ恋愛対象だった男子から急に告白されて脳が理解を拒んでる!? 『えっ、コイツ何言ってんの?』とか思ってる!?


 碌でもない考えが、一瞬でいくつも脳裏をかすめていく。

 目が点になって、グルグル回って、嫌な汗がどっと噴出す。


(どうする!? 冗談でした、みたいな感じで煙に巻くか!?)


「ネー君、私たちって付き合ってるんじゃないの?」

「えっ……?」


 思わず、マホ子の目を見てしまう。


「えっ……?」


 マホ子も、なんだかよく分からないといった顔で、俺の目を見ていた。


「そのですね、マホ子さん。付き合うっていうのは、友達付き合いとか近所付き合いとか、そういう事ではなくてですね。その、男女としてのお付き合いをですね……」「うん。そうだけど……」


 マホ子がまたきょとんとした表情になる。


「えーっと、ちなみに何時から付き合ってる事になってるの?」

「小3の春休みに、俺たち結婚を前提に付き合おうって、ネー君が……」


 小3の春休み……言われてすぐに思い出した。いや正確に言うと、一応、忘れてはいなかったのだが……


(言った……確かに言った……)


 あの時の俺は、どうかしていた。前日に見た、ちょっぴり大人な恋愛アニメの熱に浮かされていた。大人なシーンの興奮で、一睡も出来ず、変なテンションになっていた。なのでまあ、俺としては恥ずかしい過去として、脳内フォルダのかなり深い階層に封印していたのだが……


(いやでも、子供の頃の話だし、そういうのはノーカンじゃないの?)


「夕日に染まった菜の花畑で『マホ子。大人になったら俺たち結婚しよう!』ってネー君が言ってくれて……」


 マホ子がうっとりとした顔で言う。


(頼む、止めてくれ! 夜な夜な思い出しては、恥ずかしくなって、ベットの中で叫んじゃうじゃないか!!)


「私、とっても嬉しくってね。それからずっとネー君の事ばっかり考えちゃって……」


 気付いたら、二人とも頭の上に桜の花びらが積もっていた。真っ赤になった顔を指差し、笑い合っていた。


「やっぱり、どうにも締まらないなあ……」


 これが主人公と脇役の差だろうか。

 俺は、上気した頬を人差し指でポリポリと引っかきながら言った。


「その、これからも、よろしく頼むよ……」

「うん」


 街頭のスポットライトに照らされて、マホ子が静かに微笑んだ。舞い散る桜の花びらが、まるでカーテンコールを告げる紙吹雪のように見えた。


 (間奏)


  それから家に帰る道すがら、マホ子にこんな事を聞かれた。


「ところでネー君は、私たちが出会った日の事、覚えてる?」


 『何だよ藪から棒に?』……そう言いかけて、気付く。


「そっか。俺とマホ子が初めて出会ったのも、この公園だったな……」

 

 平成2年……その年は、桜の開花が平年よりも1週間ほど早かった。


 (reminiscence start)


 俺とマホ子が初めて出会った日……その日も、今日と同じように、桜の花びらが雨のように降り注いでいた。

 公園のジャングルジムで、1人、ヒーローごっこをしていると、誰かが俺を呼ぶ声がする。


「おーい、康太! ゴホゴホッ……」


 呼ばれて振り返る。


「兄ちゃん!?」


 目の前に女の子を抱きかかえた兄貴が立っていた。


「兄ちゃん、この子は?」


 女の子は気を失っているようだった。


「ああ、この子なら大丈夫だ! 別に大した事はない。俺も走ったからちょっと喉が痛いけど、まあ大丈夫だ!」


 まるで華奢な硝子細工でも扱うように、兄貴がゆっくりと少女をベンチに寝かせる。


「兄ちゃん……病院に連れてった方が良いんじゃ!?」


 兄貴が少女の額にそっと手を置く。あの時の兄貴の表情……愁いだったのか? 安堵だったのか? 当時の俺には、よく分からなかった。


「大丈夫。今は、ちょっと疲れて眠ってるだけだ。だから大人を呼ぶ必要はない」

「でも……」


 動揺からか、緊張からか、体がブルブルと震えた。

 兄貴は、そんな俺の頭をポンポンと叩くと、肩に手を置いて言った。


「康太、この子の事をよろしく頼む!」

「……でも、兄ちゃん!?」

「悪いが、これ以上は何を聞かれても答えられない。この事は俺と康太、それとこの子の3人だけの秘密だ。よろしく頼んだぞ!」


 兄貴はそう言うと、大きく手を振って桜の雨の中に消えていった。

 全力を出し尽くしたアスリートのような清々しい表情をしていた。


「任せて、兄ちゃん!」


 俺は、桜の雨に向かって叫んだ。


 (reminiscence end)




「改めて思い返しても、衝撃的な出会いだったよな……あの日の事は忘れないよ」

「う~ん……でも私は、その日、ネー君と会う前の事って、あんまりよく覚えてないんだよね」

「そうなの?」

「卒園式の3日前だから、多分、幼稚部の子と一緒にいたと思うんだけど……」


 そういえば、あの日、どういう経緯でマホ子があの場で連れて来られたのか、何度か聞いてみたような記憶はあるのだが、結局、兄貴からは何も聞けず終いだった。


「今でもハッキリと覚えてるのは、目が覚めたらネー君がいて、その後、一緒にかくれんぼして遊んで……」

「そうだったな」


 当時を思い出して、懐かしい気持ちになる。


「ネー君ってば、私がどこに隠れても、すぐに見つけちゃって……」

「マホ子がすぐ分かる場所に隠れるのが悪い!」

「う〜……」


 マホ子が頬を膨らませる。

 そういえば、あの日もこんな感じで膨れてたっけ……


「それで、遊び終わって、また明日って言って別れたら、家が隣同士でビックリ……みたいな?」

「そうそう。私、幼稚部の頃、同い年で気兼ねなく遊べるお友達がいなかったから、とっても嬉しくって!」

「そっか……」

「あれから私たち、毎日のように一緒に遊んだよね。朝も昼も夜も……」

「あの頃は、2人で一緒にいるのが当たり前だと思ってたよ」


―――同じ学校の同じ学年で、家が隣同士でもなかったら、俺とマホ子は無関係な世界の住人だったのではないだろうか?


 マホ子との間に、少しづつ距離を感じるようになったのは、中等部の頃だった。

 勉強もスポーツも差を付けられ、引け目を感じていたんだと思う。

 どんどん綺麗になっていくマホ子に、戸惑っていたんだと思う。


 置いて行かれないように、見捨てられないように……必死になって走っていた。


(マホ子は、変わらず俺の隣にいてくれたのに……)


 ふと、夜空を見上げる。満天の星々が今にも雨になって降ってきそうだった。

 それから2人で出会った頃の話に花を咲かせていたら、何時の間にか家の前まで来ていたようだ。


 窓の明かりを見詰めながら、マホ子が言った。


「私ね、ネー君が……その、事故にあった後、本当に心臓がはち切れるかと思ったの。苦しくて苦しくて、どうしようもなくて……」

「マホ子、その……」


 『心配かけてゴメン』……そう謝ろうとした俺を制止して、マホ子が続ける。


「それでね。その時、思ったんだ。私が自分勝手に振る舞ってた時、ネー君も同じ気持ちだったんだろうなって……」

「マホ子……」

「だから、ゴメンなさい……」


 マホ子が俺に頭を下げる。


「いやいや、別に謝らなくていいから! 俺はまったく気にしてないし、考えなしに1人で突っ走っちゃうのは、俺も一緒というか、それで事故って、マホ子にも迷惑かけちゃった訳だし……その、とにかく……」


 焦ってしどろもどろになっている俺に、マホ子が言った。


「ありがとう、ネー君。ただ、それはそれとして……」


 ギュッ!


 突然、マホ子に抱きしめられる。


「あ、あの……マホ子さん……これはいったい? 顔に胸が当たってですね……その、息が出来ないんですけど……」


 マホ子が、息を吸い込んだ。


「バカ!」


 とても優しい“バカ”だった。


「うん……」

「ネー君のバカ! 心配したんだから! もう本当にバカ!」

「うん……」

「私は、ネー君がいなくなったら……」

「うん……」


 心臓の鼓動が聞こえる。2人の鼓動が重なり合っていた。


「本当にゴメン……」

「バーカ……」


 こうして俺のやたら長い放課後が終わった……ら、良かったんだどなあ……


story of your life 完

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