ソラリスの陽のもとに

 マホ子とは長い付き合いだ。喧嘩した事だって1度や2度ではない。

 ただ何時もだとお互いに言いたい事を言い合って、それで終わりという感じだったが……

 

「マホ子が携帯を持ってればなあ……」


 とりあえずメールで謝罪して、それから……そんな事を考えながら、携帯の液晶画面を特に理由もなく見詰める。

 時刻を確認すると、夕方の6時を少し過ぎたくらいだった。既に、夜の帳が下り始めている。


(逢魔が時、か……)


 暫く歩いていると、何時もの交差点が目に入った。

 木々が生い茂り、昼間でも薄暗いこの場所は、女性の幽霊が出る、なんて噂も一部で囁かれているようだ。

 以前、サクラちゃんから聞いた話を思い出す。この世に未練を起こした意識(もしくは魂)は、肉体が消滅した後も『その場所』に囚われ続けるらしい。


(地縛霊、か……)


 そんな事を考えながら歩いていると、足元がブルブルと震えてくる。

 ガサガサと草木が揺れる音がして、粘っこく湿った土のにおいが鼻を掠めた。


「とっとと帰ろう……」


 俺は、そう呟くと前を向き、さっきよりも少しだけ急ぎ足で、坂道を下っていった。

 その時である……


 ガゴン! ギー! ギギッ! キー!!


 突然の爆音が鼓膜を貫く! 口から心臓が飛び出そうになる!!


 音のした方を見ると、白い大きなトラックがライトも点けず、ガードレールに車体を擦りながら、それでもまったく減速せず……いや、更に速度を増しながら、交差点に向かっていた。


「ブレーキが壊れてるのか!?」


 街灯の光で、一瞬、運転席の様子が確認できた。


「ひょっとして、気を失ってる?」


 運転手がハンドルに突っ伏しているように見える。

 とにかく、ただ事でないのは分かった。


「どうする? とにかく叫んで……いや、まず110番を!」


 携帯を片手に右往左往する。

 震える指で、1……1……と、番号を押しながら、改めて交差点を確認すると……


「アレって、ひょっとして人か……?」


 暗くてよく分からないが、佐和山学園の女子制服を着ていた。

 一瞬、ブレーカーでも落ちたみたいに目の前が真っ暗になる。

 体中の力が抜けて、指の間から携帯がスルッと地面に零れ落ちる。


 ガガゴン! ギーギギ! ギギギッ! キーキー!!


「はっ……!」


 再び響いた爆音で、俺はどうにか意識を取り戻した。

 まだ頭がハッキリとしない俺を余所に、女生徒は今まさに交差点を渡ろうとしている。


「危ないぞお! 逃げろお!!」


 出来うる限り、喉が壊れるくらい、大きな声で叫んだ……だが、女生徒はそこから動かない。

 よく見ると、女生徒はステッキのような物を持っていた。

 ひょっとすると耳が聞こえないか、足が悪くてすぐに逃げられないのかもしれない。


「ああもう、チクショー!」


 気付いたら、俺は走り出していた。


「チクショー! チクショー! チクショー!!」


 走れば、十分、間に合う距離だと思った。


 ドガゴン! ギーギギギ! ギギギギギッ! キーギギギー!!


 途中で両足のローファーが脱げて、靴下だけになった。

 マフラーが木の枝に引っ掛かって、転びそうになった。


 ドガゴン!! ギーギーギギギ!! ギギギギギギッ!! キーギギギギギ!!!


 全速力で走った……でも……それでも、ギリギリだった。


「チクショー!! チクショー!! チクショー!! チクショー!! チクショー!! チクショー!! チクショー!! チクショー!! チクショー!!」


 俺は、最後の力を振り絞って横断歩道にダイブすると、女生徒を力の限り、両手で着き飛ばした。

 ゴメン……俺がもっと上手に出来ていれば、俺の足がもっと速ければ、こんな乱暴な事しなくて済んだんだけど。


(こういう時、時間がスローモーションになるってのは、本当だったんだなあ……)


 どうにも自分が死ぬかもしれないという実感が沸かない。

 自分でも驚くぐらい冷静に、現状を受け止めていた。


 ガゴ……ギ……ギギ……


 世界から音が消えて、何も聞こえなくなる。

 夕闇に火花が散って……割れたフロントガラスに街頭の光が反射して……とても綺麗だった。


 自分の体が、ゆっくりと破裂していくのを俯瞰で眺めている。

 まるで映画のワンシーンのような光景……物語の中に迷い込んだような感覚。


「やっぱり死ぬのって、痛い……のか……な……?」


 グチャッ……


 (間奏)


 ツーツー……


 暗がりで康太の携帯が怪しく光っていた。

 液晶がひび割れて、確認は困難だが、どうやら着信はマホ子の家からのようだ。


 トラックのクラクション音で、周囲に人が集まってくるまで、それほど時間は掛からなかった。


 (speed of dark 完)




 初等部だった頃の話。

 放課後に、ふざけて教室の花瓶を割ってしまった事がある。

 まるで、この世の終わりみたいな気分だった。


(先生に怒られたらどうしよう? 両親に怒られたらどうしよう?)


 下校中に何度か吐きそうになったし、夕食も喉を通らなかった。

 今になって思えば、初等部の教室に高価な花瓶を置くとも考えづらいし、生徒がふざけて学校の備品を壊すなんて、よくある話だ。

 正直に罪を認め、一言『ごめんなさい』と、謝りさえすれば、それで終わる話だったのだ。

 だが当時の俺には、考えも及ばない事だった。

 あの狭い教室と自分の家が、当時の俺にとって、宇宙そのものだったからだ。


 初等部の頃を振り返ってみると、本当に些細な、どうでもいい事で、何時も懊悩煩悶していたように思う。


(俺は、早く大人になりたかった)


 大人になれば、今、抱えている悩みが、些細などうでもいい事になるような気がしていたから……それと、もう1つ、何か理由があった気がするのだが……ダメだ、思い出せない。


 (間奏)


 気が付くと俺は、空々漠々たる星の海の中にいた。


 天の光はすべて星……

 かつて学園のプラネタリムで見た星空よりも、はるかに広大で、膨大な数の星々が瞬いている。

 時果つるところ。今いる場所が、宇宙のどこかだという事は、すぐに理解ができた。

 薄暗くて、よくは見えないが、かろうじて、まだ自分の体が存在している事は分かる。ただ、どこからどこまでが自分なのかは、はっきりしなかった。


―――俺は死んだのか?


 その結論を導き出すまでに、それほど時間はかからなかった。

 確か、女生徒を助けようとして、それでトラックに轢かれて……頭の中の情報を上手く整理できない。思考が耳の穴から流れ落ちていく。


 女生徒は無事だったろうか? 怪我はしていないだろうか? トラックの運転手さんは大丈夫だろうか? 事故が原因で会社をクビになってたりしたら可哀想だな……

 俺の死体はどうなっているだろう? グチャグチャになっていなければいいんだけど……

 父さんと母さんには、申し訳ない事をした。もっと親孝行しておけば良かった。

 兄貴はサッカー選手として大成できるだろうか? 一度、現地で応援したかった。

 サクラちゃんに部長に学園の友人たち、地域の人たち、ついでにスグルにも、最後に一言、お別れを言いたかった。

 他にもやり残した事は、たくさんあったはずなんだけど……


『もうどうでもいいだろ?』


 誰かの声が聞こえた気がした。

 もしかしたら自分の声だったのかもしれない。


 浮遊感。解放感。高揚感。すべてがごちゃ混ぜになって、俺の意識を奪っていく。

 もし、今、少しでも気を抜いたら、そのまま意識が溶け出して、蒸発して、霧散して、消滅してしまうのでないか……そんな気がした。


『このまま楽になってもいいんじゃないか?』


 また声が聞こえる。今度はハッキリと自分の声だと分かった。

 何も考えられなくなる……苦悩が憂悶が窮愁が頭の中から消えていく。

 この寥廓たる宇宙と比べたら、自分は、なんてちっぽけな存在なのだろう。


 それに女の子を助けて死ぬなんて、自分にしては出来過ぎな死に方だと思う。

 まるで物語のヒーロー(主人公)じゃないか……


(あのまま生きていたって、俺は……)


 どれくらいの時が経ったろう……このまま消えてしまう事を覚悟した、その時だった。

 何もなかった空間に、マホ子と過ごした日々が投影されている事に気付く。

 初等部の入学式に、夏の公園、オカ研の合宿に、中等部の卒業式……それは何年も続いたようにも思えたし、ほんの一瞬の出来事のようにも感じられた。


―――これは、俺の記憶だろうか?


(走馬燈って、死んだ後にも見られるんだなあ……)


 思い返せば、出会った日から、死ぬ(今日)まで、本当に四六時中、マホ子と一緒に過ごしていたように思う。

 不思議だった。あの悩み多き日々が、たまらなく愛おしく思えた。


 そうか。俺は、早く大人になって、マホ子に願いを託したかったのだ……早く大人になって、自分が特別ではないと認めて、特別な少女を支えてあげたかったのだ。 

 でも、そんなのは俺のエゴだ。マホ子の為と言っておいて、結局は自己満足だった。必死に言い訳を探していただけだ。


(主人公はマホ子だから……どうせ、俺は脇役だから……)

 

 そういえば、花瓶を割ったあの時も、心配したマホ子が、一緒に先生に謝りに行ってくれたんだよな……


(まだ、死にたくないな……)


 あの甘酸っぱくて、ほろ苦くて、たまに激辛な、どうしようもなくガキな自分に苦悩し続けた日々を、もう一度、取り戻したいと思った。

 そして何より、またマホ子と一緒にいたいと思った。1人の少年として……


「俺は、まだ死にたくない!」

『今更、そんな事に気付いたって、もう遅いだろ?』


 また自分の声が聞こえる。

 たまらず耳を塞ぎ、大声で叫ぼうとした……そんな時だった。


(……どこからか、歌声が聞こえる)


―――ラララ……♪


 澄み切った。どこまでも純粋で、曇りのない、真っすぐな歌声。


 五感が研ぎ澄まされていく。ぼんやりとしていた意識が、冴えわっていく。全身の細胞が覚醒していくのが分かる。自分が自分だとしっかりと知覚できる。

 何時の間にか、制服もしっかりと着用した状態に戻っていたのも、法令遵守という観点から、たいへんありがたかった。


 歌声がする方向を見ると、そこには白いワンピース姿の少女が立っていた。

 キラキラと粒子を纏った銀色の髪に、吸い込まれるような碧い瞳。透き通った白い肌に、まだ幼さの残る顔立ち。

 どこか儚げで、この世のモノではないような感覚。でも不思議と、怖さは感じなかった。

 何故だろう? 何年も前から、ずっと一緒にいたような気さえする。


 俺の視線に気が付いたのか、少女は、ゆっくりとコチラに顔を向けた。

 そして俺は、気付いたら少女に話しかけていた。

 後になって考えると、よくあの状況で(日本語が通じるかも分からないのに)話しかけにいったなと思う。


「あなたは、天使様ですか?」

「違います」


 即答だった。


「えっと、それじゃあ女神様……とか?」

「違います」


 即答だった。


love is the plan the plan is death 完

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