第3話 非合法紋章は味がしない

「なんだって? この大紋章が登録されていない?」


 言葉とは裏腹に子爵の紫色をした口元に下卑た笑みが浮かんだ。紋章が登録されていないことが嬉しくて仕方がない、というような。


 ——どうして? 登録されていなければこの大紋章を使うことはできないのに。


 ラステサリア王国における紋章とは。

 楯に個人を識別できるシンボルをあしらった世襲制度である。

 同じ意匠デザインの紋章はふたつとない。法と魔術によって施行された制度であるから、紋章鑑へ登録しなければ公的には使えない。


 身分の証明にも、所有の証にも、契約を締結するときにだって。

 未登録紋章が歓迎されるのは、これから紋章を登録しようとしている場合だけ。


 だからティアナは微笑みの仮面を被った。これは好機——いや、商機だと、パチンと指を鳴らして告げる。


「ジョシュ、仕事よ」


 ティアナのひと声でジョシュは鉄仮面を脱ぎ捨てた。キリリとした刃のような端正な顔に、柔和な紳士的な笑みビジネススマイルを浮かべて子爵に迫る。

 下級紋章官ジョシュの仕事は、紋章の登録と更新、そして安くはない紋章登録料の取立てである。


「紋章登録の手続きと登録料の話をしましょうか、子爵ロード。こちらの大紋章は未登録紋章です。ファラー子爵家嫡男の個人紋章として登録する必要があります」


 すると、である。

 どういうわけか子爵は顔を真っ赤に染めて、首をぶるぶる振り出した。


「ま、待ってくれ! 誰もこの紋章を登録するとは言っていない!」

「……はて? 登録にあたって紋章被りがないよう、鑑定を依頼されたのでは?」


「そッ、そんなことは頼んでいない! 紋章は登録しないし、大金を払うつもりもない。この大袈裟な紋章が未登録であることがわかればいいのだ!」


 ついには怒鳴り出した子爵が退席しようと立ち上がる。けれど、そうはさせじと子爵の前にジョシュが冷徹に立ち塞がった。


「どうされたのです、子爵ロード。様子がおかしいですね、少し落ち着かれては?」

「う、うるさいッ! いいか、ファラー家にはなぁ、こんな愚図な人間の安くもない紋章登録料を支払う気など、はじめからないのだ! お嬢さんレディのお望み通り、さっさと食べるなりして片付けてくれたまえ!」


 ファラー子爵家当主ダリオス・ファラーは吐き捨てるようにそう告げる。そうして体格差のあるジョシュを無理矢理押し退けて、応接室から出て行った。

 隣に座る狼狽えたままの息子を置いて。


「お待ちを、子爵ロード!」


 肩を怒らせているにも関わらず丸みを帯びた背中の子爵を追って、ジョシュも応接室を飛び出した。

 残された子爵の息子も、上司のガーラントも、なにが起こったのかわからないというような顔で閉まる扉を見つめているだけ。


「やったわ! 許可を得たわよ、ガーラント卿。この紋章は食べてしまってもよろしいですね!?」


 ティアナだけが目を輝かせ、巻物スクロールを奪い取る。腕の中に閉じ込めるように抱きしめて、興奮しきって上気した頬のまま可憐な桃色のくちびるを開く。


「それでは今度こそ。いただき——」

「ティアナ、気持ちはわかるが抑えなさい」


 今こそ紋章を己が身に取り込まんとしていたティアナに、再度の制止がかけられた。

 ティアナがわずらわしそうに眉を寄せて上司ガーラントを見た。ガーラントの眉間にもまた皺が寄っている。

 渋い顔から吐き出された長い長い息の音。巻物スクロールに頬擦りしていたティアナは、巻物を取られまいとしっかり胸に抱き締めた。


「持ち主から許可を得たのですよ!? ということは、食べてもよいということです!」

「登録されていない紋章など、味はしない。前にそう言っていたのはティアナ、君だ。食べるのは紋章鑑に登録してからだ。その巻物スクロールを返しなさい。——セイリオス卿、うちの紋章官が申し訳ない」


 ガーラントがソファに座ったまま、置いて行かれてしまった青年——セイリオス・ファラーへ頭を下げる。


「い、いえ……あの……」


 セイリオスが消え入りそうな控えめな声量でそう返し、慌てて首と両手を振る。あの派手派手しく横幅もあった子爵の息子とは思えない卑屈さだ。

 よく見れば身体に合っていないブカブカの服。袖から覗く手首は細く、顔色も悪い。枯草色の髪は萎れてくたびれているし、青い眼も疲労か寝不足で濁っている。


 身綺麗にはしているものの、服に着せられている感は否めない。体格や顔つきは十五、六歳に見えるけれど、おそらくそれより年齢は高めだろう。

 子爵と似ていることと言えば、ほのかに感じる魔力だけ。ラステサリア王国の爵位は、国への貢献度と魔力量によって決まる。

 ファラー子爵とその息子セイリオスから感じた魔力は、子爵位相当の弱い魔力だ。


 ソファの隅で小さくなっているセイリオスは、高位貴族に囲まれてガタガタと体を震わせていた。


「あなた——」

「駄目でした、逃げられました。あんな体躯で逃げ足は速いとは……逆に感心するな」


 一度は閉じた応接室の扉が再び開き、息を切らしたジョシュが戻ってきたことで、ティアナの言葉は途中で止まった。

 どうやら凄腕取立て人と称されるジョシュにしては珍しく、ファラー子爵を取り逃したらしい。額に浮かぶ汗を手で拭いながらテーブルのほうへとやってくる。


「す……す、みませ、ん……」


 ジョシュが責めたわけでもないのに、セイリオスがか細い声で鳴いた。

 置き去りにされたセイリオスは、ひとりポツンと途方に暮れたように俯いて、拳が青褪めるほど強く握りしめていた。



 ◇◆◇◆◇



「さて、セイリオス卿。ちょっと尋問、よろしいかしら?」


 そんな宣言をされて、わかりました、と頷く貴族は恐らくいない。身に覚えがあろうとなかろうと、あの手この手を使って回避する。

 けれどセイリオス・ファラーはひと味違った。


「……どんな質問にも、お答えしま、す。ぼくに答えられること、す、少ないです、けど」


 応接室に敷かれた毛足の長い絨毯の植物柄模様を見つめたまま、セイリオスは同意した。絞り出すような細い声、ぶるぶる震える痩せた手と膝。決して他人と目を合わせようとしない卑屈さ、そして丸まったままの背中。

 この青年がファラー子爵家でどのように扱われてきたのか。

 そんなことは、確かめるまでもない。ティアナは震えるセイリオスを安心させるように頬を緩め、柔らかく微笑みかけた。


「セイリオス卿、立ってくださらない?」

「はッ、はい」


 ティアナの言葉に答えるべく即座にあがった返事は声が裏返っていた。

 返事と共に立ち上がる速さといい、返す声の大きさといい、微笑みかけられても解けない緊張感といい、まるで躾けられた犬のよう。


 ——これはもう、きっと、そう。


 ティアナがガーラントへ目配せをする。するとガーラントもすでに察していたようで、小さくコクリと頷いた。


「ジョシュ、君をティアナの補佐につける」

「はっ。承知しました」

「ティアナ、マリアの元へ行きなさい。くれぐれも、登録する前に食べてはいけないよ」


 念を押すガーラントに、ティアナは渋々「はぁい」と答えた。

 登録すれば、食べられる。

 言質を取ったと内心、浮かれながらティアナはセイリオスに向き合った。


「それではセイリオス卿、場所を変えましょう。この応接室はこの後、別のお客さまが見えられるから」


 そういうわけでティアナは立ち上がらせたセイリオスと補佐としてつけられたジョシュを伴って、応接室を後にする。


 目指すは北の塔。——尋問塔である。





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