青くない月を抱く
七丸 小夜
青くない月を抱く
──ガラッ!
私は勢いに任せて、立て付けの悪い美術室の扉を開けた。部屋には誰もいない。
それもそのはず。午前中授業だった今日は、美術部の活動日ではないのだ。
私はわざと乱暴に電気をつけ、わざと大きな音を立ててスクールバッグを近くの机に置いた。
なぜこんなにも機嫌が悪いのかって?
ついさっき、失恋したからだ。
相手は同じクラスの同級生だった。
中1の時に同じクラスになったアイツとは、漫画がキッカケでかなり最初の頃に意気投合した。
初めは『4巻の〇〇カッコよくね?』や『△△が覚醒したのマジで鳥肌立ったわ……』など、普通の友達と大差無いやり取りばかりだった。けれど、次第に他の友達も誘って遊びに行くようになった。中3の今では、私の誕生日に二人だけで映画に行く仲にまでなっていた。
「振るんだったら何で私と2人きりで映画に行ったんだよ!変に期待させんなこのバァーカ!!イマドキの男子共は普通に女子と2人きりでどっか行くもんなの!?それとも私がおかしいだけ!?」
扉を閉め忘れたせいで、叫び声は廊下にまで響いた。流石に恥ずかしかったので、そっと扉を閉めた。
それにしても、アイツとの思い出を振り返るだけで無性にイラつく。悔いがある訳では無いが、自分自身に対する原因不明の苛立ちも感じていた。
一旦深呼吸をして気分を落ち着かせてから、私は部屋の奥に行き、置いておいた描きかけのキャンパスを運んできた。
この絵は、何かの大会に応募する物ではない。中学生最後の作品に、とコツコツ描き続けていたものだ。
キャンパスには、大きな丸い物体を抱き締める少女が描かれている。ほとんど下書きの状態だが、前に来たときに少女だけ淡い色で塗っておいた。
「何で昔の自分はこんなのを描いちゃったんだろうなぁー」
実はこの絵は、アイツへの好意を表現した作品だった。予定では、少女が抱き締めている丸の中に小さな宇宙を描くつもりだった。
アイツが、星が好きだったから。
しかし振られた今、アイツに対する好意を描くのは言うまでもなく無理だ。しかも少女の腕の形の問題で、他の形の物体を抱えさせるのにも無理があった。上に白を塗って描いたところで、透明水彩なので上手く誤魔化せない。
幸せそうに笑う少女に何を抱えさせようか考えつつ、私は色を塗る準備を始めた。
つなぎを着て筆を持って、さて何を描こうと考え始めた時、ふと『ディープレッド』の絵の具が視界に入った。
ディープレッド。嫌でも思い出すあの日の事。
──1日だけ、アイツのメッセージアプリのアイコンが、赤い月になった事。
中3の3学期。学年末試験最終日の木曜日に、私は告白した。『ずっとあなたのことが好きでした。これからも側にいたいから、付き合ってください』と。するとアイツは、しばらくの沈黙の後に『来週の月曜日まて待ってて欲しい』と言ったきり、一度も目を合わせずに帰っていった。
そのせいで私は金、土、日の3日間、緊張と期待と恐怖で気が狂いそうな日々を過ごすハメになった訳なのだが……
金曜日は特に何もなく過ぎていった。
だが土曜日の朝、何気無くメッセージアプリを開いてみた。すると、アイツのアイコンが赤い月に設定されていた。昔送ってくれた、皆既月食の時の写真だった。
けれども日曜日になると元のアイコンに戻っていたし、深読みし過ぎだろうと当時の私はわざと気に留めないようにした。
しかし今考えると、やはり意味を持っていたんじゃないかと思う。
『月が綺麗ですね』という言葉を知っているだろうか。昔の誰かが『I love you 』をこう意訳したことで有名なので、多くの人が知っているだろう。
では、この言葉は知っているだろうか。
『でも青くはありませんね』
これは『月が綺麗ですね』の返事を断る時の返事の一つだ。これがなぜ断る返事になるのかと言うと、『あなたの好意を受け入れるのは、青い月が見られるのと同じように滅多に起こらない』という意味になるからだそうだ。
アイツの月は青くなかった。つまり、あらかじめ私を振ることを知らせてくれていた、と考えられなくもない。けれど所詮、片想いの自意識過剰な考えなのだろう。こんな事までアイツが考えている訳が無い。
「初恋だからって、アイツのことを美化し過ぎなんだよ」
ボソリと呟いて、自笑した。
パレットにディープレッドの絵の具を出し、水を多く含んだ細筆でそれを溶く。
この丸は、あの時の月にしてやろうと思った。この絵を描くことで、アイツとの事にはっきり区切りをつけようと思ったからだ。
丸の中をディープレッドで塗り潰す。
塗った箇所が乾かないうちに、黒や茶色もパレットに出して溶き、色を乗せる。
水によってぼやけて広がったそれは、クレーターのようだった。
より本物の月に寄せるために、スマホを取り出した。参考資料を探すためだ。私はメッセージアプリを開き、あの時にアイコンにしていた月の写真を探した。
目当ての写真はすぐに見つかった。私は写真をタップして保存すると、すぐにメッセージアプリのタブを閉じようとした。
『冥王星食と同時に皆既月食が見られるのは、442年ぶりらしいよ』
アイツから送られたメッセージに釘付けになった。
「──何が442年ぶりだよ。青い月よりも珍しいじゃん」
春一番が街を駆け抜けるように、アイツとの思い出が脳内を巡った。
同時に筆を水に浸し、絵の具を溶かして素早く筆を走らせる。保存した写真なんか無視して、感情に全部任せて、筆を走らせる。
思えば私が惚れたのは、アイツが優しくて、側にいると安心するからだった。
普段は他の男子とはしゃいで先生に注意されているようなやつだ。休み時間に窓際で消しゴムを投げあって、窓の隙間から消しゴムを落すようなやつだ。
それでもアイツが好きだったのは、根が優しくて真面目なやつだと知っていたからだ。
口では『そんなのテキトーでいいよ、テキトーで』とか言っている割に、細かい部分までこだわるようなやつだ。薬が切れてきて生理痛が酷くなってきた時に、こっそりカイロをくれるようなやつだ。
私が部員以外に絵を見せるのは、アイツが毎回最初だった。私が絵で賞を取った時、一番喜んでくれるのもアイツだった。
闇雲に色を乗せていく。
あのアイコンは、私に遠回しに結果を伝える為だったの?心構えしとけって?
私を振った時もそうだ。『ごめん』だけ言って、理由は言ってくれなかった。傷つけたくなかったのか何なのかはもう分からない。
「余計なお世話だよ、そんなの。優しさを履き違えんな……」
筆を置いた時、私の視界はぼやけていた。
ポタッと、何かが紙に溢れる音がした。
この恋に悔いなんて無かったはずだ。
「何で、何で今になって、泣いてんだろ……。はは、はははっ」
最悪な気分だ。涙なんか流さないで終われそうだったのに。今更悔いても遅いのに。
少しの間、この思いは抱えたままでいようと思う。
青くない月を抱く 七丸 小夜 @nerine_9101
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