第50話 薫の過去

 亜李沙さんが近々遊びに来る。しかも婚約の手続きを行うだって?


 これは一大事だ。流石にそこまで話が進んで全部嘘でした、ではとても済まされないだろう。早急に李音様に相談をしなくては!


 時刻を見ると10時過ぎだった。お昼まで寝るといっていたから起こすのはもう少し後の方が良いだろう。しかし早急に対策を考えなくてはならない。


「うーん」


 大きく魘されながら薫さんがゆっくりソファから起き上がった。どうやら目を覚ましたらしい。でもまだ具合が悪そうに頭を抱え、顔色は血色の悪い土色に変わっていた。


 何か温かい飲み物でも飲めば気分が落ち着くかと思い、淹れたての紅茶を差し出すと薫さんは震える手でそれを受け取った。


「すみません、お恥ずかしいところ見せてしまって」


 そう言葉で取り繕っていたが既に余裕などなさそうで口元にはいつもの優しい笑みはなかった。瞳に光もなく、ただそこにいるのは美しい人形のようでまるで生きている感じがしなかった。


「もう少し横になっていた方がいい。部屋まで送るよ」


 その様子を見ていたたまれなくなったのか凪様がそう提案すると薫さんは首を横に振った。


「いいえ。私、揚羽さんにきちんとお話ししなきゃいけないことが沢山あります」


 先ほどの華ちゃんが語っていた話のことだろうか? 実のところきっと彼女は、私が李音様と薫さんが元々婚約の約束をしていた仲、というのを聞いて嫉妬やら悔しがる姿を期待していたのだろうか? それについては期待に応えられず申し訳ないが、全く何のショックも受けなかった。確かにびっくりはしたけれどむしろ私が李音様の立場なら薫さんを是非お嫁さんにしたいと思うくらい素敵で魅力的な女性だ。私が逆立ちしようと勝てない相手に嫉妬を覚えるほど私は自惚れていない。


 家柄良し、美人で気量も良くて気配りできて掃除洗濯料理、全てが完璧。非の打ちどころもない。それに温かくとても優しい女性だ。逆に全く見知らぬ女性が婚約者です、と紹介されなくてホッとしたくらいだ。


 薫はソファから立ち上がり、私と凪様が座っていたテーブルの方へ移動してきた。少しだけおぼつかない足取りだったので凪様がさりげなく近寄り肩を抱いて転ばないように椅子に座らせた。


 小さく礼を言った後、薫さんは制服のポケットからロケットペンダントを取り出し、私に手渡してきた。そのペンダントを見て開ける前から中身がもうわかっていたかのように凪様が一瞬寂しそうな顔をしたのを見逃さなかったけど、都合が悪そうに目を逸らされたのであえて気づかないふりをして私も黙っていた。


「開けてみてください」


 声に導かれるまま、ペンダントを開けてみると中には一枚の小さな写真が入っており、そこに映るのはとても美しい男性と幸せそうに笑う薫さんの姿だった。金色の髪に夕焼けのような赤い瞳。写真を見て二人は恋人同士のように見えた。


「彼の名は紅葉狩もみじがりあらし、凪様の実のお兄様で私の婚約者でした」


 薫は俯き気味に目に涙をうっすら滲ませて話を続けた。


 それは物心がつく前の話。薫が3歳、李音がまだ亜李沙のお腹にいてようやく赤子の性別がわかった頃、酔っ払った父親同士の口約束で政略婚約が決まったという。亜李沙は子供の人生は親が決めるべきではないと反対したらしいが祝いのパーティーの席で大勢の人の前で婚約を宣言してしまった為、両家も後に引けなくなってしまったという。


 一先ず、両家にとっても悪い話ではないので婚約の話は保留のまま時は過ぎた。そして歳はバラバラだったが李音、嵐、凪、薫の四人は家同士の付き合いも多く、幼馴染として成長を共にした。四人は仲良しでいつも一緒に勉強したり、遊んでいたという。


 やがて成長していくにつれて薫と嵐は惹かれあい、将来を約束する恋人同士になった。それに気づいた李音が父親に直談判し、亜李沙の協力もあってようやく婚約の話は白紙に戻したという。氷河家からすると紅葉狩家も結婚相手にとって不足ない家柄だったので両家ともにお互いを正式な婚約者と認め、薫が20歳の誕生日を迎えるときに紅葉狩家に嫁入りする予定だった。


 全てが怖いくらい順調だった。しかし薫が15歳を迎える頃、少しずつ状況は変わっていった。


 元々体が弱かった母が突然病気で亡くなり、父はすぐに新しい妻を迎えた。それが今の母親の氷河冬花だという。彼女は8歳になる一人娘を一緒に連れて嫁いできた。


 その一人娘の名前は華。彼女の父親は薫の実の父親、氷河大和だという。あろうことか華は薫の父親の不倫でできた子供だった。つまり薫と華は腹違いの姉妹なのだ。


 ここまで聞いて思わず納得がいった。


 初めて二人が姉妹だと聞かされた時に感じた違和感は間違いではなかった。二人とも髪色も顔も随分似てないわけだ。きっと二人とも母親の方に似たのだろう。


「私は父を軽蔑しました。母を蔑ろにして外で愛人を作り子供まで……。あの女も全部知っておきながら父と火遊びをしたとなるとどうしても認めるわけにはいきません、しかし華を恨むのは違うと思ったのです」


 あの子に罪はありません。私は華にはあの子の母親のように人のものを横取りするような子になってほしくないのです。薫は静かにそう続けた。


「ですが、私はあの子を甘やかしすぎたようです……」


 私は幼い頃から物欲があまりない方でした。華に、たった一人の可愛い妹に欲しいと頼まれればなんでも譲ってあげました。


 ある時はドレスを、ある時は宝石を。ついには私が口にする食べ物でさえなんでも欲しがりました。でも私はそれを注意することなく許し、甘やかし続けました。


 あの子にとっては私が何気なく持っていたもの全てが羨ましく思えたのかも知れません。聞けば氷河家に来るまではかなりお金に困り、辛い生活をしていたと聞きました。


「そして華はついに、私の婚約者までも欲しがり始めたのです」


 華が13歳の誕生日を迎えた頃、急に父の容体が悪くなりほぼ寝たきりになりました。そこで氷河家の当主は冬花様の手に落ちました。そこからです、華の我儘も酷くなったのは––


「どうして? どうして嵐お兄ちゃんは華の婚約者にしちゃいけないの?」


「どうしてって、そりゃあ薫ちゃんと兄貴が既に婚約してるから二重婚は出来ないでしょ」


 たまに聞かれるこの手の同じ質問に凪は答えるのも飽き飽きとしていた。


 普通13歳にもなれば、良い悪いの物事の判別が一人で考えられる年齢なのに、華は中身が幼いまま体だけ成長したかのように時に子供のようなことを口走った。


「じゃあ、お姉ちゃんが華に婚約者の座を譲ってくれれば問題ないよね? いつも何でも華に譲ってくれるもんね」


 今回もその我儘が通ると本気で思っているのだろうか? 心底脳みそがお花畑だなと凪は思ったが黙っていた。面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。凪はスマホを片手に無数に登録されたガールフレンド達とのやり取りに大忙しだった。 凪は自分の顔がいい事を理解していた。ちょっと甘い言葉を囁いてやれば大抵の令嬢はおとせた。明日はどの子とデートしようかなぁ、なんてことを考えていた。


「華、嵐お兄ちゃん大好き。いっぱい優しくしてくれるし、かっこいいし」


 目の前で一人くるくるとご機嫌に回って遊んでいるが無視無視。こっちは女の子達とのやりとりに忙しいんだっつーの。


「凪様もかっこいいけど女たらしだから結婚相手としてはナシだよねー」


 好きにいってろ。ガキの相手をするほどこっちも暇じゃないつーの。心の中で舌を出しながらもう一度無視をした。


「ねぇ、風の噂で聞いたんだけど、凪様ってお姉ちゃんのことが好きだったって本当?」


 何度無視をすれば諦めるのだろうか、ねぇねぇとしつこく問いただされ苛立ちを隠しきれないまま睨みつけた。そこに丁度嵐と薫が帰ってきた。もうすぐ薫は20歳の誕生日を迎える、着々と二人の結婚準備が行われていた時期だった。嵐の姿をみるなり、華は涙を浮かべて、うわーんと大きな声で泣き出した。その声に驚いた二人が俺のことをびっくりした様子で見つめてきた。


「凪様が睨んでくるー、おにぃーちゃーん、おねぇーちゃーん」


 ボロボロと涙を流しながら二人に助けを求めるように叫び走り出すと真っ直ぐ嵐に抱きついた。


「なんだ凪、華が怖がってるぞ。13歳でも立派なレディだ。もう少し優しくしてやりなさい。もうすぐ家族になるんだから」


 明るく笑いながら抱きついてきた華の頭を撫でてあげると彼女は嬉しそうに頬ずりをした。


「お兄ちゃん大好き。お姉ちゃんじゃなくて華をお嫁にしてよ」


 それは多分彼女にとっては本気の言葉だったのだろう。しかし嵐はその意図が読み取れず、冗談だと思い流してしまった。


「ハハッ、モテモテで困るな。華も後数年もしたら立派なレディになる。その時に俺よりももっともっといい人が見つかるさ」


「やだ、お兄ちゃんがいい!」


 華は大きく剥れると駄々を捏ね始めた。


「ねぇ、いいでしょお姉ちゃん。華に譲って、華、お兄ちゃんと結婚したい!」


「華、我儘言わないの。嵐さんだけは例え可愛い妹の貴方でも譲ることは出来ないわ」


「……どうしてダメなの? いつもなら何でも譲ってくれるじゃない!」


 信じられないという顔を浮かべ、華は少しずつ豹変していった。今思えば結婚の話が進むにつれて彼女の我儘が酷くなり、思い通りに事が運ばないと少しずつ暴れるようになっていた。しかし、この日はさらに酷かった。


「どうして? ねぇ、どうして! お姉ちゃんは華よりもいっぱいいい思いしてるんだから、少しくらい華に譲ってくれてもいいじゃない!」


「華、一体どうしたの? 少し落ち着きなさい」


「お姉ちゃんが意地悪する、お姉ちゃんが華を虐めてるんだ! お兄ちゃん!」


 華は助けを求めようと抱きついたままの嵐の服の裾を引っ張った。しかし、嵐は拒絶するかのようにピッタリとくっついていた華の体を自身の体から引っぺがし距離をおいた。え? と放心状態の華をそっと叱るようにその声色は揺れ動いた。


「華。悪いが俺は薫と別れてまで君と結婚する気はないよ。君は薫に執着しすぎだ。いつまでも彼女の物を横取りする子供みたいなことはいい加減やめるんだ」


 それは華にとって初めて母以外に他人に叱られたことだった。勿論、叱られたことに酷くびっくりした。しかしそれ以上に嬉しかったのだ。愛人の子だからと腫れ物を扱うかのように、空気のように扱われていた華にとって本気でぶつかってくれる人は今まで一人も出会えなかったから。


 この人は本気で華のことを思ってくれてる……やっぱり華の運命の人なんだ……。


 歪んだ思考の持ち主である華は心の中で酷く喜んだ。


 絶対にこの人を華のものにしたい。その気持ちは膨らむ一方だった。でももうすぐお姉ちゃんと嵐お兄ちゃんは結婚してしまう。そんなの嫌だ、どうすれば二人の仲を引き裂けるのか?


 そうだ、お姉ちゃんがいなくなればいいのでは? そしたら今度は氷河家の次女である私が紅葉狩家に嫁げるのでは?


 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。それは今の華にとって名案のように思えた。


 そうだ、それがいい。お姉ちゃんを消してお姉ちゃんの居場所を全部、全部華のものにしてしまおう……そのためにいろいろ準備をしなくては……

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