第47話 秘密のキス

 薫さんと二人、久々に屋敷の家事業務をこなし、華ちゃんもいるのでいつもより豪勢な夕食を丁度作り終えた頃、程なくして二人とも買い物から帰ってきた。終始振り回されっぱなしだったのか李音様は疲れてぐったりした様子、反対に華ちゃんは超ご機嫌で生き生きとした感じだった。


「あー、楽しかった!」


 ぐーんと伸びをして満足そうにソファに寝っ転がったかと思ったら、あっ、と声をあげ、すぐさま起き上がると自慢げに頭につけている真っ赤な薔薇の髪飾りを指さした。


「ねぇねぇ、見てー! 李音様からのプレゼント!」


 羨ましいでしょ? と声色に本音を曝け出し、勝ち誇った笑みを浮かべて見せた。


「とってもお似合いです」


 素直に思った感想を言うと華ちゃんはますます機嫌が良さそうに鼻歌を歌い始めた。


 全員が揃ったところで、いつもより少しだけ豪勢な夕食を済ませると李音様は今から部屋に篭るという。どうやら一日中、華ちゃんに付き合っていたから片付けなきゃいけない書類が山ほどあると嘆いていた。


(どうしよう、何かお手伝いできないだろうか……)


 声をかけるか否か、少し悩んだ。昼間のこともあり、なんだか照れ臭くて彼の顔をまともに見ることができなかったからだ。でも勇気を出してこっそり伝えてみることにした。


「あの、よければお手伝いします。雑用でもなんでもお申し付けください」


「そうか。それは助かる。悪いが頼むとしよう」


「それでは後ほど華ちゃんにバレないようにこっそり参ります」


 もし目の前で堂々と手伝う宣言をすると、きっと彼女のことだ。「私もやる。絶対やる!」と声高らかに強引に部屋に押し切ってきそうだと思ったが故、内緒にすることにした。悪いが彼女がいると仕事は捗らないだろう。


 李音様は華ちゃんが疲れてソファに項垂れているのを確認した後、そっと立ち去った。


 私は薫さんと一緒に食器を下げ、後片付けを始めていると、華ちゃんは退屈そうに手足をブラブラ動かしながら駄々をこね始めた。


「ねーえ、華、そろそろお風呂に入りたいなぁ、薔薇の入浴剤たっぷりのやつぅ、ていうかここってお姉ちゃん以外使用人他にいないのー?」


 口を尖らせながら文句を垂れると、薫は呆れた声と鋭い目つきで注意をした。


「華。貴方がこの間冷たい水をぶちまけて追い出したのを忘れたの?」


「あー、いたなぁ。だって目障りだったんだもん。すぐに華に口応えしてきたし」


 ツンッと不機嫌そうに、でも一切悪びれた様子もなく華は鈴の音のように小さくクスクスと笑った。


「そもそも身分違いっていうの? 貧乏人なんだから己を知れっていうか、私達とは住む世界が違うんだから李音様に色目使ってるんじゃねーよって感じ」


 いつもよりさらに乱暴で粗悪な言葉に思わず目を見開いた。李音様が立ち去った途端、彼女は態度がさらに横暴になり、口の悪さも増した。


 華は自分の手を上に翳し、しばし眺めていた。どうやら爪を気にしているようだった。


「あーあ、ネイル剥がれてきちゃったぁ、明日はサロンでも連れて行ってもらおうかなぁ」


「華、李音様はお忙しいのよ。いつまでも貴方に構ってられないわ」


 少しだけ苛立ちの声が混ざっていたけどその声色に気づかないのか、わかっていて聞こえないふりをしているのか華は惚けるように愛くるしく笑って話題を変えるかのようにおねだりをしてきた。


「ねーえ、それよりも華ぁ、お姉ちゃんの部屋のお風呂に入りたいなぁ、用意してくれない?」


 それは、きゅるるんっと目が輝き、アヒルのくちばしのように口角をあげ、手を組み、あざとさマックスでのおねだり攻撃だった。


 薫はその姿を見て呆れるようにため息をつき、もう何を言っても聞かない妹の手を引き、おとなしく部屋へと戻って行った。


 私は二人を見送った後、そっと李音様の部屋に訪れた。いつもより抑えめにノックをしたからか、いつまで待っても返事が返ってこなかった。とりあえず物音を立てないように扉を開いて中を覗いてみる。


 すると机に伏せるように李音様は眠っていた。きっと疲れが溜まっていたのだろう。辺りを見渡すと様々な書類が床にも机にも散らばっていた。


 私は部屋の中に入り、起こさないように静かに書類を拾い集め、机に置こうとしたら無意識に李音様の方に視線が向いた。そこには以前も見た普段よりもあどけなく可愛い寝顔がそこにあった。


(やっぱり可愛い……)


 しばしじっと見つめた後、すぐ起こした方がいいのか、このまま寝かせてあげたほうがいいのか少し考えた。悩んだ結果、もう少しだけ休んでもらおうと思い、彼が目覚めるまで近くのソファで先に書類の仕分けでもしてようと座った時だった。


 ソファ前のテーブルに見慣れた形のお守りが置いてあった。気になって拾い上げてみると不思議と揚羽が持っている母がくれた手作りのお守りに似ていた。


 というか、多分、同じものだ。元々二人は知り合いみたいだったし母が李音様にプレゼントしたのだろうか?


 ただ同じお守りでも違う点と言えば揚羽のが淡い紫色で李音様が持っていたお守りの色は淡い青色だ。刺繍は同じ蝶模様みたいだけど生地のベースの色が違うから新鮮に見えた。


「んっ……」


 後ろから微かに声が聞こえたので振り向いてみると李音様が目覚めたようだった。眠たい目を擦りながら上体を起こすとタイミングよくバチッと目が合った。


「なんだ、来てたのか。声をかけてくれればよかったのに」


「すみません。あまりにも気持ちよさそうに寝ていたので。眠気覚ましにコーヒーを淹れましょうか?」


「あぁ、頼む」


 李音様は、ぐしゃぐしゃと片手で髪をかきあげると、いつもより二倍眉間に皺を寄せ、難しい顔をしながら書類と睨めっこを始めた。


 私は部屋に備え付けてあったティーセットを使ってすぐに熱々のコーヒーをいれ、机に置いた。すぐさまそのカップに手を伸ばし、口にしてくれる。なんて事ない日常なのだが、華ちゃんがきてから一日が騒がしくとても長く感じていた。やっとホッと一息つけたような気がする。


「これとこれ、後この資料、任せられるか?」


「はい。勿論です」


 今だけでいい。この幸せな時間がゆっくりと流れて欲しいと思った。なんて事ない日常にすごく幸せを感じていた。やっぱり私は彼の傍にいられるだけでこんなにも胸がいっぱいになる。頑張ってお役に立とう。


 お互いにしばらく、無言のまま目の前の片付けなきゃいけないことに集中した。


 チクタクチクタク。時計の針が進む音だけが部屋に響いた。不思議とその音が心地良い。きっと同じ時間を過ごしていると感じられたから。


「おっと、もうこんな時間か。眠いだろう。続きは一人で大丈夫だ」


 自身の腕時計で現在の時刻を確認し、声をかけてくれた。しかし揚羽は首を横に振った。


「もう少しだけ……もう少しだけお手伝いさせてください」


 確かにそろそろ眠気が襲ってきていた。しかし、まだまだ目の前の書類達は山の如く積み上げられている。とても一晩で片付けられる量には見えなかった。


「せめて、これだけでも……」


 我が儘をいって困らせてしまうだろうか? でも可能な限り彼の負担を少しでも減らせるように、背負えるものなら一緒に背負いたかった。


 やはり想像した通り、李音様は少し困ったように悩んでいた。でも気持ちを汲んでくれたのか、一言「無理だけはするな」と声をかけてからまた書類に目を落とした。


 チクタクチクタク。また時計の秒針だけが響き渡る。


 そして益々夜も深くなり、夢中になって片付けていた山はみるみるうちに小さくなり、奇跡的に全て終わりを迎えた。ふと李音様の様子が気になり、視線をむけてみると真剣な眼差しでパソコンの打ち込み作業をしていた。離席する時のドアの音や、声を直接かけたりしたら集中力を切らしてしまいそうで、一先ず彼の作業がひと段落するまで待つことにした。


 すると、うつらうつらと急激な眠気が襲ってきた。欠伸を噛み殺しながら、眠たい目を擦った。


(少しだけ……少しだけソファで横になってもいいかな?)


 小休憩を挟もうとゴロンッとソファに横たわると、もう抗えないくらいの睡魔に飲まれ、そのまま意識が落ちた。


 すぅすぅと可愛らしい寝息が聞こえ始めたのに気づき、ようやく李音は作業を止め顔を上げた。ソファの方へ目をやるとまるで猫のように小さく縮こまりながら眠る揚羽の姿があった。


 このままソファで寝かせて風邪を引かせてはならないと思い、立ち上がり近くへ寄ると、ふにゃっと幸せそうな寝顔が見え、思わず口元が緩んだ。


 優しく髪に触れ撫でると、心なしか嬉しそうに笑ったような気がした。


「揚羽。ダメだろ。風邪引くぞ」


 驚かせないように静かに耳元で囁くように声をかけたが一向に起きる気配はなかった。このまま無理矢理起こすのも可哀想だったので仕方なく自分のベッドで寝かせようと彼女を抱き上げた。


 この屋敷に来たばかりの頃はガリガリの体で肌の血色も悪く、食もかなり細かったが、今は人並みに食べられるようになり、栄養も十分とれ、健康的にふっくら肉がついてきた。それでもまだ痩せ気味に変わりはないが、抱き上げると十分柔らかい体の感触が伝わってきた。


(しかし、男の部屋で無防備すぎないか?)


 それだけ信頼されているという事なのだろうか? 嬉しいような悲しいような、少しだけ複雑な気持ちが見え隠れした。


 優しくベッドに寝かせると少しだけ上の服がはだけ、首筋が顕になった。なんとなく、以前拓也につけられたキスマークがあった辺りを人差し指でなぞってみる。


「んっ……」


 モゾモゾとくすぐったかったのか、目の前の蝶は小さく体が反応した。


(そういえば昼間のこと、まだちゃんと謝れてなかったな)


 恥をかかせてしまったのは事実だから、後で謝らないとと思っていた。そしてあの時の揚羽の言葉をそっと思い出す。


『李音様、その……貴方さえ嫌でなければ、私は大丈夫です……』


 恥じらうように、でも一生懸命考えて勇気を出して伝えてくれたのは痛いほどわかっていた。思わず愛しい気持ちが溢れ、このまま身を任せるように奪えたらと思ったが、もしそこに彼女の気持ちは一切なくて、ただの恋人役としての提案なら受け入れる事はできなかった。彼女の優しさに付け入るようなことはしてはいけないと踏みとどまった。


 でも、もし。もしあの時––


「……嫌じゃない、と答えていたら」


 あの時、華の前でキスを交わしていたのだろうか?


 答えは返ってくるわけがなかった。


 気持ちよさそうに眠る揚羽の頭に触れ、髪を撫でた後、そっと首筋に唇をあてキスを落とす。真っ白な肌に新しい赤い印を残した。

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