第45話 焦る気持ちとずるい人

 チューって……キスって意味だよね? つまり華ちゃんの目の前で……今ここでキスをしろってこと?


「ねっ、お願い。ちゃんと証拠見せてくれたら華も納得するから」


 ねっ、ねっ? と可愛く首を傾げておねだりされても出来ないものは出来なかった。だって私と李音様は本当はそんな関係じゃないし……


 ––キス、といえば


 昨日、薬指に優しくキスをされたことを思い出した。あの時の感触がまだ指に残っている気がして恥ずかしくて無意識に左手を隠すように反対の手で覆った。


「あのな華。そういうのはわざわざ人前で見せるわけないだろ」


 李音は心底呆れたように椅子にもたれかかった。しかし華は負けじと食ってかかってきた。


「えー、どうして? もしかして皆の言う通り二人は偽物の恋人なの?」


「……どういう意味だ?」


 挑発だというのはわかっていた。しかしその言葉の根拠が、出所が知りたかった。すると華は包み隠さずペラペラと喋り出した。


「だってパーティーにいた人達が言ってたもん。偽物の恋人ならもう二度と現れないでしょうねって。だから華も二人が本物の恋人か確かめたいんだもん、それに……」


「それに?」


「もし、李音様が華にヤキモチ焼かせたくてついた嘘なら、今本当のことを教えてくれれば華は怒らないよ?」


 李音はその言葉を聞いてただ唖然とした。それと同時にこうも自分に都合のいいように考える華の癖は改めてとても危険だと思った。


「……悪いが俺は恋愛に関して駆け引きはあまり得意じゃない方だ」


「つまり、二人は本物の恋人だと言い張るってわけね?」


 ふーん、と華は可愛らしくでもつまらなさそうに笑った。


「いいわよ。証拠を見せてくれるまで何日でもいるつもりだから」


 パクリと自分が持ってきたマカロンを頬張ると、んー! と満足そうに感嘆の声を上げた。軽い口調でサラッと言ったので冗談のようにも聞こえたがきっと本気なのだろう。彼女が本当に納得するまで帰らないのだとしたらこれ以上の厄介ごとはない。


(どうしよう……、何日もいられるのは流石にいつかボロが出てバレてしまう気がする……)


 かといって人前でキスをするのも恥ずかしくて死んでしまう……! でも、でも! あぁ、一体どうすればいいのー!?


 ぐるぐるぐるぐる頭の中がパニック状態になった。シューッと音を立てて今にも頭から煙が溢れ出そうだった。しかし、ここはなんとか乗り切らないと……!


「どうしたの? やっぱり出来ないの?」


 華は、ふふんっと小馬鹿にするように笑うと既に興味がなさそうに自分の髪をくるくると指で巻いて遊び始めた。その隙にコソッと李音の隣へ行き服の裾を掴み気を引くと彼女に聞こえないように小声で囁いた。


「李音様、その……貴方さえ嫌でなければ、私は大丈夫です……」


 どうにか伝われと祈りながら見つめた。しかし、李音様は少し戸惑うような顔をした。


(あ、もしかしてこれって、拒絶されてしまったのだろうか……?)


 ズキンと胸が痛んだのと同時に今までとは別の恥ずかしさも込み上げてきて、もうまともに彼の顔が見れなかった。


(私、一人で先走って馬鹿みたい……)


 視線を逸らし、下を向いてぐっと唇を噛んだら血の味がした。痛みで悲しい気持ちが少しまぎれるような気がしたからもう一度強く噛み締めた。


「皆さん、飲み物お待たせしま……揚羽さん?」


 丁度、部屋に戻ってきた薫が異変を感じ、声をかけた。


––ポタッ


 涙が頬をつたい、地面に落ちた。これ以上は見られてはいけないと思って慌てて手で拭い切った。


「ごめんなさい。目にゴミが入って……、私、ちょっと洗ってきますね」


 上ずる声をなんとか誤魔化して部屋を出た。一先ず少しでもここから離れようと少し廊下を歩いてから壁にもたりかかり、蹲った。


(あ、思ったよりしんどいかも……)


 キスの一つで華ちゃんが満足するならと思い、良かれと思って提案したけどあんな風に拒絶されるとやっぱりショックだった。


(そうだよね、好きでもない人とキスするのは流石に困るよね)


 李音様の気持ちをきちんと汲み取ることができなかった自分が恥ずかしかった。消えてしまいたかった。やっぱり心のどこかで浮かれてる自分がいたんだ。あんなに自惚れちゃダメだと、一線を引くと固く誓ったはずなのに……。


 揚羽は喝を入れるため自分の頬をバシッと両手で叩いた。段々ジンジンと痛みが増していったが気合いは十分注入された。その後、長い間席を離れるわけにも行かないので大人しく回れ右をして部屋へと戻った。


「おかえりなさーい!」


 テンションがMAX、最高超に気分がよさそうな華がマカロンを頬張りながら一番にお出迎えをしてくれた。彼女が持ってきたお菓子は既にかなりの数が食い散らかされていた。


「揚羽さんも食べて食べて〜!」


 皿に綺麗に乗せられたマカロンをずずいっと目の前に差し出された。着席し、無事に皿を受け取るとお礼を言ってマカロンを一口頬張った。


 確かにすごく美味しいマカロンだった。甘さも丁度良く、鼻に抜けるバニラの香りが食欲をそそった。


「華ちゃん、これすごく美味しい!」


「でしょう〜?」


 華はふふんっと得意げに笑った。薫は戻ってきた揚羽を心配そうに見つめたが敢えて声はかけなかった。揚羽もさっきの話題に触れてほしくなかったので誰も話を掘り返されないでホッとしていた。


「揚羽」


 ふと李音様に名前を呼ばれたけど、どんな顔で目を合わせたらいいのかわからなくて顔を上げられずにいるとマカロンを持っていた右手を掴まれた。びっくりして顔をあげると目の前にはもう李音様の顔が近付いていた。


 揚羽が持っていた食べかけのマカロンを口に含み食べた後、そのまま指先にそっと唇が触れた。ビクッと体が思わず反応し、顔が激しく熱を帯び始める。


「ご馳走様」


 いたずらっ子のような笑みを浮かべ、李音様は笑った。その笑顔を見てさっきまでの悲しい気持ちが全部吹っ飛んだ。


(こんなのずるい……!)


 暴れる心臓を手でぎゅっと抑えたけどしばらくは鳴り止みそうになかった。揚羽の隣に座っていた華はいきなり目の前で甘いやり取りを見せつけられて思わず石像のように固まった。


 自分でキスして見せろと無理難題を突きつけて、いざ何にもできない二人を見て心の底から馬鹿にしていた。結論から言うと求めていた結果とは違うけれど、今魅せられた光景は昔の彼からは想像もつかない行動力と表情を見せられた。そして確かにこの女も李音様に惚れているのだろう、この初心な反応を見れば二人はやはり恋人同士なのかもしれないと思考が勝手に答えを出した。しかし認めたくなかった。


(李音様って……あんな顔で笑うんだ……しかもあんな女の前で……)


 幼い頃、姉の薫に連れられて一緒に桜乃宮邸に遊びにきたことがある。まだ華が10歳だった頃の話だ。薫と華は歳が7歳も離れている。李音とは4歳離れていた。幼い頃みた彼の顔はいつもつまらなさそうにぶっきらぼうにしていた。父親が厳しく、笑顔を見せるとすぐ怒られるのだと彼は言っていた。だから彼の心からの笑顔は一度も見たことがなかった。


 しかし、威厳のあるその冷たい表情や態度を素直にかっこいいと思っていた。華の周りにいる人たちは皆、幼く我儘な彼女に甘かったから本気で叱られたことは一度もなかった。


 ただ二人だけ、本気で華のことを思い叱ってくれた人がいた。それは李音様と……姉の婚約者だった––––


(そうだった……お兄ちゃんはもういないんだ……)


 華は頭の中で金色の美しい髪の青年を思い浮かべたがすぐに記憶から消した。


(いいなぁ……いいなぁ……。華もあんな風に笑いかけてもらいたい)


 なんだか無性に羨ましくて妬ましくて仕方がなかった。もっともっと知らない彼の顔が見たいと思った。

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