第37話 伝えるのが怖いんだ

 李音様に恥をかかせない、立派なレディになりますとは言ってみたものの、本当に鬼のようなレッスンが始まった。


 世の中のご令嬢やご子息は幼い頃からこんなに難しいことを勉強しているのか。大人になった私でもきついなと思うレッスンが幾つもある。つくづく一般家庭に生まれてよかった……。


「揚羽さん、姿勢はもっと頭の先を糸で吊られてるイメージですよ」


 先生の厳しく凛とした声が部屋中に響き渡った。泣き言や弱音を吐いている場合ではない。一つ一つ学んでいくしかないのだ。私は身を引き締め、一から十を学べるように神経を研ぎ澄まして何事も取り組んだ。


 レッスンが終わり、先生が帰ってしまうと薫さんに頼んでさらに復習をした。寝る前も一人で筋トレをした。


 健康と体の丈夫さだけは取り得なのだが残念なことにそこに体力がついてきてなかった。いや、普段この広い屋敷を駆け回っているからそこまで体力がないわけではないが、元々幼い頃から食べ物をろくに取れず体が細いこともあり、筋肉があまりついていなかった。


 その貧弱な筋肉、スタミナではとてもダンスを完璧にこなすのは困難だった。そもそもダンスなんて普通の人は習わないし、必須スキルでもない。でも今回は違う。


 李音様のお母様は社交ダンスがお好きな方で彼女が開くパーティーは必ずダンスパーティー形式らしい。お金持ちのパーティーってだけで私には難易度か高いのに……。


 とにかく全部ひっくるめて練習期間は一ヶ月しかないのだ。それにどうせ一回限りの大嘘。今度、お母様に会う時は李音様に本当の恋人ができているかもしれないし、私が彼の隣に立てる最後のチャンスかもしれない。絶対に失敗だけは避けたかった。


「無理はしてないか? 辛くはないか?」


 一週間経って李音様にそう聞かれた。最近彼はとても忙しそうで屋敷にいないことも多かった。久々に顔を合わせたと思ったらとても心配そうにしていたので私は笑顔で答えた。


「いいえ! むしろすごく毎日が楽しいです」


 それは本当の気持ちだった。


 最初は本当に何にもできなくて辛いなと思うことも多かったけど、出来なかったことが出来るようになるのは嬉しいことだし、知らないことを学べば学ぶほど楽しいと思えるのだ。


 学ぶことの楽しさ。これは母が私に教えてくれたことだ。

 あの時、無理をしてでも学校に入れてくれたから今の私がある。


 屈託のない笑顔を浮かべる揚羽を見て李音は目を丸くした。少しは弱音を吐いたり、もうやめたいという言葉が出てきてもおかしくないと思っていた。


「お前、強いんだな」


「?」


 どういう意味なのかと首を傾げる揚羽を見て李音の口元に自然と笑みが溢れた。


 本当に。こいつを見ていると何だか自然と笑顔になる。一度面と向かってもっと笑えばいいと思う、と言われた時はおせっかいな奴だなと思ったけど、俺が笑うとこいつも嬉しそうに笑う。その笑顔が可愛らしいと素直に思っていた。


 今まで桜乃宮財閥を受け継ぐ跡取りとして笑顔はあまり人に見せるべきではない。舐められてはいけない、常に厳しく冷静でいろ、と父に言われてきたことを思い出す。


 でも反対に母には常に笑顔でいること。貴方のキツイ目は私譲りなのだから睨んではだめ。女の子を怖がらせるものではなくてよ、と言っていた言葉も思い出した。


 でも李音が守ったのは父の言葉だった。若くして亡くなった父。父が持つすべての権限を息子に相続させた途端、悪い大人達はこぞって彼を丸め込もうと近づいてきた。


 母は放任主義というか、父の会社経営には一切興味のない人だったから、そっち方面は全部李音に任せる! なんて言って一切手出し無用だった。


 父の威厳を守るためには、自分自身にも厳しくしないといけなかった。それこそ心の底から笑うことなんて忘れるくらい。


「お手をどうぞ」


「えっ?」


 急に目の前に差し出された手にびっくりして李音様の顔を見たがすぐにハッと気づいた。


 もしかして……ダンスに誘われてる?


 そう思い、恐る恐る手を取った。すると肩に手が周りホールドの体制に入る。グッと距離が近くなり、思わず息を呑んだ。


「どのくらい覚えた?」


「……まだ初心者のステップくらいです」


「なら丁度いい。俺ももう忘れてるからな」


 クスッと李音は笑うとゆっくりとリードを始めた。揚羽は身を任せ、初めてのカップル練習に頑張ってついて行こうとした。ダンスの先生は女の人だったので男役は先生が担当していた。なので男女で組み、ステップを合わせるのは初めてのことだった。


 うっ……! 本番はもう少し重たいドレスを着なくちゃいけないのに、練習着でも足のステップがおぼつかない。


 まだ慣れなくて、もつれそうになる足を必死で動かしてついていく。反対に李音様は涼しい顔で難なくこなしていった。


「……嘘つきです。全然踊れるじゃないですか」


 ムゥっと頬を膨らませる。そりゃあまだ一週間しか習っていないから仕方ないといえば仕方ないのだが、あまりにも差があってちょっぴり悔しかった。


「案外体は覚えているもんだな」


「……どうして私にしたんですか?」


「んっ?」


「……李音様なら他に相応しいお相手、いっぱいいたんじゃないですか?」


 そりゃ、一番都合が良かったのは私だろうけど……同じくらい失敗するリスクがあるのも私だと思う。それなのに選んでくれた理由は……楽、意外に他にもあるんだろうか?


「さぁな。どうしてだろう、な」


「えっ、わっ!」


 急にクルリと一回転させられる、転ばないように必死にバランスをとりながら元の位置にストンと戻ったらそこでダンスが止まった。


 向き合う形でしばし動かなくなる。視線を外すのもわざとらしいかなと思い、彼の目をじっと見つめた。

 

 すると李音様もじっと目を逸らさずにこちらの目を覗き込んでいた。互いの瞳に互いの顔が見えた。彼は何か言おうと喉元まで出かかった言葉を最後まで曝け出さずに、結局グッと飲み込むように視線を外した。


「案外飲み込みが早いな。三週間後が楽しみだ」


 触れていた手が離れる。そして李音様はスタスタと歩いていってしまった。




 ……言えるわけがない。


『……どうして私にしたんですか?』


 その本当の理由を。


 揚羽自身は拓也の事件をもう大丈夫と語るが側から見て全然大丈夫そうには見えない。この間だってそうだ。少し触れようとすると怖がった。


 体の傷は時間が立てば癒えるかもしれない。でも心の傷はそう簡単に消えないのだ。ましてや四年も純粋に思ってきた相手だ。もっと彼女にはゆっくり休む時間が必要なのだろう。そんな状態の彼女に素直に言えるわけがない。


 損得なしに考えて、一番最初に思い浮かんだのが彼女の顔だった。


 最初は変な女だと思った。馬鹿がつくくらい真っ直ぐで正直で。怯えるくせに絶対に譲らない、芯の強い一面もあって、でも傷つきやすくて泣き虫だ。危なっかしくて目が離せない。


 自分で死を選ぶのも理解できなかった。たまたま千夜子さんへの恩を返しただけなのに、助けたらあんなに真っ直ぐにありがとうって礼を言うし……、ただ、俺は、自分のことしか考えてなかっただけなのに……。


 自分でも驚くくらい、揚羽に惹かれている自分がいることに最近気づいた。でも、今はまだその気持ちは伝えるのはよしておこう。きっと今の彼女には重荷になってしまうから……。


 婚約者候補と距離を取りたいという気持ちは本当のことだった。婚約するか否かの話は生前の父が勝手に親同士で進めていたものにすぎない。母からは父の意見に従う必要はない。自分の伴侶は自分で決めろと言われた。つまり、母はこの政略結婚は望んでいないのだ。俺がきちんとハッキリ断ればすむこと。


 しかし、その母がわざわざパーティーで見せつけるために恋人を連れてこいと言うことは相手側の両親が破棄を了承していないからだ。まだ婚約自体は結んでいない。あくまで候補。俺が自分で選んだ人を連れていけば相手側の両親は改めてこの話が難しいと諦めるかもしれない。


 でも、下手に紹介をすると逆に嫌がらせをしてくる可能性もあった。もしその時は全力で彼女を守らなくては。

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