第36話 触れられたい気持ち

 次の日、重たい目を擦りながら体を起こし、朝の準備を始めた。揚羽は昨日の薫の言葉が気になってあまり眠れなかった。


『じゃあ単刀直入に聞きます。揚羽さんは李音様のこと……好きですか?』


 そんなの一晩考えても答えが出なかった。


 好き……かぁ。好きって、どこから始まりなんだろう。


 家族への好き、友達への好き、同僚への好き、恋人への好き。全部好きって気持ちなのに込められた意味が全然違ってくる。


 多分。拓也への気持ちは本当に恋愛として異性としての【好き】だった。今はもう彼に対して未練はないけれど新しい恋をするには早すぎる気もするし、何よりまたそういう感情に振り回されて溺れる自分は想像したくなかった。


 私はただメイドとして、彼の傍にいれればそれだけでいい。それ以上は願ってはいけない気がした。だから李音様に好きな女性ができても傷つかないようにしなくては。


 ふと、いつもポケットに入れている彼からもらったリップグロスを取り出してみる。あれから一度もつけてはいない。クローゼットの中にはあの日プレゼントしてもらった洋服や靴も入っている。たまに取り出してその服を見つめ、あの日のことをゆっくり思い出すのだ。


 そのくらいは……きっと、許されるよね?


––––チリンッ


 李音様が呼んでいる。私は慌ててリップグロスをポケットにしまうと、李音様の部屋へすっ飛んでいった。


「お呼びでしょうか?」


「朝から悪い。急用だ」


 李音様はお決まりの頭が痛い、とでも言うように頭を抱えていた。


「悪いが協力をしてもらいたい。非常に頼みづらいことなんだが……」


 珍しく歯切れ悪そうに李音様は頬をかいた。私は彼に対して逆らえるような立場ではないのだから遠慮なしに命令すれば解決することなのに、こうして私の気持ちをきちんと考えて言葉にしてくれている。その優しさがひしひしと伝わってきた。


「李音様のお望みでしたら出来る限り善処いたします」


 そうよ! 私は彼のメイド。彼の願いを叶えるのが仕事だもの!


 揚羽は鼻息荒く、どんとこい! と心の中で胸を叩いて気合を入れた。


「そう言って貰えると助かる。実は一ヶ月後、うちの母親がパーティーを主催するんだが……」


 なるほど、もしかしてそのパーティーで給仕役が足りないのかな? 


「そこで恋人役を頼みたいんだ」


「はい! わかりました!」


 って、あれ? 思わず先走って元気よく返事しちゃったけど、よくよく聞いたら予想していた話ではなかったようだ。


「恋人……ですか?」


 役をわざわざ頼むと言うことは李音様には本物の恋人はいない……ってことでいいのかな? なんだか少しだけホッとしている自分がいた。しかし、胸を撫で下ろしたのも束の間だった。


「実は……婚約者候補がいるんだが俺はそいつと婚約するつもりがなくてな、母親に断るなら今度のパーティーに恋人を連れて来いって五月蝿くて、何とか誤魔化したいんだ」


 婚約者。その言葉に胸がキュッと締め付けられた。


 そりゃ、そうだよね。由緒あるお家のご子息に婚約者候補の一人や二人、いてもおかしくないもん……。


「お前には悪いが今日からダンスとマナーを勉強してもらう」


「え、えっ!? あ、あの! それなら薫さんの方が向いているのでは……」


 一般人の私には荷が重すぎるような気がしてきた。たった一ヶ月勉強しただけで私が全くボロを出さずに、李音様のお母様の目を誤魔化せるだろうか……?


 その点、薫さんはどこかのお嬢様のように既にマナーも完璧だし、何より美人だ。隣にいてもらうだけで華がある。しかし、その提案は却下された。


「薫は……事情があって連れて行けないんだ」


 そっか、確かによくよく考えたら薫さんは数年前からここに勤めてて既に顔が割れてるし、普段メイドとして働いている彼女をいきなり恋人です! と紹介するのは嘘とすぐバレる可能性もあるのかもしれない。まぁ、かく云う私も本職は彼のメイドなんですけど……。


「わかりました。お力になれるよう頑張ります」


 少しでも李音様のお力になれるならと腹を括った。それに教養はいくら身につけても無駄にならないと思う。むしろ学ばせてもらえるなんて光栄なことだ。


「このスケジュールでレッスンを頼む。しばらく業務は薫メインで動いてもらうと既に伝えている」


 渡された紙を見るとほぼ真っ黒。分刻みなスケジュールに開いた口が塞がらなかった。


「本当にすまない。しばらく負担をかけてしまうがよろしく頼む」


 李音様は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。私は慌てて、頑張ります! 絶対、李音様に恥をかかせないレディになって見せます! と伝えると彼は優しく笑った。


 そういえば、こうして彼とゆっくり二人きりで話す時間は久しぶりだ。


 拓也の事件の日、私はあのまま眠ってしまい、気づいたら自室のベッドで横になっていた。そしてだんだんと顔の腫れが酷くなり、あまり人に見せたくなくて昨日の事情聴取が行われるまでほぼ自室に籠っていた。その間、身の回りのお世話をしてくれたのは薫さんだ。この間の看病のお礼と彼女は言っていた。


 あの時李音様に後で聞こうと思ってたこと……今、聞くチャンスなのでは?


 そう思い、言葉にしようとした時だった。揚羽が質問するより前に李音が先に口を開いた。


「そういえば、跡は消えたか?」


 トントンと自分の胸元を指で叩いてみせる。この間拓也につけられたキスマークのことを言っているようだった。


 数日経っているし、もう消えているかな? あまり自分でその跡を見たくなくて絆創膏の張り替えをする際も薄目を開けながら張り替えていたから、今どのくらい残っているのか自分でもよく分からなかった。


 とりあえず、貼っている絆創膏を剥がしてみる。


「どうでしょうか? あまり自分で確認していないもので……」


「……もう少しこっちに」


 距離もあいているし見づらいのかな? とりあえず言われるがまま近づいた。すると何故か李音様と目が合った。見て欲しいのは目ではなく、胸元についている跡の有無なのだが……彼の瞳に捕らえられ、自分からうまく視線を外すことができなくなる。


 でも、真っ直ぐに見つめられるとどうしていいかわからなくて息が詰まった。呼吸を忘れ、紫色の綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。


 なんて、なんて綺麗なんだろう……。


 ふと、李音様の手が私の左頬へと伸びた。傷つけられるわけがないのに、拓也に殴られたことを思い出して反射的にビクッと体が震えた。その反応に一度躊躇して伸ばした手が空中で止まった。


 自分で怯えたくせに、私は彼に触れて欲しくて一呼吸置いた後、自らの手で彼の手を誘導し、そっと左頬に添えた。


「すみません……大丈夫です」


 彼に対して怯えてしまったことに罪悪感を抱いた。彼のこの優しい手は何度も私に触れているはずなのに。絶対に私を傷つけるわけがないのに。


 李音様は優しく頬を撫でた後、そのまま胸元のキスマークを確認するかのようにスルスルと手が滑り落ちていった。


「跡は消えたようだな」


 ツーッと指でなぞられると小さく体が反応した。別にやましいことをしているわけではないのに、なんだか恥ずかしくて胸の鼓動がやたら煩かった。


 どうしよう、まともに顔、見れないや……。だめ、なのに。これ以上、この人に惹かれては絶対だめなのに。

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