第34話 救済
「や……めて……ッ!」
胸元のリボンはいとも簡単に解かれ、服が徐々に乱れていく。スカートを太ももあたりまで捲し上げられ、いやらしい手つきで足を撫で回された。触れられた場所からゾワゾワと不快感が全身に走った。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いッ!
目の前にいるのはかつては愛した男のはずなのに、今はただの穢らわしい獣に思えた。意見を言えば否定され、抵抗しようとすれば力でねじ伏せてくる。遠い過去の父親と全てが重なり、どんなに頭で抵抗したいと願っても体はすでに恐怖に支配され、思うように動かなくなっていた。大人しくなった揚羽を馬乗りで見下ろしている拓也は観念したと思ったのか満足そうに微笑んだ。
「大丈夫。優しくしてやるよ」
彼は独りよがりの愛を押し付けながら、服が乱れ開いた胸元をなぞった後、首筋に口付けを落としキスマークをつけた。まるで自分のものだと主張するかのように。ゆっくりと離れるとペロリと舌を出し自身の唇を舐め湿らせる。そして獲物を捕食するかのような目で見下ろして今度は唇を奪おうかと顎に手をかけた時だった。
––––ドンドンドンドンッ!
突然、玄関の扉が激しく叩かれた。その音にびっくりして拓也は顔を上げたのでその一瞬の隙を逃さないよう大きく息を吸った。そして––––
「助けて!!! 誰か、助けてくださ––ッ!」
目一杯腹の底から声を出し、助けを求めた。すぐに手で口を塞がれたがそれで十分だった。異常事態が伝わったのか一層扉を叩く音は強くなった。
「くそっ!!!!」
慌てて拓也は立ち上がり台所へと逃げていった。拓也が離れてすぐに扉が破壊されるような音が聞こえ、ドタバタと慌ただしく人が乗り込んできた。
「揚羽ッ!!!」
「揚羽ちゃん!!!」
李音と凪は部屋に入り、揚羽の姿を見てギョッとした。涙でぐしゃぐしゃな顔、右頬は赤く腫れ上がり、口元からはポタポタと少量の赤い血が滴っていた。服は乱暴に乱されており、もう少し到着が遅ければ何もかも取り返しがつかないことになっていたかもしれない。
李音は急いで近寄り、自分の上着を脱いで揚羽の肩に被せた。きつく縄で縛られていた手足を自由にすると細く白い手に痛々しい跡が残っていた。放心状態で座り込む揚羽を李音は強く抱きしめた。
「怖かったな。もう大丈夫だ」
その言葉で酷く凍っていた心がお湯に浸かるみたいにゆっくりじんわりと温かくなった。不思議だ。今まであんなに拓也に触れられるのが不快だったのに……。李音様には全然そんな気持ち抱かなかった。むしろ触れられることによって体の震えが徐々におさまった。
「……奴は?」
私は言葉で答える代わりに隣の台所をゆっくり指差した。ガタンっと物音が聞こえたのでまだ部屋の中に潜んでいるようだ。
「李音、揚羽ちゃんを頼むよ」
凪は今まで聞いたことのないような怒気を含んだ声を出し、威嚇するかのように部屋と台所を繋ぐ扉を蹴り上げた。ガタンっと凄まじい音を立てて扉が外れた。するとその音にびっくりして奥からヒィッ! と情けない声が聞こえた。
「悪いけど俺、女の子に酷いことをする男に慈悲は与えないから」
凪は台所のテーブルの下で隠れている拓也を見つけ掴み掛かると思いっきり頬に一発拳を入れた。ガシャンと椅子を巻き込んで倒れこむと気を失ったのか動かなくなった。のびた様子の拓也の胸元を掴み、もう二、三発殴らせろとでも言うように勢いよくグラグラとゆすったがやはり意識は取り戻さなかった。
「チッ、仕方ない。後は警察にでも引き渡そうか」
凪は掴んでいた胸ぐらを離し拓也を床に突き飛ばした。スマホを取り出し、110番へ通報しているようだった。その間もずっと李音は優しく抱きしめ続け、揚羽の頭を撫でた。そして凪が電話をしながら口パクで「ま・か・せ・て」と合図を送ってきた。李音はその意味を理解したかのように頷いた。
「帰ろう。ここにいたら辛いだろう。警察には家に来てもらうから大丈夫だ」
動けない揚羽を軽々抱き抱えるとそのまま拓也のアパートを後にした。まだ少し放心状態で固まる小さな蝶を近くに停めていた車の後部座席にそっと下ろした。赤く腫れ上がる頬に優しく触れると痛むのかビクッと体が震えた。その反応を見て拓也への怒りの感情が沸々と湧き上がる。
「……ここ、あいつにやられたのか?」
首筋に赤く残るキスマークをそっと指でなぞった。揚羽の白い肌に目立つようにつけた印はしばらく消えそうにない。しかも位置がうまい具合に服で隠せないように付けられている。李音はゴソゴソとズボンのポケットを弄り、持っていた一枚の絆創膏を取り出した。それはいつもクールな李音が持ち歩くにはあまりに可愛らしすぎる少し子供っぽい絆創膏だった。
「薫がな、凪はああ見えて喧嘩っ早くってよく怪我をするから俺に持ち歩けって煩いんだよ」
クスッと笑いながら李音は言う。そして丁寧にキスマークが見えなくなるようにその絆創膏を貼ってくれた。
「……私、悔しかったんです」
貼ってもらった絆創膏をひと撫でして、ぽつりぽつりと揚羽は言葉を続けた。
「傷つけられたのが、泣かされたのが、私、あんな奴のために、し、死にたい、って思ったことが……!」
ボタボタと次から次へ涙が溢れて止まらなかった。李音はその涙を指で拭い取りながらただ黙って話を聞いていた。
「だから、言いたいこと全部言ってやりました。殴られちゃったけど、李音様がいっぱい勇気をくれたから……、私初めて自分の意思で拓也に噛みついてやりました」
前に彼に言われた言葉が脳内をよぎった。
『悔しいと思ったら言い返してみろ、悲しいと思ったら怒って見せろ、お前の感情をもっと出せ!』
今までなんでも無難に流すのが一番平和だと思い、できるだけ自分の意見は言わずに一歩も二歩も引いて歩いてきた。拓也は優しかったし、大きく間違ったことを言うような人でもなかった。でもどんな理由があるにせよ、平気で人を傷つけた彼を絶対に許すことは出来なくて何度も何度も流されそうになったけれど、今日、ようやく一矢報いることができた。
「……一人でけじめをつけられたのは李音様のおかげです。助けに来てくれてありがとうございます」
精一杯の感謝を込めて私は笑った。ようやく長い間囚われていた見えない糸を断ち切ることができたような気がした。
確かに拓也に救われたこともあった。彼と共に歩きたい未来もあった。それでもきっと彼と歩める道はここまでだろう。これから私はまた一人で別の道を歩まなくてはならない。
でももし……その道を一人ではなく、誰かと歩むことを許されるなら……。
「あの時の声……私が死ぬ間際にかけてくれた声。ちゃんと聞こえてましたよ」
全部夢だったのかもしれない。でも夢じゃなくて現実だったかもしれない。そんな【もしも】の話。
「俺をもう一度信じろって」
李音の瞳が驚きで揺らいだ気がした。そしてそんな【もしも】の話を知っているかのように小さく頷いた。
「私を……救ってくれてありがとうございます。あの時、私を止めてくれてありがとうございます」
きっと彼はあの日私が命を落とすことを知っていたのかもしれない。だからあの日、急いで部屋まで来て鋏を持つ私の手を止めてくれたのかもしれない。そんな非現実的な話、笑われてしまうだろうか? どういう理屈で彼が未来を知っているのかはわからないが少なくともそんな気がしてならないのだ。今度、ゆっくり彼に聞いてみようと思う。
「……少し疲れました。寝てもいいですか?」
瞼が重くて仕方がない。疲労と緊張が重なり、すでに体は限界を迎えていた。
「あぁ、目が覚めたら全部元通りだ」
優しく頭を撫でられるとすぐに夢の中へと落ちていった。嗚呼、なんて温かい手なのだろう。この人の温もりをこれからもずっと傍で感じられたら……そんな淡い願いを胸に抱いて揚羽は眠った。
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