第29話 飴玉

 アップルパイを特訓し始めて今日で四日目。ついに今日李音様が帰ってくる日だ。普段のお料理は薫がメインで揚羽は基本的に補助や盛り付けを担当している。今日初めて自分だけで作ったものをお出しすると言うこともあり、朝から少し緊張していて無意識に朝の支度をしている時にクローゼットのドアを強く閉めてしまった。


 すると強く締めたドアの衝撃で中からドスンと物が崩れる音がした。慌ててクローゼットを開けてみると、この屋敷に来た時一緒に持ってきた鞄が上の棚から落ち、その中身がひっくり返っていた。幸い中身はそんなに多く入ってなかったので拾い集めていると無色透明のキャンディーが入った袋がコロンと転がった。


 確かこれは––––拓也と別れた日に彼女と名乗る女から渡されたキャンディー。


 親指と人差し指でキャンディーの袋をつまみ持ち上げ、なんとなく光にかざしてみる。


「キラキラしてて綺麗……」


 思わずそんな言葉が溢れた。本当はこんなものすぐに捨てようと思っていたんだけど……、気持ちに踏ん切りをつけないで捨てたらただ逃げただけのような気がして鞄にしまって今の今まで忘れていた。


 今度こそちゃんと捨てよう。もう迷いはないのだから。そう心に決めてゴミ箱へ向かって歩き出そうとした時だった。


「揚羽さーん! ちょっといいかしらー?」


 廊下の方で薫が呼んでいる。揚羽はその呼び声に答えようと息を吸い込み言葉を発する前に、ズテーンと廊下の方で大きな物音と小さな悲鳴が聞こえた。


「えっ!? 薫さん! どうかしましたか!?」


 私は慌てて部屋を飛び出し、手に持っていたキャンディーをとりあえずポケットへと突っ込んだ。




「あいたたた……、やっちゃった」


 声のする方へ急いで飛んでいくと床に座り込む薫がそこにいた。ふと周りを見てみると大きい荷物を自分で運ぼうとしてバランスを崩して転んでしまったようだった。


「大丈夫ですか!?」


「えぇ大丈夫よ。ありがとう。痛っ!」


 薫は顔を少し赤らめ、すぐに立ちあがろうと足に力を入れたが激痛が走ったようでまた床に座り込んでしまった。


「あらら、足挫いちゃったみたい」


 失敗失敗と戯けたように笑うと薫はちろっと舌を出して見せた。揚羽は薫に肩を貸し、なんとか一番近かった食堂の椅子まで辿り着けた。


 救急箱の位置を聞き、中に入っていた湿布薬を捻挫した足に貼ろうとしたらだんだん熱を帯び、腫れてきているようだった。


「どうしましょう。今日は李音様が帰ってくる日なのに……」


 まだまだ今日は始まったばかり。やらなきゃいけない仕事はまだたくさん残っていた。しかし薫の足の腫れは時間が経つごとに酷さを増していた。


「わ、私が全部やります! 薫さんは私がまだわからないところの指示だけお願いできますか?」


 いつもは薫が何でも手際よくこなしてしまうためなんでも補助に回っていた。でもそれじゃあダメだ! 薫さんの負担をいくらでも減らせるようにもっともっと頑張らないと!!


 薫はそれじゃあ揚羽さんの負担が多すぎるわと言って無理矢理立とうとしたので慌てて止めた。痛みのせいなのかだんだん顔色が悪くなっているように思えた。


「大丈夫です! お願いします! 私にやらせてください!」


 少々、二人で押し問答になったがやがて薫の方が折れてくれた。まずは朝食の準備だ。と言ってもこれはすでに薫が早起きして下ごしらえを終えていたのでほぼやることは終わっていた。


 二人で朝食を食べ終えると次は掃除だ。広い屋敷の中息を切らしながら端から端まで走り回る。洗濯を終えたら昼食の準備。


その間薫にはソファに横になって休んでもらっていた。終始申し訳なさそうにして隙あれば「もう大丈夫だから」と言って動こうとすると揚羽はすごい剣幕で止めた。明らかに大丈夫そうには見えなかった。


 昼食は既にヘトヘトになった揚羽が簡単に作った物だったが薫はすごく美味しいとベタ褒めしてくれた。そして昼食も無事に終え、一息ついたらいよいよ三時のおやつに出す予定のアップルパイを作る時間になった。


 一つ一つ丁寧に作業をこなしていく。失敗したらやり直す時間などはない。つまり一回限りの大勝負なのだ! 私は気合を入れて望んだ。その健気な後ろ姿を見て薫はニコニコと笑っていた。


 オーブンの焼き上がる音が小さくキッチンに響き、ドキドキしながら開けてみると、こんがりきつね色に上手く焼けたアップルパイが出来上がった。練習してきた中で一番の出来だった。揚羽は嬉しくなって思わずホール丸ごと見せようとしたら薫はにっこりと笑っていた。


「あらあら。本当に可愛いメイドさんだわ。落っことさないように気をつけてくださいね」


「はーい!」


元気よく返事をし、アップルパイにナイフを入れた。ザクッザクッと気持ちのいい音がし、断面からほんのり湯気が出た。見た目も良し、匂いも良しだ。


「えへへ! 上手くできた!」


 つい嬉しくなって子供のように笑ってしまう。誰かのために何かをするってなんだか特別で幸せな気分になった。


「きっと李音様も喜んでくれると思いますわ」


 薫も揚羽につられて自然と笑顔になる。こんな素直ないい子がこれからも李音様のお側にずっと、ずっといてくれたらいいのにと心の底から願っていた。


 間も無くしてすぐに屋敷のチャイムが鳴った。屋敷の主人が戻ってきたのだ。揚羽は慌てて玄関の方へお出迎えに走った。


「お、お帰り、なさいませ……」


「どうした? そんなに息を切らして」


ゼェハァと息を切らしている揚羽を見て李音は目を丸くした。そしてその後ろから「やぁ!」と声が聞こえて見てみると、以前屋敷に尋ねてきた凪が優雅に手を振って笑っていた。


「揚羽ちゃんまた会ったね。もはやこれは運命の出会いだよね」


「……? メイドなんだから屋敷にくれば普通に出会うだろ」


 何言ってんだという顔で李音は凪を一瞥した。ハハっと凪は爽やかに笑うと揚羽に近づき、頬に手をかけた。


「大丈夫? こんなに汗をかいて……忙しかったのかな? こいつにこき使われてない? 女の子が無理しちゃダメだよ」


「あ! すみません! おみ苦しくて!」


 私は慌ててポケットを弄りハンカチを探した。確かに忙しかったとはいえ、もう少し優雅にお出迎えできたらよかったのにと少し恥ずかしくなった。


 左ポケットから急いでハンカチを取り出そうとした時に何かが一緒に引っ張られてコロンと床に落ちた。カンカンと音を二回立てて転がったのは今朝捨てようと思っていたあの透明なキャンディーだった。

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