第25話 蜘蛛姫蜂
「……行きましょう」
私は振り返ることなく迷わずに李音様の手をとった。
すると彼は心の底から安堵したように優しく笑った。その顔を見て私は少しだけ心がざわついた気がした。これはお芝居でそこにはなんの感情もないはずなのに……何も期待してはいけないのに。
もう一度前へ二人で歩き出す。もう後ろから呼び止めるような声が聞こえてくることはなかった。人混みに紛れ、徐々に遠ざかる二人の背中を見えなくなるまで見つめ続け、拓也は一人打ちひしがれていた。
「うそ……だろ?」
これはドッキリだと、嘘だと、悪い夢だと。私はやっぱり拓也じゃなきゃダメだよといつものように言って欲しかった。自分の獲物だと、彼女を捕らえて逃がさないようにしていたはずなのに、どんどん目の前の蝶は自分の手の中から離れていなくなってしまう。
おかしい、おかしい、何かがおかしい。どうして、どうしてこんなことになったんだ???
頭の中がおかしくなりそうだ。
なんだか頭が痛くなってきた……。そうだ……帰らなきゃ……綾乃の元に、帰らなくては。帰って早く、アレをもらわないと……。
「拓也」
ポンっと背中を誰かに叩かれる。もしかして揚羽が戻ってきてくれたのかと淡い期待を込めて拓也は「揚羽」と名前を呼びそうになったがすぐに声の主の存在が自分が求めていた人ではないことに気づく。
「遅いから迎えにきちゃった、浮気、してないよね?」
ケラケラと壊れた玩具のように笑う独特な笑い方。それは機嫌が悪い時の姫宮綾乃の特徴的な笑い方だった。
「悪い子にはご褒美、あげないよ」
綾乃はチラチラと指に挟んで見せた透明なキャンディーを口に放り込んで見せる。そしてベーと舌の上で転がして見せた。拓也は見せつけられたそのキャンディーが猛烈に欲しくて欲しくてたまらなくなって自然と綾乃の唇に吸い寄せられる。
「いい子ね、拓也」
綾乃は怪しく笑う。二人は人が行き交う中でキスを交わした。蜘蛛が蝶を捕らえ喰らうのであれば、蜘蛛を狩るこの女は•••さしずめ【クモヒメバチ】のような女だ。
クモヒメバチは蜘蛛に寄生する蜂である。宿主である蜘蛛に卵を産みつけ寄生し、その蜘蛛の体液を栄養に成長する。すぐに宿主を殺しはしない。利用するだけ利用し、一生奴隷のようにこき使うのだ。しかし、生かしておくのは自分にとって都合の良い時だけ……。
「まだあの子が忘れられないの? だめじゃない、私がいるんだから」
拓也自身は綾乃と一緒になるつもりは微塵もない。しかし綾乃は違った。なんとしてでもこの男を手に入れたくて禁断のものにまで手を出した。
拓也は満足そうに飴を頬張ると、先ほどまでの憂鬱な気持ちが少し和らいだような気がしてまた綾乃の甘い毒に溺れていくのだ。
「逃がさないんだから」
クスッと妖艶に怪しく笑う女の美しい髪を、遠くから舐め回すかのように熱い視線で見られてることに二人は全く気づかなかった。
––––繋いだ手って、いつ解けばいいんだろう?
あの後拓也は追いかけて来なかったし、もう恋人同士のフリをしなくても大丈夫な気がする。つまり手を解いてもいい頃だと思うんだけどいかんせんそのタイミングがよくわからない……。
別に繋いでいるからと言って嫌な気持ちは一つもない、むしろ茶番に付き合わせてしまったことに対して多少の罪悪感を抱いていた。
でも、李音様のおかげであんなに傷ついていた心がスッキリした気がした。拓也がいなくても、もう前に進めそうな気がしてきた。私は私の足で、もっと前へ進めるような気がした。
しかし不意に今まで隣を一緒に歩いていてくれてた李音様の足が止まったので私も何となく合わせて止まってみた。しばしの沈黙。何か言いたいことがあるのでは、と揚羽は李音の言葉をゆっくり待った。
「お前が……」
李音は静かに口を開いた。その声色はほんの少しだけ震えていた気がした。
「俺の手を取ってくれてよかった」
先ほども見せた彼の心の底から安堵している表情に私はまた心がかき乱される。
––––どうしてそんな顔で笑うのだろう?
まるで過去に一度手を取ってもらえなかったような……そんな口ぶりだ。
もしかしてどこかの歯車が違えば……一歩間違えれば私は……また傷つくと分かっていても、拓也の手をもう一度取っていた未来もあったのだろうか?
例えばもし……李音様が間に合わなかったら、私はたった一人で今のように立ち向かえただろうか? 例えばもし……李音様が私と拓也の間にあった出来事を詳しく知っていなかったら、なんの状況もわからないまま言いくるめられていたかもしれない。
そんな【もしもの世界】を考えたら改めて怖くなった。でも【今】いる現実はそんな悲劇は何一つ起こっていない。
「私は……これからも何度でも、貴方の手を取りますよ」
それは心からの言葉。何度でも何度でも。今日私に勇気をくれたこの手の温もりをちゃんと忘れずにいようと思った。
「私は、もう貴方の
その言葉の意味にけして【感情】を入れてはいけない。恋とか、愛とか。そういうスパイスは何一ついらない。ただの物として物質としての意味で、貴方に一生捧げなくては。
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