第24話 縁切

「俺の……女?」


 拓也はすぐにその言葉を信じられなかった。


 まだ数週間……、この俺と別れて数週間しか経っていないんだぞ? 何年こいつと一緒に過ごしてきたと思うッ! 四年だ! 四年もかけてじっくり俺だけに従順になるように教育してきたんだぞ? 揚羽の性格行動、俺への依存度、全て理解しているつもりだった。


 それらを全部照らし合わせてもすぐ新しい男ができるなんて想像もつかなかった。だから、こんな男の言うこと信じられるわけがない!


 そう自分に都合よく考えをまとめると少し冷静になり、拓也は一度深呼吸をしてから改めて李音を睨みつけ、鼻で笑った。


 そんな事実、絶対にあるわけがない。拓也はそう自信満々に笑った。しかし李音も一歩も引くつもりはない。


「あれ? 揚羽から何も聞いていませんか? ……あぁ、そうか。全部お話しする前に彼女さんと帰っちゃったんでしたっけ」


 李音は珍しく丁寧な口調で優しく、しかしどこか棘がある声色で話し続けながら、後ろから強く抱きしめた手を解いて揚羽より少し前に出た。まるで拓也から見えなくなるように背中で庇ってくれているようだった。


「一千万、確かにお受け取りになりましたよね?」


「……それがどうしたって言うんだ」


「その一千万で俺が彼女のことを買ったんです」


「……はぁ?」


 突然の話に拓也は声を荒げた。その大きな声に反応し道ゆく周りの人が不審そうに見ているが拓也はもう周りが見えていない様子だった。


「つまり、もう彼女は俺の所有物なので、俺の女、と言うことになりますね」


 李音は、クスッと小馬鹿にしたように笑うと揚羽の肩を自分の方に引き寄せてみせた。揚羽に触れる度拓也のこめかみがぴくぴくと引きつき、まるで子供がお気に入りの玩具をとられたかのような幼稚な反応があまりにも滑稽でまた思わず笑みが溢れてしまう。


「まぁ確かに最初のきっかけはお金でしたけど今は恋人同士なんですよ。今日もこうしてデートの最中なんです」


 なっ? と相槌を打たれ、揚羽はようやく李音が何をしたいのか理解した。


 仕返し、してくれてるんだ。


 昨日の夜、突然今になって拓也と別れたあの日のことを詳しく聞きたいと部屋に呼ばれた。何故このタイミングなのか不思議に思っていたけど、私はゆっくりとあの日何が起こったのかをきちんと話した。


 すると私が拓也に傷つけられたことを薫さんと一緒にすごく怒ってくれていた。私はそれだけでも十分救われていたのに……。


 こんなタイミングで拓也と再会したのはきっと何か意味があるんだ。私はもう、以前の自分とさよならしたい。今はこの人のために、李音様のために生きるって決めたんだもの……彼がくれたこのチャンスを無駄にはしない! 今、ここで拓也との関係を断ち切るんだ!


 そう心に強く決めて李音様の手をそっと握った。すると彼は一瞬だけちょっと驚いたような顔をしたけどすぐに微笑み、繋いだ手をぎゅっと握り返してくれた。


「私、この人のことが好きなの」


 揚羽が自分以外にそんなことを口走ると思ってもいなかった拓也は思わず目を丸くした。


「……冗談、だよな?」


 引き攣ったような笑い、顔は真っ赤になって大分頭に血が昇っているようだった。その声色に少しだけ怯みそうになる。でも繋いだ手がとても暖かくてなんだか頑張れって勇気をもらえた気がしてちゃんと言葉にしなきゃダメだと思った。


「……もう拓也には関係ないでしょ」


 今まで四年もの歳月を共にして、揚羽が拓也に対してこんな態度を取るのは初めてのことだった。これまでずっと四年間愛を注いできた。その度に揚羽は照れくさそうに、でも世界一幸せそうに笑うのだ。その顔が好きで、好きで好きで好きでたまらなくて本当に愛していて、何よりも愛しいと思っていた。


 でも急にふと思ったんだ。こんなに自分のことを求めてくれている彼女が全てを失くした時どんな顔をするのかと。


 そしてどんな顔で縋ってくるのか……、それがただ見たくて……見たくて見たくてたまらなくなって……あれ、俺って……いつからこんな風に気持ちが歪んでしまったのか?


 放心状態で固まっている拓也を睨みつけて、もう話すことはないと思い揚羽は李音に目配せをした。彼も同じ気持ちだったらしく、背を向けて二人で歩き出そうとした時だった。


「……ッ! 揚羽!」


 後ろから縋るような、泣いているような弱々しい声で呼び止められた。心臓を後ろから掴まれているような感覚だった。こんな拓也の声を聞くのは生まれて初めてのことだった。後ろ髪が引かれるとはこのことか、でも決して振り返ってはいけないような気がした……。


「揚羽」


 少しだけ迷っているとすぐ隣にいる李音にも名前を呼ばれ、不意に目の前に手を差し出される。顔をあげてみると彼は真っ直ぐにこちらを見つめていた。


その目はまるで「こっちの手を取るんだ」と言われているような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る