第19話 印

 次の日。揚羽は体験したことのない、まるで雲の上にいるようなふかふかの高級ベッドがあまりにも気持ち良すぎて危うく寝坊しそうになった。しかし、持ってきた愛用の目覚まし時計の音がけたたましく鳴り響いてくれてたおかげで慌てて飛び起きることができた。急いで身支度を整え、メイド服に着替え終わると食堂へと向かう。


 するとすでに薫が来ており、揚羽の姿を見て「おはようございます」と挨拶をくれた。揚羽も挨拶を返すと早速今日から本格的に仕事が始まった。


 基本的に私たちの仕事は李音様の身の回りのお世話や、屋敷の掃除、後は李音様の仕事のお手伝いで書類を作ったり、纏めたりが主な業務らしい。


「そういえば、李音様ってお仕事は何をなされてるんですか?」


 私は朝食の支度の手を止めずに薫さんに聞いてみた。


「んー、そうですね。色々やってらっしゃいますが今は会社運営とか、あ、裏社会の情報収集みたいなこともしてますよ」


 裏社会? なんだかすごい言葉を聞いてしまったような気がする……、あまりこの話題には触れないほうがいいのかもしれない……と思い、自分で聞いておいてなんだがすぐに話題を変えることにした。


「えっと、薫さんはいつから李音様にお仕えしているんですか?」


 二人の会話の雰囲気から察するに長い付き合いみたいだがもしかして幼い頃からお支えしているのだろうか? 桜乃宮家に仕える由緒正しい使用人一家、とか?


 でも薫さんって使用人っていうよりはどこかのご令嬢って言われた方がまだ納得できるんだよなぁ……。何というかあまりにも所作が美しすぎて使用人の度を超えているというか……。それとも一流の使用人はこれくらいの礼儀作法が普通なのだろうか……?


 私ももう少し教養を身につけなきゃいけないかもしれないな……、メイドの失敗は主人へ恥をかかせることになるので十分肝に銘じようと思った。


「んー、私は李音様にお仕えしてから五年くらいですかねぇ」


 それまでは……全く違う人生を歩んできましたから、と薫は意味ありげに続けた。その言葉の意味や続きを聞きたかったが突然薫はピクッと何かに反応したかのように料理をする手が止まった。私は何が起きているのか理解できず、しばしフリーズする薫さんを見つめた。


「李音様が呼んでるみたい、多分揚羽さんを呼びたいのね、ちょっと見てきてもらっても良いかしら?」


 呼んでいる? 声や音は何も聞こえ無かった気がするが……?


 そういえば李音様は薫さんを呼ぶ時、必ず小さなベルを鳴らしていたっけ? あれってこんな広い屋敷の中にいたら聞こえない時もあるはずなのにどうして今、薫さんは李音様に呼ばれているってわかったんだろう? 薫さんはとても耳が良いのだろうか?


 不思議に思いながらも私は言われた通り、李音の部屋へと向かうことにした。


 部屋の前に辿り着き、深呼吸を一度して扉をノックする。するとすぐに「入れ」と声がし、扉を開けた。


「お呼びでしょうか?」


 もし、呼ばれたのが薫さんの勘違いで間違っていたらどうしようかと少しドキドキした。


「今日から正式にお前を家のメイドとして迎える」


 そこでだ、と言葉は続いた。


「お前には今日からこれをつけてもらう」


 そう言って李音は箱に入った紫色の蝶の形をしたイヤリングらしきものを机の上に置いて見せてくれた。一見イヤリングのように見えるそれは骨電動式のイヤホンらしい、これは常につけておけと念を押された。主に私や薫さんを呼び出す時に鳴らすベルの音を拾うものらしい。


「ここへ」


 近くへ来いと誘導される。私は言われるがまま近づき何とく跪いた。


 そっと耳にかかる髪を丁寧にかき分けられ優しく耳たぶに触れられる。そしてパチっと小さい音がして耳にイヤリングがつけられる。まるで何かの儀式のようで少し胸がざわついた。


「……これで正式に俺のメイドだ」


そう耳元で呟かれた。まるで子供が誰かに大切なものを取られたくないから名前をかくように、【印】をつけられたような気がした。


「要件は以上だ、下がっていいぞ」


 李音は満足そうに笑みを浮かべるとまた視線を自分の机にある書類に戻した。私はもうすぐ朝食の用意ができますのでお待ちしております、と言い残し部屋を出た。


 ふと付けられた【印】に手を伸ばす。


 耳元で静かに光輝くそれは特別な意味はないのに。薫さんだってきっと似たようなものをつけているに違いないのに、なんだか少し嬉しかった。


 でもきっとそれは私にとって『好き』とか『恋』とか『特別な意味』じゃなくて、うまく言葉にできないけれどただ本当に嬉しかったのだ。


「しばらく恋愛するのは懲り懲りだしね……」


 私は小さくそう呟き、薫さんが待つ食堂へと急いで戻った。


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