第17話 断髪

 不思議。さっきまでドス黒い感情で心が支配されていて……いつか自分でも感情がコントロール出来なくなるんじゃないかと怖かった。でも李音様の言葉で何もかも落ち着いた気がした。


 拓也のことで色々あって……もちろんまだ完全に立ち直ったわけではないけれど、でも、多分、私はもう大丈夫だ。少なくとも、もう拓也のために生きる私じゃない、今から新しい私に生まれ変わるのだ。


「やっぱり、髪、切ろうかな……」


 失恋したら髪を切る、なんてよく言うけれどせっかく伸ばした髪を切るなんてもったいないと思っていた。でも、今ならその気持ちがわかる気がする。全部無かったことにはできないけれど、せめて拓也を好きだった自分とはきちんとお別れがしたい。彼が好きだと言った長い髪の自分とはもうおさらばしたかった。


「……お前、この状況でそれ言うか?」


 李音は少し呆れたかのように笑った。それはほんの少しだけ……少しだけ子供のような無邪気な笑顔であの氷のような冷たい目つきと落差がありすぎて、いつもこんな風に笑ってればいいのに、と思ってしまった。まだ李音の手で両頬を掴まれていることもあり、そのあどけない表情から目を逸らせずにいると突然部屋にノック音が響いた。


「揚羽さん、薫です。入ってもよろしいでしょうか?」


 思わず反射的に「はい」と声がでてしまい、扉が開かれる。すると薫の目には揚羽と李音の二人、しかもはたからみれば李音が揚羽の頬を掴み、まるでキスを迫るかのような距離にいたので流石の薫も予想外の現場に鉢合わせて固まった。


 これまた李音も流石に誰かに見られることを想定していたわけではないので思ったより自分が恥ずかしいことをしていたと自覚し、驚きの表情のまま固まっている。


 揚羽はというと顔が抑えられたままなので下手に身動きが出来ず、三人の間に微妙な空気が流れた。


「えっと、何してるんですか?」


 一呼吸おいて、いつものように薫は余裕の笑みを浮かべて問いかけた。それは少し揶揄うような、笑いを堪えているかのような声色だった。


「……お前が自分で声をかけに行けと言っただろ」


 李音はムスッとあからさまに機嫌が悪くなった。それは恥ずかしさからなのか、揶揄われたことへの怒りなのかはわからなかった。


 反対に薫は、思わず出たその苦し紛れの言葉についに笑いを堪えきれずクスクスと上品に笑った。その様子を見てますます李音の眉が険しくなる。


「あら、言葉を鵜呑みにするなんて珍しいこともあるものですね」


 あーおかしい、と薫は笑いすぎてでた涙を拭い、そして首を傾げた。


「それにしても随分とお早いんですね、いつの間にこちらにいらしてたんですか?」


 まるで瞬間移動みたい、と薫はまだクスクスと笑っていた。それはとても楽しそうで、とても嬉しそうで、とても幸せそうに笑っていると揚羽は思った。


 李音はそんな薫を見てお決まりの呆れたようなため息を一つつき、揚羽の頭を指さした。


「そんな馬鹿なこと言ってないで、薫。こいつの髪、切ってやってくれないか?」


「え? こんなに綺麗な髪を切ってしまうのですか?」


「こんなに長くちゃ仕事に邪魔だろ」


「あら、李音様は女心がちっともわかってませんわ」


 薫はプクッと可愛らしく頬を膨らませてみせる。髪が邪魔なら結って差し上げますよ、と言ってくれたがどうしても今の自分とさよならしたくて私は、お願いできませんか? と口を開いた。


「あらあら、そんな可愛くおねだりされちゃったら断ることは出来ませんわ」


 薫は嬉しそうに笑うと、それじゃあ場所を移しましょうね。と部屋に備え付けてあるお風呂場の方へと誘導した。揚羽は先程取り上げられた鋏を受け取ろうと李音の元へ近寄ると、彼は後ろポッケにしまい込んだ鋏を取り出し、手渡そうとしたが何かを恐れ躊躇うかのようにすぐにまたその手を引っ込めた。


 どう言う意味なのか分からずに首を傾げていると彼は何やら独り言で、もう大丈夫だよな、と言い聞かせるように呟いた後、ようやく揚羽に鋏を手渡した。それをしっかり両手で受け取り、お礼を言ってから薫の後をついていった。


「本当に切ってもよろしいのですか?」


 薫は揚羽の長い髪に丁寧に櫛を入れながら問う。


「もし李音様に何か言われて気にされたなら私が引っ叩いて差し上げますよ?」


「あ、全然そんなんじゃないです、私が切りたいと我儘言ってるだけで……」


 このままでは李音様にあらぬ誤解が生まれてしまうと思い、あたふたと焦って否定した。薫はそんな揚羽を見て、ふむ、と一言呟きそして納得したように頷いて鋏を手に取った。


「ふふ、手先は器用な方なのでお任せください、それでは」


 一呼吸あけて、ついにチョキチョキと軽快な音を立て鋏が髪に入っていく。切り落とされた髪の毛はみな、厚みがありみるみる床に溜まっていく。頭がどんどん軽くなっていくとともに心も軽くなっていく気がした。気がつけばあっという間に腰まであった長い髪は肩にちょっとだけかかるくらいのショートヘアーへと生まれ変わっていった。


「いかがですか?」


「すごい……です。ありがとうございます!」


綺麗に整えられた髪は四年ぶりに短くしたこともあり、すごく新鮮な気持ちになった。そしてなんだか少し照れくさい気持ちになった。


「すごくお似合いです」


 薫は仕上げに毛先を綺麗に整え、最後におまじない、と言って、とてもいい匂いのするヘアオイルを塗ってくれた。ほんのりフルーツのような甘い香りがした。


 そしてテキパキと服についた髪の毛をほろい、床に落ちた髪を掃きあっという間に片付け終わってしまった。


「揚羽さん、ほら。李音様に見てもらってください」


 我ながら自信作です! と薫さんは興奮したように背中を押してくれた。私は少し照れ臭かったけど脱衣所の扉から部屋を少し覗いてみたら李音様はまだそこで佇んでいたので、勇気を出して声をかけてみた。


「あの……李音様、どう、ですか?」


 自分で問いかけた癖に本当は感想を聞くのがとても怖くて……もし、似合ってなくて微妙な顔をされたらどうしようかと、ぎゅっと目を閉じた。


「うん、そっちの方が似合ってるな」


 優しい声色に誘われて目を恐る恐る開けてみると、嘘偽りない言葉を紡ぎながら彼は優しく笑っていた。

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