第16話 再生

「……何をしている」


 耳元で聞こえた低い男の人の声に鼓膜が震え、揚羽はびっくりして我にかえった。


 長い、長い夢を見終えたかのような、そんな気分だった。胸の中の気持ちは優しくて悲しくてもどかしい、そんないくつもの感情がごちゃ混ぜになって暴れていた。すると今度は心臓までけたたましく主張してきた。あまりにも大きく鳴り止まないので落ち着かせるように息をハッと飲み込んだ。


 周りを見渡すとここは……李音様の屋敷……私の部屋だ。


「あれ……私、何をしていたんだっけ?」


 頭の中に靄がかかったかのように何も思い出せなかった。ただ手には鋏が握られていて、私は何故こんなものを持っているのか状況が飲み込めずにいた。……というか、私の手に添えられてるこの手は一体誰の手?


 鋏を握っている手に覆い被せるように、––––まるで何かを静止するかのように重ねられた男の手が見えた。そして背中にこの手の持ち主の体温が伝わってくる。どうやら背後から抱きしめるような形で覆い被さられているらしい。その手は少し震えていた。一瞬グッと強い力で手を押し返されびっくりして思わず鋏を床へと落としてしまった。


 ガシャンと金属が床に叩きつけられる音が響くまで、息をするのを忘れた。


 恐る恐る隣を見ると、綺麗な茶髪の長い髪と紫色の瞳が見えキッとこちらを睨んでいた。まるでどこか遠いところから駆け付けたかのように息が少し乱れている。


「李音……さま?」


 どうしてこの場に彼がいるのだろう?


 何度見てもここは自分の自室で、さっき彼とは別れたばかりだ。しかも彼の自室と私の自室は三階と二階で分かれていて距離もある。状況が何一つ飲み込めないまま固まっているとやがて李音は安堵したかのようにため息を一つついてようやく握っていた手を解放してくれた。背中にあたる温もりもやがて離れ、李音は床に落ちた鋏を拾い上げた。


「……これは没収だ。部屋に刃物を持ち込むんじゃない」


「あ……すみません、髪を、切ろうかと……思いまして」


 その後に続く、多分? という疑問の言葉はそっと飲み込んだ。本当に何も覚えていないのだ。でも鋏を持っていたと言うことはきっと何かを切ろうとしていたのだろう。


「その……悪かった」


 彼はバツが悪そうに頬を小さくかいた。私は何に対して謝られているのかわからず首を傾げた。


「さっきの言葉、キツかったんだろ……逃げ出したくなるくらい……」


 逃げ出す、その言葉に一瞬ドキッと心臓が高鳴った気がした。さっきまで私の心を支配していたドス黒い気持ちを全て見透かされたような気がして少し怖かった。


「そんなこと、ありません」


 声が自然と震えた、別に李音様が悪いわけじゃない、そんなのわかってる。


 勝手に「足手纏い」とか「必要ない」とか「みっともない」とかそんなありふれた言葉を過去の父が言った言葉と重ねてしまっただけ。私が勝手に傷ついただけ……、私が、弱いだけ……。


「……言い訳するわけじゃない、けど、最初に言っておく」


 彼はそう言って真っ直ぐに私の目を見つめてきたので思わず目を逸らしてしまう。なんだか面と向かって顔向けできないような気がした。何かやましいことをしたわけではないのに酷く心がざわついた。


するとその態度を見て李音はムカついたのか、グイッと揚羽の頬に両手を添え、自分の方へ無理矢理向き直させる。


––––もう、この目から視線をそらせなかった。


「俺はお前が思ってる以上に口が悪い、絶対これから先もお前を傷つける、だからいちいち傷つくな」


これは、励ましているつもりなのだろうか……? それとも単に怒られているのだろうか……? どっちなのかわからなかった……。


「悔しいと思ったら言い返してみろ、悲しいと思ったら怒って見せろ、お前の感情をもっと出せ!」


 どうやら励ましてくれているみたいだ、めちゃくちゃだけど……。


「言っておくけどお前の仕事は明日から山ほどある。恋人に用済みにされたのかなんだか知らないが、俺にはお前が必要だ」


 今サラッと酷いこと言ったよね? 確かに言っちゃえば拓也に用済みにされたけど、本人目の前にそんなにハッキリ言うんだ……。


 でも、目をそらせないからこそわかる。この人は嘘偽りは言っていない。言葉には確かにトゲがあるけど悪意を全然感じない、きちんと向き合って私に言葉をかけてくれている。


 さっきだって思い返せば私の身を案じていてくれたり、体調を気遣ったりしてくれていたのに、なんで悪い言葉ばかり捉えてしまったのだろう? ちゃんとこの人は私をモノとしてじゃなくて人間として向き合ってくれている……。言葉では俺の所有物、なんて言ってたけどそんなのただの言葉の綾で本心じゃないと今わかった。


 むしろ私をモノのように扱っていたのはきっと拓也の方だったんだ。


 私はまだこの人に……李音様に何一つ恩返しができていないのに……誠意を何一つ見せていないのに……、自分が今しんどいから逃げ出そうだなんて、そんな都合のいい話、あって言い訳がない……!


「お前はこれから、俺のために生きるんだ。お前が前に進むために何か理由が欲しけりゃいくらでも与えてやる」


 私はゆっくり目を見開いた。


 彼にとって特別な意味などない言葉なのかもしれない。


 でも、それでいいのだ。ただ、愛されたいとか、愛したいとか、そこに複雑な感情はもう何一ついらない。


––––ただ弱い私には、生きる理由が必要なだけ


「はい」


––––もう私は自分が幸せになるために生きるのではく、今度はこの人のために、この人を幸せにするためにもう一度生きてみようと思った。

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