第8話 泡沫

 自分だけ言いたいことを全部ぶち撒けて、拓也は振り返ることなく背中を向けて歩き出した。


––––本当に、行ってしまうッ! 私の全てをかけてでも失いたくなかった人が消えてしまう


「……待、って!」


 ようやく絞り出せた声は嗚咽と涙が混じり酷く掠れてて、拓也の耳に届かなかったらどうしようかと思うくらい弱々しくて今にも消えてしまいそうなものだった。


 しかし歩き出してまだ距離が近かったせいか彼はその声に反応し、ゆっくりと振り返る。


「つ、付き……合……、う、時、わ……たし、に、言……って……くれ、た……言葉……お、ぼえ……て、る?」


 泣き顔は見せまいと歯を食いしばって頑張っていたが、言葉と共に涙が溢れて溢れてとまらなかった。上手く言葉を喋れないし、上手く息を吸うことができなくて二人には酷く見苦しい姿を晒しているに違いない。


 でも今きちんと聞いておかないと一生後悔するような気がしたから、どんなに惨めでも例えどんな答えが返ってこようとも受け止めなくては前に進めない。私は一生このドス黒い気持ちに囚われて生きていかねばならない、それだけは絶対に避けたかった。


 拓也は揚羽の言葉を最後までじっと逃さずに聞いて、少し間を置き、静かに目を閉じた。


 お願い……どうか、思い出さないで。そんなの忘れたよって冷たく突き放して。もう……これ以上、私の気持ちを縛らないで……解放して……。そうでないと、私は一生貴方に気持ちを囚われたまま生きていかなければならなくなるから––––


「……君はこのまま一人で閉じこもって、一生蛹のままでいるのか?」


 拓也はまるで舞台に立った一人役者のように、言葉に感情を込めて喋り出す。


「君は一人じゃない。君は絶対綺麗な蝶になれる」


 一つ一つの言葉を噛み締めながらゆっくりと


「だからその時が来るまで、側にいさせてもらえないかな? ……好きだよ」


 サァァァァっと風が吹き、揚羽の漆黒の髪をさらう。


「な……んで、覚え、て……る、の……?」


 胸がもっともっと締め付けられる。


––––あの日、私を救ってくれた言葉。


 何もかも捨てて消えてしまいたくて、でも消える勇気もなくて、そんな私をそっと優しく包み込んでくれた言葉。


 私は暗闇の中をずっとお母さんと一緒に歩いてきてて、でも突然一人にされて、どうしようもなくて光を見失って迷っていたら貴方が照らしてくれた。貴方が一緒にいてくれると、傍にいてくれると言ったからまた進んで来れた。


 でも、今日貴方とはお別れしなくちゃいけなくて––––また私、一人ぼっちになるの……?


「……これで満足か?」


 先ほどの熱く情熱的な感情から一変して、また上辺だけの貼り付けたような笑顔で拓也は笑う。


「今度こそ、じゃあな、行くぞ、綾乃」


「……はーい」


 私達の一連のやり取りを黙って見ていた女は少しだけ不愉快そうに返事をする。コツコツとリズミカルにヒールの音をたて綺麗に整備されたタイルの上を歩き、拓也の後を追いかけようとしたが、最後に何かを思い出したかのようにクルリと振り返り、揚羽の元に駆け寄った。


「はい、私から揚羽ちゃんへ結婚資金出してくれたお返し」


 女は意味ありげに妖艶に微笑むと、揚羽の左手をそっと取り先ほど食べてみせた透明なキャンディーの包みを一つ握らせた。動くたびに女から香るバラ科の強い香水のような匂いに思わずむせ返り、俯いてゴホゴホと咳き込んでる間に拓也と女はこの場を立ち去ってしまったようだった。


 お金を取り戻すために二人を追いかけようとは思わなかった。これ以上惨めで悲しい想いをしたくなかったし、あの二人をこれ以上見ているのは辛すぎた。


「……お幸せに」


––––私が、私が全てをかけて守りたかったものはこんなにも脆く崩れやすく安っぽい愛だったのか。我ながら馬鹿だ、大馬鹿者だ。最初から……最初からわかっていたのに。男の人なんて信じちゃいけないって。


 私の父親が、ううん、あんなの父親ですらない。あんなクズ男を見てきてるんだから、男なんて信じちゃダメだったのに……


「幸せになれるって……信じてたのに……ッ!」


––––本当に何もかも失った。


 大好きだった母も、全てをかけて愛した人も。残ったのはもう人間ひとではない、ただの所有物ガラクタな自分だけだった

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