第7話 奈落の底

 キスを交わし続ける二人の荒い吐息はまるで盛った動物のようだった。酷く下品で嫌悪と吐き気がごちゃ混ぜに襲ってきて呼吸が荒く苦しくなった。


「もう、がっつきすぎ」


 ケラケラと綺麗な顔立ちに似合わない下品な笑い声が頭に響き、さらに心の中をぐちゃぐちゃにした。一体何が起こっているの…? ドクンドクンッと心臓の鼓動が速くなり、さらに呼吸が荒くなるのを感じた。


 落ち着け、落ち着け……。胸の前でぎゅっと握った右手の震えを抑えるかのように左手で包み込む。突然予想もしていなかった出来事に言葉を失い、立ち尽くしているとその様子に女がようやく気付いたようだった。美しく手入れされた指先で揚羽のことを指し示すと、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。


「あぁ、揚羽。来てくれたんだな」


 悪びれる様子もなく、拓也はこっちにおいでと言うように手招きをした。ゾクリッと背中に悪寒が走り、一瞬この場から逃げてしまおうか考えたが全く体を動かすことができず、まるで足に根が生えてしまったかのようにその場に立ち尽くしていた。


 しばし放心状態の揚羽を見つめ、あ、と何かに気づいた様子で頷いた後、腰をおろしていたベンチから立ち上がり、そのまま女へ手を差し伸べ立ち上がらせると二人は揚羽の方へと近づいてきた。


「お金、用意できたんだって? マジサンキューな、やっぱり揚羽に頼って正解だったよ」


「へぇー、近くで見ると小動物みたいで案外かーわいい、揚羽ちゃん初めましてー」


 2人に交互に詰め寄られて何から答えればいいのか、反対に何から質問すればいいのか頭の中がパニックになった。いつまでたっても何も答えない私を見かねて拓也は一つ大きなため息をついて心底面倒臭そうに隣の美女の肩を抱きしめ


「俺たち、結婚するんだ」


 と耳を疑う一言を吐き捨てた。


 そういえば昨日変な文脈のメッセージに【結婚する】と書かれていて、どう言う意味なのか疑問を覚えたのを思い出した。


––––つまり、それは私と付き合いながらこの女の人と浮気をしていたってこと……?


 拓也の心無い一言で、すでに私の心はズタズタに傷ついていたが、追い打ちをかけるかのように女はニタニタと下品な笑みを浮かべながら信じられない言葉を口にした。


「私たちの結婚資金、わざわざくれるなんてありがとうね」


 けっ……こん……しき……ん?


 あれ……? 拓也は確か私に『親父の残した借金なんだ』『用意できないなら臓器でもなんでも売ってこいって』『お願いだ、助けてくれ』ってお願いされて……。だから私は必死にお金を用意して……。


––––それなのに


「お前、昔母親が死んだ時に金たくさんもらったんだろ?」


––––やめて


「俺、こいつと結婚するのに、どうしても金が必要でさ」


––––そんなの聞きたくない


「俺、お前よりこいつ……綾乃がいないとダメになっちゃってさ」


––––これは拓也の本心なんかじゃ……


「だから今日でお前とはお別れだ」


 一つの未練もない、清々しい顔で拓也はただ笑った。


––––なんでそんなに悪びれる様子もなくいられるの?


 明らかに拓也のやっていることは犯罪で彼は罰を受けるべき人間なのに悔しいことに私は何も言い返せなかった。私は、お金なんて本当に持っていなかった。母が死んだ時、確かに多額の保険金が入ったけどそれは父親が残した借金に全額使ってしまった。母は父の尻拭いをさせられただけなのだ。


「それじゃ、俺たちはもう行くよ」


 お前はもう用済みだからさ、と吐き捨てられた。これが……これが全部夢だったらよかったのに……。

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