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ヲトブソラ

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 きみが生まれてきてくれて、よかった。


 そんな事を言った覚えがある。その気持ちはうそではなかった。だけども、きみと離ればなれになることを選択したぼくらに、その言葉はなにを意味していたのだろう。そんな事を考えて自嘲する時がある。ぼくらが過ごした九十三ヶ月のうちの四十八ヶ月は寝食をともにした時間で、永遠に続くのだと思っていた暮らしは三ヶ月前に終わった。


 泣きながら夏には出ていくと言ったきみを、ぼくらはずるずると冬にまで引き留める。それは、ただ時間だけがだらしなく過ぎただけで、きちんと背筋を正して向かい合うことをせずに終わった。半分だけ広くなってしまった部屋に後悔なんてしていない。嬉しくも、ない。まだ実感がわかない。ただ涙がとまらないときがある。それだけをともに過ごしている三ヶ月。


 駅までスクーターで走る川に沿う堤の上に続く道。右手に並ぶ、エレベーターの無い四階建ての団地や古いマンションに新鮮な陽があたり、きらきらとかがやいている。


 あの日から九十六日目の今日が始まったのだ。


 団地のベランダには帰ってくる場所を見失わないための旗として、洗濯物や布団が干されていく。九十六日前からぼくにない目印だ。きみが出ていって十四回目の土曜日、出ていったままにしていた、やや散らかった部屋を片付けることにした。思えば掃除も三ヶ月していないし、夕食もこの部屋で三ヶ月も食べていない。朝起きて、部屋を出て、仕事をして、夕食を外で済まし、帰ってきて、お風呂に入って、寝る。それだけの場所、それだけの日。そう過ごすことで、部屋にいる時間を少なくしておかないと、きみとの日を思い出してつらくなるだろうから、そうしている。


 その日は古くからの友人が夕食をともにしたいと言ってきたから、いつものうるさい定食屋に入った。そいつがぼくの顔を見るなり、睡眠時間や健康状態、はたまた食欲の有無まで心配してくれる。寝ているし、体調も崩していない、朝はヨーグルトとバナナ。昼は社食、夜は九十九日間ここで食べている。だから大丈夫、だと思う。ため息を吐く友人が、ため息を取り戻すように生ビールを飲み込んだ。今日、彼に会ったのは、ぼくも彼にひとつ訊ねたいことがあったからだ。それはきみの生年月日を知らないかということ。訝しげな顔でぼくを見ながら枝豆を食べる友人に、あるトランクケースの存在を打ち明けた。


 わたしに何かあったら、これを開けるといいよ。


 意地悪な笑顔でそう言って部屋の奥の奥に置いていったっきり、忘れていたトランケースが出てきて、その鍵の番号がわからずに開けることができない。話せば話すほど友人は呆れかえり、ぼくの“そういうところ”が駄目だったんだ、と、叱ってくれる。


 きみが生まれてきてくれて、よかった。


 こんなことを言葉というかたちにして、きみに伝えてもいい心の持ち主なんかではなかったのだ。


 きみのいない百十八日目の土曜日。ぼくの目の前にいるトランクケースは、ぼくときみの秘密に、意地悪をし続け邪魔をする存在となっている。たった四桁。きみはぼくが知らないような数字を設定するまで意地悪な性格じゃない。その数字に見当がつかないぼくのほうが意地悪だ。トランクケースを振ってみると中からはちいさななにかと、紙の束と思わしきものの音がした。


 両手を後ろについて、お手上げと天井を見上げる。開けたベランダの戸から初夏の匂いが入ってきた。目を閉じると大型連休をどう過ごそうかとはしゃぐきみの声が聞こえてくる。桜はもう散ったけれど、毎年、夜に川沿いの桜並木を手をつないで歩いたときの、きみの頰に咲いた桜色はまだ咲いている。葉桜につく毛虫が嫌いだったな。梅雨に入ると相合傘をしたがって、よく互いの肩を濡らした。そのくせ、すぐに風邪をひくから看病をする夜。エアコンは身体が冷えるからきらいと、ふたりで汗をかいて風鈴の音で過ごして、夜にはたくさんビールを飲む姿しか浮かばない。身体を冷やすとよくない、でもビールは別なんだよって、なんだろうね。雷が大嫌い、台風の風の音が嫌い、お化けも嫌い、虫はもっと嫌い。色づく葉が好きで遊歩道を見上げて歩くから、よくつまずいていた。焼き芋の匂いをたどって、お店を見つけられる天才。毎月、わざとポストにラブレターを投函して驚かせようとしたぼくを、逆に笑顔と涙で惚れさせる天才。雪がちらつき始めると子どもみたい喜ぶくせに、寒いのは苦手だから天気予報士に言う悪口のセンスも天才だった。


 いつも一緒に起きて、歯を磨いて、ご飯を食べて、たまに狭いお風呂にも一緒に入って、腕枕をしないと寝てくれない。いくら、ぼくが疲れていても、怖い夢を見ると起こしてくる。寝転がって楽しみにしていた本を読んでいると背中に乗ってくるし、テレビゲームの邪魔もする。


 ぼくを夢中にさせる、天才。

 ぼくはきみの想いに安心しきっていた、天才。


 楽しいことだけを食べて、大切なことを栄養として吸収しなかったから、きみの生まれた日すら覚えていない。


 駅までスクーターで走る川に沿う堤の上に続く道。左手にエレベーターの無い四階建ての団地や古いマンションには、ぼくらが叶えつづけられなかった温かな灯りが、いくつも闇に浮かんでいる。


 どうか、あなたたちはそのまま燈をたやさないで。ぼくが見られなかった未来を見にいって。お願いだから、自ら壊すようなことはしないで。


 今日も四桁の数字ときみの表情たち、布団の温もりだけを抱いて、二百十四回目の夜を越える。


 おやすみなさい。


おわり。


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