第2話
闘技場に惜しげもなく使われている香木の、樹液を凝縮したような甘い香りが私の鼻をくすぐる。
これまでは戦いに夢中で香りを楽しむことができなかったが、いまは楽しめている。
ハリア様もお楽しみになられておられるだろうか。
私は自分の先をお行きになられるハリア様の
半日経てばハリア様も儀式として御髪にはさみを入れられ、ご当主様となられる。
ご当主様が御髪を短く整えられるのはラヤ様から続くしきたりだ。
ハリア様がご当主様となられれば、百人にも及ぶ一族の生活をお守りになられ、有力者や政治家が集まる社交場にもご参加されるなど、忙しい日々をお送りになられる。
「さっきからわたしの頭を見てるように思うんだけど、何かある?」
とハリア様が振り返られてお笑いになる。
ご当主様となれば正しいお言葉遣いをなさらなければならないが、それまでは砕けたことばをお遣いになられたいのかもしれない。
「失礼いたしました」
と私は答える。
「髪を短くしたらどうなるか、気になったのか。ご六代様ほどじゃないかもしれないけど、短くても似合うと思うよ?」
とハリア様が御手で御髪をすかれた。
ハリア様のお姿があまりにもラヤ様に似ていて、私はことばを失い、立ちつくした。
くらべるのは失礼なことだと思い、押し殺してきた感情だったというのに。
ハリア様がおどろいたようなお顔をされた後、お笑いになられた。
「仕草がご六代様に似てた? ノマは本当にご六代様が好きだよね」
とおからかいになられてハリア様がおっしゃられる。
「はい、好きです」
と私は誇りを持っていった。
忘れられようか、長くともにいた私の大切なお方を。
ラヤ様、と私はここにいないお方へと心のなかでつぶやく。
あなたのご遺言である、歴代の主を守れ、というおことばを、微力ながら守り続けています。
つぶやくのと同時に、私はラヤ様の朗らかな笑顔を思い出す。
お優しさとお強さを併せ持たれた、生命力にあふれられたお方。
私の胸が鋭く痛んだ。思い出すつらさから自分が壊れていくというのに、私は思い出すことをやめられない。
私が過去を懐かしく思っていると感じたのだろう、
「ノマは情熱家だなぁ」
とまたもおからかいになられてハリア様がおっしゃられる。ハリア様にとって私はからかがいのある存在になっているらしい。
ハリア様がお生まれになられたときから存じ上げている身からすると、よくお泣きになっていたお方が背伸びをして私をおからかいになるので、ほほえましいと思える。
「他のご当主様から何もいわれなかった?」
胸の痛みが引いていくのを感じながら、私は肩をすくめてハリア様のご質問にお答えした。
「どういう問いかわかりかねますが、皆様私を楽しそうにおからかいになられます」
「だよね」
とハリア様がお笑いになられた。お笑いになるハリア様のなかにさえ、私はラヤ様のお姿を見てしまった。
「ご六代様は本当に偉大な方だもんね。戦で一族の男が死んでしまって、まるでいなくなったときにご当主様になって、没落しかけた家を立て直されたんだから」
と過去の事柄をご確認されながらハリア様がおっしゃられた。
ラヤ様は倹約を旨として破綻しかけた家をお正しになられた。また、女性だけで幾度も戦場でお勝ちになり、一族同士のいさかいをやめさせるなど数々の偉業を成し遂げられた。
私の思考を寸断するように、ハリア様がご自身の御目の前に御手を持ってこられ、お強く握られる。
「わたしもがんばる」
「おひとりでお背負いになられないでください」
ご決意を新たにされるハリア様を見、私は頼もしく思いながら優しくいう。
「ハリア様にはお母上もお父上も、ノバノ様もおられます。そして微力ながら私も。決しておひとりではありません」
「ありがとう。頼りたいときは頼らせてもらう」
とハリア様がご安心なされたようにお笑いになった。私もハリア様のご様子に安堵しながら微笑む。
「早く控室に戻ろう。お腹すいちゃったね」
とハリア様がお歩きになり、私も後に続く。
ハリア様のご決意に私はラヤ様のお姿を重ねていた。
急にラヤ様のお声が私の耳朶を打った。胸の痛みを連れてきながら。
私とラヤ様だけのときには、ラヤ様がお優しいご表情とよくお通りになられるお声で、私にお語りになられた。
ラヤ様がよく私にお話ししてくださったのは、地形とイーライル家の成り立ちだった。
エスペルト連邦共和国がまだ独立した十三の国だったころにラヤ様から話を伺った。エスペルトの北西にあったのがマハク王国で、マハク王国のなかでもさらに西にあるのがラジン山だともおっしゃり、地図がなくとも私にも理解できた。
マハク王国はかつて男性が優位に立っていたが、ラジン山の麓はマハク王国のなかでも女性の地位が高かったのだという。
女性の地位が高かったのは、山を祭る神官は女性が務められるというのが理由にある。他の国と違い、エスペルトでは八百万いる神に仕える人を男女の隔てなく神官と呼ぶ、ともラヤ様がお教えくださった。
ラジン山の山頂で暮らす神官を守るのがイーライル家だった。
神官は生涯独身を貫くため、男性では神官と男性が恋に落ちてしまう、というので女性が神官の身辺を守ったという。
神官にも好みがあるし、男性にも好みがある、まして女性同士で恋に落ちることがないわけではないのに、とラヤ様が朗らかにお笑いになっておられたな。
私には弱音をおっしゃられず、お隠れになるまでラヤ様は誇り高くご当主様であり続けられた。
いや、ラヤ様だけではない、と私は思い直す。何人ものご当主様の涙と汗を希望と活力に変えて、イーライル家は世間という名の荒波を、一隻の船のように渡ってきた。
世間の波を渡り続けるいま、マハクはエスペルト連邦共和国の十三ある州のひとつとなっているし、イーライル家は神官の護衛はできていない。
特殊な事情を抱えた土地の警護や、州をまたいだ犯罪、または人形に関する犯罪を取り締まる連邦警察が神官を守るようになってしまっている、と私は悔しくなる。
イーライル家の方々は軍人になるか、マハク内の犯罪を取り締まるマハク州警察に入るようになった。あるいは傭兵として他国に出ることもある。
苦難があろうとも、私は何人ものご当主様に仕え、多くのイーライル家の方々に関われて本当に幸せだ。ハリア様のもと、イーライル家の繁栄が続いていくと私は信じている。
歩きながら私は心を弾ませた。誇らしい儀式の瞬間まで後半日だ、と。
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