永遠に口づけを第6話
おれの住むエスペルトの首都、エスペルラには冬がやってきていた。エスペルラはマイスより北東にあるから、寒さがこたえるなぁ。
おれのいる小さな料亭の調理場も、冷たい空気が流れてくる。おれは寒さに負けないように、丁寧に根菜を洗ってる。
ティマトが警察に捕まって、もう三ヵ月が経つ。
騒動のすぐ後、町の詰所でルディアとヴィルハルトがおれたちに軽く事情をたずねるふりをして、ティマトの罪を警察に知らせた人のことを教えてくれた。
警察に知らせたのは、マーシャだった。マーシャはマイスの町内に住んでいて、町のうわさでティマトが違法に人形を持ってるんじゃないかってことを聞いたらしい。うわさの通りなら、ティマトに罪を償ってほしい、と願って警察に話したそうだ。
マーシャのことばを受けて、ルディアとヴィルハルトは酒場で働くふりをしながら自分たちをティマトの目にとまるように仕向けたんだって、いってたな。
ルディアとヴィルハルトはともかく、マーシャの行動も愛な気がするな、おれ。
ただ、仲良くするだけが愛じゃないんだ。
おれとイリスが選んだ道みたいに。
話を聞いた後、警官たちと別れて、おれとイリスはエスペルラの研修所に列車で送られた。研修所に着くまで、一週間かかったな。
イリスと二人きりならよかったんだけど、お役人が二人、おれとイリスに付き添ってた。
移動した先では二ヵ月間、世界や人について、文字や常識についての研修を、イリスと一緒に受けた。
人がどれほど恐ろしくて、ずるい生き物かを研修で習ったけれど、おれは人が憎みきれなかった。ティマトのうなだれた姿を見てるから。
ティマトがいたから、おれとイリスは出会えたんだ。どうやって、ティマトを憎み続けるっていうんだって、心のなかで叫び、おれは研修を過ごした。
研修が終わってからおれは料亭で働くことになった。おれみたいな剣闘士型は本当なら軍隊に行くんだけど、慣れてる仕事をしたほうがいいってことになった。イリスとさよならを交わすこともないままだった。
料亭では女将さんを合わせて五人が働いてる。皆気がよくて、優しい。給料は出ないけど、出ても使い道がわからないからいいや。
ここにいて幸せだな、と思うけれど、誰にでもなく怒りがこみあげてくる。
怒りに負けないように、おれは昔を思い出しながら根菜を洗い続ける。
根菜を洗っていると、根菜から水滴が落ちていくのが見えた。
おれは弾けるように、ティマトが流した涙を思い出す。行かせない、とおれたちを懸命に止めたティマトの姿を。
ルディアとヴィルハルトに捕まった後、ティマトは裁判にかけられるのを待ってる。罪は人形の不法入手と不法所持、不法投棄、虐待。おれたちを養子だと偽ったこと、魔法士と組み、イリスの記憶を操ったこと、イリスの禁止事項をなくしてしまったことだった。
世間はティマトのことを奇妙な目で見ているらしい。料亭にやって来る客が、珍妙なじいさんだ、年をとってもああはなりたくない、とうわさする。
ほうっておいてやればいいのに、と思いながらおれは店の仕事をこなすしかなかった。
事件に関係してるとばれるわけなはいかないから、ティマトをかばうことさえできない。
おっと、いけない。手が動いてないぞ。根菜を洗わなきゃ、と自分を奮い立たせてもうまくいかなくて、おれは根菜を洗いながら、イリスのことを懐かしく思おうとした。
イリスが送られたのは人形用の療養所だった。そこで禁止事項を外されてしまった人形たちと残りの日々を過ごすんだという。
イリスの日々がせめて、穏やかであってほしいとおれは思う。いいだろ、のんびりしたってさ、とおれは強がって思ってみたけど、うまくいかなかった。納得できなかったから。やりきれない、という思いが強い。
イリスとは手紙のやりとりもしてない。療養所に行った人形は、外のものとは関わらないって、研修で習った。会うことさえ、もうできない。
ひどい話じゃないか。イリスがこれからずっと狭い世界で生きていかなきゃいけないんだと思うと、悲しかった。
ちくしょう、と叫ぶのをおれはこらえる。
ティマトのことも、イリスのことも、うまく割り切ることができない。
もしおれがイリスに会いに行こうとすれば、イリスが悲しむ。おれたちが会えばきっと、おれの石を痛めてしまうって思うから。
世の中に対する怒りが体中を駆け巡ってしまいそうになる。誰にでも当たり散らしたいような気持ちにすらなった。
おれは怒っちゃだめだ、と自分に言い聞かせた。おれの胸が鋭く痛む。
だめだ、怒っちゃだめだ、おれ。当たり散らすことや、復讐もだめだ。
おれが誰かを傷つけたりしたら、イリスが悲しむ。おれはイリスを悲しませたりしない。
おれは根菜にも復讐しないぞ。根菜を作った人もこれから食べる人もいるんだしな。
おれは息を吐いて胸の痛みをこらえ、根菜を丁寧に洗う。水は冷たいけど、怒りで火照る手にはちょうどいい。
火照った手のまま、おれは根菜を洗い終え、女将さんに休憩するといい、店の外に出る。
店の外には四方を白色の壁に囲まれた小さな一画がある。真ん中には井戸もあった。おれは怒りが強かったり、落ち込んだりしたら、ここにやってくる。
井戸までやってきたおれの耳に、馬車馬のいななきや、人の声が響いてきた。街中を走る列車の音も聞こえた。
マイスにいたころからは想像できないぐらい、エスペルラはいろんな音がする。
おれは大きく息を吐く。
吐息で、目の前がちょっとだけ白くなる。
いろんなことを思い出しちゃったなぁ。
おれは空を見上げた。
空はうそみたいに真っ青だ。ティマトのところにいたときには見られなかった目の前いっぱいの空だった。
ふと、おれは自分が泣いていることに気がついた。
気がついた途端、おれのなかで会いたい、ということばが出てくる。
会いたいよ、イリス。
潔く遠くから見守るよ、と誓えたらどんなにいいか。だけど、おれにはできない。
おれはイリスに会いたい。
別れると決めたはずなのに、皆の前で別れるといったはずなのに、おれは心のなかでイリスの姿を探す。はにかんだイリスの笑顔に会いたい、と心が叫ぶ。
笑顔に会いたいだけか、とおれは自分自身に問いかける。いや違う、笑顔だけじゃない。
暖炉に照らされて、民話に聞き入ったときの真剣なイリスの表情。
朝、おはようとあいさつするときの、ちょっと眠たそうな顔も見たい。
いとおしい気持ちが心のなかで大きくなる。
イリスの優しい声が聞きたい。おれの作った料理を食べて、味のことを話す声が聞きたい。
イリスと一緒に暮らしてからの日々が全部忘れられないんだ、いとおしくて仕方ないんだ。愛って、思いやるだけじゃないんだな。
おれは空の下で、涙をこぼし続ける。
空も、イリスと一緒に見たかった。
会いに行くことさえ許されないというのなら、手紙ですら出すのを許されないなら、おれはイリスとの思い出だけで生きていくしかないのか。
人間みたいに、夢が見られたらいいのに、とさえおれには思える。
人間は眠るとき、夢というものを見ているんだって研修でいってた。人形は夢を見ないんだって習って初めて知った。
夢は心躍るものから悪夢までいろいろあるけど、いとしい人のことを見る場合もあるって研修でいってたな。
ああ、おれは思いつめちゃってるんだな。見えもしない、夢にさえすがりたい。
夢は何でもし放題だっていうし。
夢が見られたら、か。
もし夢が見られたところで、本当のイリスには会えない。
おれは、何もかもが取り上げられているような、ひどくむなしくて、みじめな気持ちになってくる。
ならせめて、とおれは思う。
たったひとつ、取り上げられないものがほしい。
たったひとつ、取り上げられないもの。そうだ、おれは眠って見る夢じゃなくて、叶えられる夢を見るんだ。
夢、ということばと同時に頭のなかでイリスの笑顔が弾けた。
思いついたぞ、おれの思いの石が砕け散るとき、イリスの笑顔だけを思い浮かべるのはどうだろう。
おれは口のなかで、どうか、と繰り返す。
どうか夢がかないますように、誰も邪魔しませんように、と。誰にも奪わせない、おれだけの夢なんだ。
夢が決まるとおれの思いは定まる。
弱音はもういらない。背筋を伸ばして、生きていくんだ。
おれの耳に休憩の終わりを知らせる、女将さんの声が入った。おれは声に返事をして、涙を乱暴に手で拭き、現実へと帰る。
おれの頬を、冷たい冬の風が優しくなでていった。
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