第23話 磐余の池(2)

 磐余いわれいけ跡の解説板のあるところまで行きました。

 これは……と感じたのは。

 まず、一つはここは河川交通のための池ではなさそうだ、ということでした。

 だいたい、あとで調べてみると、飛鳥あすかがわとは水系が違います。

 飛鳥川の一つ上流で大和川から分岐する寺川てらかわという川があって、その寺川の水系にあたります。

 だから、飛鳥川の水運を使うなら、ここには到達しない。

 河川は付け替えが行われるので、はっきり言えないところもありますが。

 また、地形的には、たしかに低地ではあるのですが、このあたりでいちばんの低地というわけではなさそうです。

 なんかねぇ……。

 地図で見ていたのとはだいぶ印象が違います。

 解説板には、現在の地形に合わせて、そこに池の水がたまっている再現図も描かれているのですが。

 どっちかというと、山際やまぎわのダム湖的な感じがします。

 最近の言いかたで言う「里山ダム」?

 したがって、磐余の池は、その寺川の支流の上流をせき止めて造営した池ということになるんじゃないだろうか?

 では、もし「港」でないとしたら、なぜここに古代大和王権は池を造営したのか?

 この池は履中りちゅう天皇のころには存在したとされ、履中天皇の宮はこの磐余の池のほとりに置かれていた、ということです。

 履中天皇(去来いざわけのみこと)は白香しらかひめのひいおじいさんにあたります。

 また、おお鷦鷯さざきのみこと仁徳にんとく天皇の嫡出の長男でもあります。

 仁徳天皇は、現在の大阪府で、難波なにわの「堀江ほりえ」を開削かいさくし、現在の淀川よどがわの治水のために「茨田まんだつつみ」を築造した大王です。

 履中天皇は、その大土木工事の伝統を引き継いで、または、その大土木工事を実行した集団(現代的にいうと官立ゼネコン大手?)を引き継いだ大王として、この磐余の池を造営したのか?

 だとすると、河川の港として活用するよりは、この下流に流れていく水をコントロールすることで、王権にとって重要だった現在の橿原かしはら市付近を田畑として開拓することにあったのではないか?

 この磐余という土地は、飛鳥ほど有名ではありませんが、古代王権にとって重要な土地です。

 だいたい、神武じんむ天皇が即位したのは磐余よりも西の橿原とされていますが、その名は「かむ日本やまと磐余いわれひこのみこと」で「磐余」の地名が入っています。また、履中天皇の後も、この池の近くに大王の宮が造営されました。

 そのあと、王権の中心地は、磐余の南の飛鳥に移っていくのですが、王権発祥の地である纏向まきむく周辺と飛鳥をつなぐ場所としても、また飛鳥と泊瀬はつせ方面をつなぐ場所としても磐余は重要だったはずです。また、磐余のすぐ西が藤原で、後にそこに藤原京が造営されます。

 王の都の産業を振興するために造営し、王家の儀式にも活用したのが、この池だったのではないのかな?

 ……ですが、小説のほうでは「港」ということにしているので、その設定はそのままで行きます。

 ところで。

 姫が、磐余の池で船を下りて歩くのが遠かった、と言っているのですが。

 行き先であった清寧せいねい天皇(白髪しらか大王のおおきみ)の「磐余いわれ甕栗みかくりのみや」は池のすぐ横なので。

 あんまり遠くはないですけどね。

 まあ、坂を上らなければいけないし、姫も幼かったからたいへんだった、ということかな?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る