第22話 磐余の池(1)

 電車は纏向まきむく遺跡を通り、箸墓はしはか古墳のすぐ近くを通り抜けます。

 ただ、近くを通るので、かえって全体が見渡しにくく、巨大古墳を遠くから見たときの印象とはやはり違っている感じはしました。

 三輪みわは三輪神社(大神おおみわ神社)の最寄り駅なのですが、今回は下車せずに通り過ぎます。

 三輪の次が桜井です。纏向遺跡から大和おおやまと神社のあたりまでが「三輪山の北」だったのに対して、ここからは「三輪山の南」です。

 万葉まほろば線は桜井から西に向かいます。ここは近鉄大阪線との乗換駅になっていて、近鉄大阪線はそのまま東へと続いて行きます。

 その近鉄大阪線では、桜井駅の次が大和朝倉あさくら駅です。上本町うえほんまち方面からの準急・区間準急の行き先駅となっている駅です。

 この朝倉が、雄略ゆうりゃく天皇(ワカタケル大王)の「泊瀬はつせ朝倉あさくらのみや」のあった場所です。稲荷山いなりやま鉄剣に書かれている「シキの宮」がここなのかも知れません。

 この泊瀬の谷に入って行く地域も、古代大和王権が重視した場所で、初期の前方後円墳のうち、桜井茶臼ちゃうすやま古墳とメスリやま古墳があります。その時代からワカタケル大王の時代まで、さらにそのあとの時代も、三輪山の南の谷筋は重視されたわけです。

 なお、前に出て来た田原本たわらもととこの桜井のあいだには、かつて大和やまと鉄道という会社の路線がありました。現在は廃線ですが、田原本から先は近鉄線として現在も営業しています。

 今回は、ワカタケル大王の宮殿のほうにも廃線跡にも行かず、万葉まほろば線で桜井の次の香久山かぐやま駅で下車します。

 香久山駅のすぐ北を東西に走る道は、地域の生活道路ですが、これは「よこ大路おおじ」といって、古代、伊勢方面から現在の大阪府をつなぐ重要道路だったということです。

 私は今回の小説では水路の交通を重視していますが、陸路との関係はどうだったのかな?

 少なくとも、現在の橿原かしはら市に藤原京が置かれたのは、大和平野を南北に貫くかみみちなかツ道、しもツ道と、この横大路が整備されていたからで、七世紀には道路交通が整備されていた、ということです。

 ところで、東京の下町では、「たて」(縦、「竪」)が東西、「よこ」が南北を表します。現在の、北を上とする地図を見慣れていると「なんで?」ととまどうのですが、これは江戸城を中心に見たからですね。一方で、この大和平野の道は、現在の地図と同じように、東西が「横」という扱いのようです。

 横大路から「縦」に南へと向かいます。

 このあたりの田園地帯が「磐余の池」だったのかな、と思って南下すると、ため池がありました。

 ため池上に太陽光発電パネルを設置してあるようなのですが、道路側からは見通しにくいようにフェンスがはってあります。

 「洋上風力発電」というのはよく聞きますけど、「ため池上太陽光」と来たか……。

 この発電の池は「磐余の池」の名残りということはないだろう、と通り過ぎて、交差点に出たところ、遺跡地図がありました。

 ここから一つ山を越えると「飛鳥」と呼ばれる地域に入ります。橿原市自体が、神武じんむ天皇が即位したと伝えられる場所で、遺跡も多いですし、遺跡観光に力も入れています。それで解説板や道しるべや地図が設置されているのでしょう。

 それを見ると、磐余の池跡というのが記してあります。

 地図に示されたところへと向かってみます。

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