第20話 和爾下神社

 もう山のほうに入ると銅鐸どうたくが発掘された場所に出るということでしたが、今回は宮跡で引き返します。

 万葉まんようまほろば線(桜井線)は、昼の時間は一時間に一本しか電車がありません。その電車に間に合うように、と、天理の隣の櫟本いちのもと駅まで行くことにします。

 ところが、名阪自動車道を越えたところに、和爾わにした神社という神社がありました。

 和爾下神社があることは、ここに来る前に調べて知っていたのですが。

 道ばたの小さな神社だろうと思いこんでいました。

 ところが、鳥居をくぐって入ってみると、かなり大きな神社のようです。

 それで、万葉まほろば線の電車はあきらめて、この神社にお参りすることにしました。

 神社は小高い場所を上っていったところにあります。高い場所にあるので、先の姫丸ひめまる稲荷いなり神社ほど「森に囲まれて暗い」という印象はありませんが、やはり森に囲まれた静寂せいじゃくな神社です。あとで、神社に置いてあった由緒書などを読んでみると、この神社のある場所自体が古墳の上らしい。

 ここは、さっきの石上いそのかみの広高ひろたかのみやとは谷をへだてた反対側になります。その谷筋にいま名阪自動車道が通っているわけです。

 姫の時代には、そこにコンクリートとアスファルトで高架こうか道路というのができて、自動車というのがすごい速度で走って行く、なんて、まったく想像できなかったでしょうが。

 また、この和爾下神社の周辺には、東大寺とうだいじやま古墳や赤土あかつちやま古墳など、南側の物部もののべ氏系古墳群とは別の古墳群があります。

 ここは、私が先に佐保さほ川水系を支配していたのではないか、と書いた和珥わに一族の本拠地なのです。

 神社の参道の上り口には「影媛かげひめれ」の歌碑というのが建っています。この歌碑の解説によると、この神社のあたりが、物部氏の勢力圏と和珥氏(和爾、和邇、「わに」という表記もある)の勢力圏の境界だったらしい。和爾という地名も残っています。

 小説ではお母さんが和珥氏の血筋を誇っています。

 それで、石上広高宮が現在の姫丸稲荷神社の場所にあったとすると、和珥氏の勢力圏のすぐ近くです。谷を一つ隔てただけで、距離も近い。たぶん宮からは和珥氏の本拠地が見えたでしょう。

 やっぱり、和珥氏の勢力と姫の一族は深いつながりがあったのでしょうか?

 しかし、石上の地を支配する物部氏が許容しなければ、和珥氏とのつながりも持てなかったはずです。

 では、物部氏と和珥氏との関係はどうだったのでしょう?

 なお、後世には、杣之内そまのうち古墳群の方面が興福寺こうふくじ春日かすが大社の勢力圏だったのに対して、この和珥氏の本拠地は東大寺の勢力圏だったようです。

 また、この和珥下神社のところを本拠地にしたのは、和珥氏一族のなかでも柿本かきのもと氏だったということです。柿本かきのもと人麻呂のひとまろを出した一族ですね。柿本寺という寺もこの神社のすぐ下にあったということです。

 ワカタケル大王時代以後、しばらくのあいだ目立つのは、和珥氏のなかでも春日氏や、春日氏系の王族です。歴史上、この和珥氏系の柿本氏では、人麻呂のほかに有名人が見当たらないのですが、この柿本氏も有力だったのかも知れません。

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