第17話 石上神宮

 この日に到達できなかった石上いそのかみ神宮には、もっと春らしくなった一日、桜の咲き誇る時期に行って来ました。

 石上神宮は天理てんり駅から近いと思っていたら、けっこう歩きます。しかも上り坂です。

 これは、先日は撤退しておいてよかった、と思いました。あの状態では、石上神宮まで到達したとしても、そこから天理駅まで戻るのは相当にたいへんだったでしょう。

 天理教本部の前を通って石上神宮まで上がって行きます。

 神宮は、天理市の東側の高い場所にありました。

 森に囲まれた神社です。

 ここは新型(一九年型)コロナウイルス感染症流行前に参拝していますが、そのときのことはほとんどすっかり忘れていました。

 鳥居をくぐったところには、鶏が何羽もいます。

 放し飼い、というのか、鶏のみなさん、自由行動中です。

 参拝客のみなさんも鶏の相手をしたりしていて、鶏と仲よくしています。

 みんなつやのよい、うつくしい鶏です。

 解説によると、天照あまてらす大神おおみかみあめの岩戸いわとに隠れたときに、神々が「常世とこよ長鳴ながなきどり」に夜明けを告げさせた、ということがあり、夜明けを告げる鶏が神聖な鳥とされて、自由行動しているということです。この「常世の長鳴鳥」を鳴かせたのと、鏡作かがみつくり神社のところで触れた鏡を作ったこととが一連のできごとです。

 その鶏がたくさんいるところから少し上ったところに石上神宮の社殿があります。

 参拝の方は、行列ができるほどではありませんが、おおぜいいらしていました。

 神様にお参りします。

 この神社の宝物には七支しちしとうがあります。剣の両側に、互い違いに六本の枝が出た形の剣で、「本筋」の剣の刀身とあわせて「七支(七枝)」というのでしょう。ちなみに『白香しらかひめの冒険』には「ななえのかたな」とふりがなを振ってしまったのですが、和語では「ななつさやのたち」というのだそうです(あとでこっそり訂正しておこう……)。「刀」は片刃、「つるぎ」は両刃もろはとすると、これは「剣」にあたりますが、「刀」・「たち(太刀)」と呼び習わされています。

 この「刀」には刀身に銘文が刻まれています。制作年もおそらく中国王朝の元号で記されているのですが、二文字の元号のうち一文字が判読不能で、いくつかの説があります。石上神宮では三六九年説をとっています。

 また、元号は、当時、南北に分かれていた中国王朝のうち南の王朝のものです。銘文から、日本にこの「刀」をもたらしたのは百済くだらの王族である、ということが推定できます。

 七支刀については『日本書紀』の神功じんぐう皇后(息長おきながたらしひめのみこと)の巻(神功皇后紀)に記述があり、それがこの七支刀だと考えられています。

 ところで、古墳時代には、西暦は伝わっていませんし、元号もなかったのですが、東アジア共通に使われる「干支かんし」という年の表しかたがあります。今年(二〇二三年)がうさぎ年だというのは、その干支のうちの「十二支」によります(東京メトロの駆け込み乗車防止ポスターがその年の十二支を使っていて、今年はうさぎさんです。痛そうでかわいい)。もうひとつ、十年でひとまわりする「十干じっかん」というのがあり(今年は「みずのと」)、その「十干十二支」の組み合わせで年を表現するわけです。今年は「癸卯きぼう」となります。「きぼう」の年です。

 この十干十二支の「干支」は六十年でひとまわりします。それで、六十歳を「干支がもとにかえる」という意味で「還暦かんれき」というわけです。

 『日本書紀』の記述どおりだと西暦三六九年は神功皇后の年にはならないのですが、そこから干支二回りにあたる一二〇年を繰り下げると、この七支刀の年代に合致します。

 手白香姫につながる系譜だと、神功皇后の子が応神おうじん天皇(誉田ほむたわけのみこと)、その子が仁徳にんとく天皇(おお鷦鷯さざきのみこと)、その子が履中りちゅう天皇(去来いざわけのみこと)、履中天皇の子が市辺いちのべの押磐おしわのみこ、姫はその孫です。神功皇后は六世代前になります。

 手白香姫の生年は不明ですが、だいたい西暦四八〇年くらいと見積もって(どうしてそう考えるかは小説が終わってから書きます)、一世代が三十年とみると神功皇后の生年が三〇〇年となります。この推算だと、神功皇后は、七支刀がもたらされた時代に君臨するには時代が古すぎる感もあります。しかし、当時の王族では最初の子を産むのは二十歳台でしょうから、最初の男子が位を嗣いでいるとすると、一世代は三十年より短い可能性が強い。そうすると神功皇后の治世に七支刀がもたらされたとしても無理はありません。

 また、応神天皇陵とされる誉田ほむだやま誉田ほむだ御廟ごびょうやま)古墳や仁徳天皇陵とされる大山だいせんりょう古墳が五世紀前半と推定されるので、応神天皇の前代にあたる神功皇后の時代が四世紀後半とするのも自然だと思います。

 ところで、石上神宮の主な祭神は布都ふつの御魂みたま大神のおおかみといい、神剣「ふつのみたま」に宿る神霊とされています。ほかにも、剣にちなむ神様をおまつりしています。ちなみに、「ふつのみたま」の霊を大王の宮の外に出したのは、やはり崇神すじん天皇の時代の「神祭り改革」の一環とされています。大和おおやまと神社、三輪みわ神社(大神おおみわ神社)、伊勢いせ神宮の「まつり」とともに、石上の武神の信仰も始まったとされるわけです。

 この石上神宮のまつりを管理したのが物部もののべ氏です。したがって、物部氏は、武力と、神剣に宿る霊力をつかさどり、それによって大王家を支えた氏族だと考えられます。

 同時に、神剣「ふつのみたま」はたけみかづちのかみの剣ともされます。武甕槌神は奈良の春日かすが大社、茨城県の鹿島かしま神宮にまつられています。

 また、布都御魂大神に似た名の経津ふつぬしのかみは千葉県香取かとり市の香取神宮の神様です。香取神宮と鹿島神宮は、所在地の県は違いますが、距離は一五キロ程度しか離れていません。また、鹿島神宮、香取神宮ともに藤原氏が尊崇した神社です。

 藤原氏はもともと中臣なかとみ氏で、中臣氏は大王家・天皇家の「まつり」を担当した一族です。後に藤原氏は日本の仏教信仰を推進する一族となりますが、仏教の「公伝」の時期には物部氏とともに排仏派でした。また、藤原氏にならなかった一族の大中臣おおなかとみ氏は伊勢神宮の神官の一族として残ります。奈良の東大寺も、その建立には、藤原氏出身の光明皇后が深く関係していますから、中臣氏系の氏族は、東大寺、興福寺こうふくじ、春日大社、伊勢神宮と、日本の主立った寺社に関与し続けた、ということになります。

 物部氏は西暦587年の「丁未ていびの乱」で蘇我そが氏に敗れ、滅亡します。ただし、一族は「石上いそのかみ氏」として存続しました。物部氏が本拠地としていた石上の名を名のったのですね。

 中臣氏も蘇我氏に圧倒されたのでしょうけど、「大化の改新」で中臣なかとみの鎌足かまたりが活躍し、その子孫が藤原氏となりました。

 で、中臣氏と物部氏で、まつっている神様の関係が近い。

 また、前に書いた夜都伎やつぎ(夜都岐)神社が春日大社と関係が深いということでした。夜都伎神社は石上神宮から二キロくらいのところです。

 もしかすると、「神祭り」を含めた物部氏の「遺産」の一部を中臣氏が受け継ぎ、それが藤原氏に伝えられたのではないか、というようなことも考えるのですけど、どうなのでしょう?

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