第12話 姫へのごあいさつ
さて、地図によると、
そこからさらに坂を登ったところに
西山塚と西殿塚で名まえが似ているのですが、別の古墳です。ほかに、少し離れたところには「西山古墳」という古墳もあります。
けっこうややこしい。
このあたり、古墳がとても多いのです。
とても多いから、似たような名の古墳も多いのでしょう。
さすが、昔の「大和」の首都です。
ただ、「首都」と「首都の墳墓の地」(いわゆる「ネクロポリス」)は分けて考えなければいけないので、古墳が多く残っている地が首都そのものとは限りませんけれど。
さて、この西山塚古墳と西殿塚古墳が今回の目的地のひとつでした。。
西山塚古墳は、学術的には、私の小説のヒロイン
ただし、皇室ゆかりの御陵やお墓を管理する
年代的には、西殿塚古墳が古墳時代初期の築造、西山塚古墳がだいたい五世紀末から六世紀初めということです。ワカタケル大王(
私たちが現在から見ると、古墳時代は古墳時代で、「初期」とか「後期」とかいっても「そんなに違いがないんじゃないか」という感覚で見てしまいます。
とくに、古墳時代を特徴づけ、印象づけるのが「
前方後円墳というのは、円形の部分と、それに続く長方形や台形の部分とが一体となった形式の古墳です。円形の部分「後円部」が主な埋葬者をまつった墓所ですが、長方形や台形の「前方部」にも埋葬施設を持っているばあいもあります。
上空からの写真では「
前方後円墳は、いま見てもその形が印象的ですが、古墳時代の当時から特別に権威のある形式とみられていたようです。
この前方後円墳が偉大な権力の権威を表していた時代は「仏教
仏教公伝は六世紀ですから、前方後円墳が造られ始めたのが三世紀だとすると、だいたい三百年くらいが「前方後円墳の時代」だったわけです。
三百年というと、関ヶ原の戦い(一六〇〇年)から明治維新(一八六八年)を越えて日露戦争(一九〇四~〇五年)のころまでの期間にあたります。
だから、「前方後円墳を造っていた時代の終わりのほう」から「前方後円墳を造り始めた時代」を見ると、それは、日露戦争のころから関ヶ原の戦いの時代を見ているようなもので、かなり時代のへだたりがあります。
したがって、手白香姫(手白香皇女)の
とはいっても、少なくとも宮内庁が西殿塚古墳を「手白香皇女
そういうことで、西山塚古墳と西殿塚古墳の両方にごあいさつしてくることにしました。
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