第7話 大王の発展戦略(1)

 鏡作かがみつくり神社から北へ行くと唐古からこかぎ遺跡の史跡公園があるのですが、そちらには行かず、大和おおやまと神社のほうを目指して、東へ向かって歩きます。

 ……けっこう遠い。

 田原本たわらもとから大和神社までだいたい四キロか五キロ程度で、それを東京民にわかりやすいように山手やまのてせんで置き換えると、新宿しんじゅく池袋いけぶくろの距離くらい、なんですけど。

 やっぱり、けっこう遠いですね。

 二十歳台の若いころにはねぇ、池袋から新宿まで「この距離で百何十円も払えるか!」などとうそぶいて歩いたりしたものですが。

 いまとなってみると、やっぱり遠いです。

 思い出話はこれくらいにして。

 田原本から見る三輪みわやまは左右の均整が取れた端正な山容で、たしかに美しい。

 山並みのなかに囲まれているのですが、一度、その姿を見分けると、そのあとは自然と目に入ってきます。

 前の日には、廣瀬ひろせ大社から南に向かいつつ、西に見上げる二上山にじょうさん(ふたかみやま)の山容が印象的でした。この二上山のふもとが、物語でときどき話に出て来る葛城かつらぎ一族の本拠地です。

 道は、途中で、まだ川幅のそんなに広くない大和やまとがわを渡ります。

 この大和川は、上流は三輪山の南をぐるっと回って長谷はせでらのほうに続いています。長谷の谷から流れてくるのです。

 長谷の谷から、いちど北上して、その唐子・鍵遺跡の弥生時代の「みやこ」と初期大和王権の本拠地とのあいだを流れ、やがて西に向かって飛鳥あすかがわを合流させ、廣瀬ひろせ大社からさらに西に流れる。

 長谷は、古代の表記では泊瀬はつせ(または初瀬はつせ)。

 つまり、あのワカタケル大王(幼武わかたける大王、おお泊瀬はつせ幼武わかたけ天皇のすめらみこと)、雄略ゆうりゃく天皇が都を置いたところです。

 ああ。

 そういうことか。

 なぜ、ワカタケル大王が、平野から少し奥まった泊瀬に都を置いたのか、ずっと疑問に思っていたのです。

 その理由のひとつは、長谷を、伊勢いせへと向かう近鉄大阪線が走っていることからわかるように、ここが東国へのルートだったからでしょう。

 泊瀬から東に行くと伊勢に通じます。近鉄大阪線が通っているほか、もともと「名松めいしょうせん」を伊勢(松坂まつざか)から名張なばりまで延ばす計画がありました。このルートは、後に壬申じんしんの乱のときに大海人おおあま皇子(天武てんむ天皇)が通り、さらに後の南北朝時代には伊勢の北畠きたばたけ氏が吉野との連絡に使っていたルートです。

 そして、伊勢から先は、海路が東国へとつながっています。それは、南北朝時代に北畠親房ちかふさが伊勢から東国へと船出したことにも表れています。

 もうひとつ、ワカタケル大王が泊瀬を拠点にした理由は、この大和川の流れを支配していたから、していたかったから、ではないでしょうか?

 古代から川筋が変わっていないならば、という条件つきですが。

 川の流れを支配するから上流に都が必要、ということもないですけど、大和川の流れと東国へのルートの両方を支配できる場所として、泊瀬が重要だったのではないかと思います。

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