第2話 大和川舟運ルート

 まず、あまり天気のよくなかった一日、レンタサイクルを借りて廣瀬ひろせ大社たいしゃに行って来ました。

 物語では、姫は小さいころは播磨はりまで育ち、明石から船に乗って飛鳥まで来た、ということになっています。

 史実の手白香たしらかひめ(ほぼ確実に実在の人物です)が播磨生まれかどうか、という問題はあるのですが、その問題は小説を最後まで書いてからまた書くとしましょう。

 ともかく、現在は、明石海峡から水運だけで飛鳥まで来ることはできません。

 しかし、古墳時代には、たぶん、川舟を使って飛鳥近くの磐余いわれまで来ることができました。

 まず、明石から大阪湾に到達すると、現在なら大阪に上陸しなければいけないのですが、当時は大阪府の東のほうの平野に河内かわち草香くさか)という大きな湖があり、そこに入ることができたのです。

 いまの大阪環状線の内側の東側、天満から天王寺のあたりが「上町うえまち台地だいち」と呼ばれる高台です。現在は、この高台に天王寺(天王てんのう)があったり、大阪城があったりします。

 この高台の東側が古墳時代のころは湖になっていたのです。

 この湖を河内湖(草香の江)といいます。物語のなかでは「草香の津」と呼んでいます。

 いまは直接に大阪湾に注いでいる大和川と淀川は、このころにはこの河内湖に流れ込んでいました。

 物語のなかでお姉ちゃんのたからひめ(『日本書紀』では朝嬬あさづま皇女のひめみこ、『古事記』でたから郎女のいらつめ)が言っているとおり、仁徳にんとく天皇(おお鷦鷯さざき天皇のすめらみこと)がこの河内湖と大阪湾を連絡する「堀江ほりえ」を整備したと伝えられています。

 たぶん、それまでは、湖と大阪湾とのあいだには、浅い砂洲さすや泥海が続き、はっきりした流路がないまま湖の水が海へと流れ出ていたのでしょう。

 現在の世界では貴重になった「干潟ひがた」状態だったのかな、と思います。

 そこに、当時としては吃水きっすいの深い船も通れるような運河を開削かいさくした、ということです。

 仁徳天皇は日本最大の古墳である大山だいせんりょう古墳の被葬ひそう者とされています。

 『日本書紀』や『古事記』に伝わる事績が事実かどうかはよくわかりません。また、この大規模な治水工事が一人の大王の事績なのかどうかもわかりません。ただ、現在の大阪平野で大土木工事を主導した大王がいて、その大王の生前か死後かに、その工事に従事した人びとが日本最大の古墳を造営した、というのは、ありそうな流れだと思います。

 物語では、姫の一行は、その運河から河内湖へ入り、そこから大和川に入って急流をさかのぼった、ということになっています。

 この急流は現在の河内かわち堅上かたかみから三郷さんごうのあたりです。大和路線(関西本線)沿いです。

 物語のなかの姫の一行は、その「急流」を越えたところで、まず龍田たつた大社にお参りし、それからさらに川をさかのぼって廣瀬ひろせ大社にお参りする。そのあと大和川から飛鳥川に入って、いまの大和八木駅の東側にあった「磐余いわれの池」に到着した、というルートをとっています。

 ほんとうに当時のひとがそんなルートをとったのかはよくわかりませんが。

 ただ、当時は、大阪平野も大和平野も現在よりも低湿地が多く広がっていたはずです。だから舟運しゅううんが主要ルートじゃなかったのかな、ということを考えてそういうお話にしました。

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