第7話 唐突な転機
俺が両親の事について語っている間、五十嵐はただ静かに黙って聞いていた。両親共に結晶解離病、それも同時に発症したなんて話聞かされても信じられないかもしれないけれど。
そして俺は自分が両親の記憶から消えて死んだ時の出来事を語る前で言葉に詰まった。このことをどう伝えたものか分からなくて、でもここが一番肝心な所で、だけど言葉にするとまたパニック障害が起こるかもしれない不安が残った。
五十嵐は言葉を止めた俺の事を見つめている、次を急かす事もなくただじっと見つめていた。その真剣な眼差しを向けられて、俺は言葉を吐き出した。
「ち、父と母は、一度俺の事を忘れてしまった。しかも二人同時にだ。お、俺はその事がショックで、二人は俺の事を教えてもらって再記憶したけれど。それはもう以前の俺じゃなくて、そ、それが」
言葉の途中で俺は自分の状況がやばいと気がつく、呼吸が乱れて視線が定まらない、今自分が息を吸っているのか吐いているのかが分からなくなってきた。
もう駄目だと思い俺は固く目を閉じた。暗闇ならばぐるぐる回っていても気持ち悪くはならない、収まれ収まれと心の中で唱えた。
その時、俺の右手が温かくて柔らかな何かにギュッと包まれた。それが五十嵐の手だと気がつくのに時間はかからなかった。俺が目を開けると五十嵐の顔が目の前にあった。
「私が見える?」
「見える」
「手の温度は伝わる?」
「ああ分かる」
「ゆっくりと吐いてゆっくりと吸うの、出来る?」
五十嵐は空いた手で俺の背中をさすった。俺は五十嵐の掌から伝わる体温で、段々と感覚が現実に引き戻されていく、過呼吸を起こす前に息を整える事ができてホッとした。
「ありがとう五十嵐、助かった」
「よかった。明らかに様子がおかしかったからどうにか落ち着けたくて、うまくいくか分からなかったけれど」
「対処法を知っていた訳じゃないのか?」
俺の質問に五十嵐は首を振って否定した。それなのにあの落ち着き様はすごい、正直もうトイレに駆け込むしかないと思っていた。
「すごいな五十嵐、素直に尊敬するよ」
「そんな大げさな」
「いや、俺はいつもこんなに上手く対処できない。だからこそパニック発作なんだけど、今日は吐かずに済んだ。五十嵐のお陰だ」
俺は礼を言うともう一度息を整えた。そして続きを話し始める。
「両親に忘れ去られた時、俺はこれを死だと感じ取った。そして同時に両親の事を心から拒絶してしまった。俺は両親の中から死んで、心の中で両親を殺してしまったんだ」
パニック発作を起こすようになった切っ掛けの出来事を話す。今度は詰まる事もなくスラスラと話す事が出来た。というのも五十嵐がまだ手を握ってくれていたからだった。
「五十嵐、もう手を離してくれて構わないぞ」
「え?あっ」
俺は大体の事情を話終えた後その事を指摘した。五十嵐も気がついていなかったのか、顔を赤くしてからパッと手を離した。
「ご、ごめん!」
「いや助かったよ、お陰できちんと最後まで話すことが出来た」
そう言うと五十嵐は照れくさそうに頬を人差し指で掻いた。大胆な事をする癖にこういう風に恥ずかしがるのだなと思うと、その可愛らしさに何だか五十嵐が人気者である理由が分かる気がした。
「五十嵐は俺が人を寄せ付けないって言ったよな?」
「うん」
「その通りだよ、俺は人と関係を築くのが怖い、表面を撫でるくらいにしかコミュニケーションが取れないんだ。踏み込みすぎるとさっきみたいになってしまう、これでも大分マシになってきたんだけどな」
最初の頃は今お世話になっている叔父さん夫婦とでさえ震えながら顔を見ずに話していた。ここまで回復できたのも、献身的に支えてくれた叔父さん達のお陰だ。
「でもさ尾上くん」
「うん?」
「そういった事情なら私とのこの会話だって苦痛じゃないの?私結構自分の事話しちゃったけど」
そういえばそうだ、五十嵐の指摘で今気がついた。そんな事より近くに結晶解離病を患った人がいるという事実の方が重要で、そちらに夢中になっていたからだ。でも確かに不思議と嫌悪感を感じなかった。
「何でだろうな?嫌悪感はまったくなかった。寧ろ五十嵐の事を知れて結構面白かったし、もっと知りたくなったよ」
「…それはどういう意味で?」
「え?どうもこうもないけど?」
俺がそう言うと五十嵐は何だか不満げな顔で唇を尖らせた。何の感情なんだろうと俺が思っていると、五十嵐はぽんと手を叩いた。
「話を戻そうか、尾上くん結晶解離病の事聞きたいんだよね?」
「あっそうだった!聞きたい、聞かせてくれないか?ああでも待ってくれ、ノートと筆箱を持ってこないと。いやボイスレコーダーを購入するべきか?そうだなそうしよう」
「ちょ、ちょっと落ち着いて尾上くん!」
五十嵐に両肩を抑えられて俺ははっと我に返る、ようやく生の声が聞けると思ったらまた興奮してしまった。一つ咳払いをして俺は心を落ち着ける。
「悪かった。実はまだ動揺していてな、まだ五十嵐から了承も得ていないのに申し訳ない」
「え?あ、うん」
「でも五十嵐のプライベートを詮索するような事はしない、ただ俺は結晶解離病について調べているし、何か力になれる事がある筈だ。俺は両親の為にも自分自身の為にもこの病気を研究したいと思ってるんだ」
俺は五十嵐にずずいと近づいて迫った。どうしても俺は話を聞きたい、その気持ちが先行していた。
「うーんそうだなあ」
「あ、俺に出来る事なら何でもする!言ってくれたら何でも、いや俺に出来る事は限られてるけど、それでも約束する」
「分かった分かった。だからもう一回落ち着こうね」
もう一度注意されて俺は自分でも思っている以上に五十嵐に近づいていたのに気がついた。ごめんと言って離れて小さく身を抱えた。
「ねえ、私そもそも尾上くんに協力するつもりだったよ?」
「そうなのか?」
「断るって一言も言ってないでしょ?しかもそんな事情を聞いちゃったら協力しないなんて思えないよ」
「悪い、強制してしまったか?」
「違う違う、ただそれなら」
俺は五十嵐から告げられた条件を聞いて驚いた。
「そんな事でいいのか?」
「そんな事がいいの」
五十嵐はそう言うと朗らかに笑った。中々不可解な提案だが、俺にとってはそこそこ難題でもある、五十嵐の望みを叶えるのなら気合を入れ直さなければいけないなと思った。
授業を一限サボった俺たちは、素直に教科担当の先生の所へ行って謝った。サボりましたと宣言されて謝罪されても先生は戸惑っていたが、取り敢えず反省文を書いて提出するだけで許された。
五十嵐と一緒に教室に戻ると一気にざわついた。あれだけの事があった後に二人で教室に戻ってきたのだからそれもそうだろう、俺は何も言わずにさっさと自分の席に戻ると座って反省文の用紙に記入を始めた。
俺が座ったのを見計らってクラスメイトがわっと五十嵐の元に集まった。心配する声もあれば、俺への誹謗中傷もある。態々俺に聞こえるように言っているのは、恐らく俺への牽制のつもりなのだろう。
「五十嵐に近づくな」
言外にそんな空気が伝わってくる、俺はその程度では怯むつもりはないが、五十嵐にとって迷惑になるのは本意ではない。
それにこのままクラスメイトとの溝が深まれば、五十嵐の望みを叶えるのも難しくなるかもしれない、約束した事だし、条件を飲んだのだからそれが俺の責務だ。
ただ現状クラスの人との軋轢を解消する方法を俺には思いつかない、どうしたものかと俺が悩んでいると、五十嵐がとんでもない宣言をした。
「ねえ皆聞いて、私尾上くんと付き合う事になったから。私の彼氏分かりにくい人かもしれないけど、よかったら仲良くしてね?」
クラスメイト達が皆一様に口をあんぐりと開けて驚いている中、俺はそれ以上に衝撃的に驚いていた。何を考えての行動だったのかさっぱり読めないまま、凍りついた教室の空気を打ち破るように先生が入って来た。
先生は異様な雰囲気を感じ取って首を傾げたが、授業を始めるぞと宣言すると皆はすごすごと自分の席に戻った。
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