第3話 始まりの一片
俺は職員室の扉をノックすると「失礼します」と声をかけながら入室した。俺の姿を目にとめた学級担任の林先生が手を振って呼ぶ。
「来たか尾上、書類は持ってきたか?」
「はい、チェックをお願いします」
手渡した書類はアルバイトの許可を申請するものだ、林先生は確認する為に読み上げた。
「名前、
何度も確認はしたけれど、こうして再度確認する事はとても重要だ。俺が見落としている部分が何処かにあるかもしれない。
「これで申請できますか?」
「後は俺の署名と校長の許可があればな。尾上なら問題ないと思うが、保護者の方が随分と心配していたのによく許可がもらえたな。ちゃんと話し合ったのか?」
「流石に叔父さんの意見を無視してまで無理やりバイトしようとは思いませんよ、時間はかかりましたけど何とか納得してもらいました」
俺を今家に住まわしてくれて面倒を見てくれている叔父さんの
俺が将来の学費を稼ぎたいと言ったのが始まりだったが、そんな事はお前が心配する必要はないの一点張りで、中々言う事を聞いてもらえなかった。叔父さんが強く反対するのは俺の事を心配しているからだ、それが俺にも分かっているから尚更説得には時間がかかった。
「結局最後は
「そうか、最近はどうだ?発作の方は」
「少なくなりましたよ、カウンセラーの先生からもお墨付きもらってます。切っ掛けも明確ですから」
先生は書類に署名を書いて押印するとそれを仕舞った。そして俺に向き直ると目を見て言ってきた。
「先生な、そういった事に詳しくないからあまり力になれないけど、尾上さえ良ければ話を聞くだけでも出来るぞ?」
林先生はいい人だ、それにいい大人だと思う、けれどそれとこれとは話は別だ。
「気持ちだけで十分です」
俺のその言葉に林先生は肩を落とした。別に先生に何かを話したくないという訳でもない、ただ俺は自分の気持ちを説明できないだけだ。
「分かった。じゃあアルバイト先が決まったら改めて教えてくれ、言っとくが禁止されてるアルバイトは駄目だからな、範囲とか要項をもう一度確認しておくように」
「分かりました。ではこれで失礼します」
先生に一礼すると俺は職員室を出た。そのまま自分のクラスの教室に戻ると、放課後だと言うのにだらだらと教室に残って楽しそうに喋っているグループがいた。
心底うざったいと思う気持ちを押し殺して、俺は帰り支度を整える。よくもまあ中身のない会話内容でそこまであれだけ盛り上がれるものだ。
人が集まると必ずあのような中心グループのようなものがいくつか出来る、小学校でも中学校でもそうだった。そしてこのグループの中心にいるのは一人の女生徒だ。
そして容姿もさる事ながら成績も優秀だ、大体いつもテストの順位ではトップの俺の三つ四つ下にいる、俺はクラスメイトの顔と名前を殆ど覚えていないが、流石にここまで目立つ人物であれば覚えもする。
それに俺が五十嵐の事を覚えたのは別の理由もある。
「可哀想な奴」
俺が五十嵐に抱いている感情はこれだ、あいつはいつも楽しそうに笑っているけれど、俺には何となく分かる。あれは楽しくて笑ってるのではなく周りに合わせて雰囲気を壊さないように気を使っているだけだ。
まあ人には様々な事情がある、どれだけつまらない事でも笑って相手すると決めているのなら、それは他人がとやかく口を出す事じゃあない。俺は荷物をまとめ終わると席を立った。
「あっ、尾上くんもう帰るの?」
帰ろうとする俺の背中に五十嵐が声をかけてきた。もうって何だ、俺はそう思いながらも向き直って言った。
「ああ、特に用事もないからな」
「そっか、気をつけてね」
「じゃあな」
背後の方で取り巻き共が俺について話しているのが聞こえてくる。せめて居なくなるまで待てばいいのに、その程度の気遣いもできないのか。
「雫、なんで尾上なんかに話しかけたの?」
「そうだぜ、ほっときゃいいんだあんな奴」
「あいつマジでうざくね?ちょっと成績いいからって周りを見下したようにしてさ、態度悪いよ」
俺も五十嵐が声をかけてきた事と、取り巻き共の俺についての評価に対してなんと言ったのかが少し気になったが、足を止める理由にはならなくてそのまま学校を後にした。
帰宅して脱いだ靴を揃える、仕事場の方に少しだけ顔を覗かせて様子を見た。二人共お客さんを相手しているので引っ込もうとすると、叔父さんが俺に気がついて声をかけてきた。
「おう、光輔おかえり」
「あらこうちゃん帰ってきてたの?おかえり」
「ただいま、邪魔してごめんね」
俺がそう言うと顔を剃っていたお客さんの一人が豪快に笑って声を出した。
「遠慮すんなよ光輔!学校はどうだった?」
この大きな声と豪快な喋り方は、近所に住む常連のおじさんの中井さんだ。横になってシェービングフォームで顔を覆われているので見えないけれどすぐに分かる。
「こんにちは中井さん。学校はいつも通りだよ」
「相変わらずクールだねえこうちゃんはよ」
今声をかけてきたもう一人のおじさんは外谷さんだ、梢さんがカットしていて顔が見えなくともこの二人は大体一緒に来るのですぐに分かる。
「あはは、じゃあ俺はこれで」
このまま捕まって長話に付き合わされるコースが目に見えていたので、俺は早々に立ち去ろうとした。
「ああ待て待て光輔、手紙机の上に置いておいたからな」
「そう…。ありがとう叔父さん」
叔父さんの言葉で一気に気が重くなったが、俺はそれでもお礼を言って引き換えした。二階に上がって自室に戻ると、机の上に封筒が寂しく置いてある。
何度も手にとっては置いてを繰り返して、ようやく封筒を切って中身の便箋を取り出した。二枚の便箋、父と母からのものだ。
内容はいつも通りのとりとめのない普通のもの、だけど今ではこの親子でする当たり前の会話も、紙の上の文字でしか俺は長時間やり取りができないでいる。
電話の苦痛より幾らかマシではあるが、それでも父と母を思い起こさせるこの行為は辛い、だけどこれは叔父さんと精神科の医者との約束でもあった。
いわばこの作業はリハビリだ、親子の信頼関係を失った俺たちが、絶たれた繋がりを少しずつ修復していく為の手順だ。俺だってできれば元の家族に戻りたい、だけど俺の心がそれを拒否してしまう。
結晶解離病によって失われた記憶は元通りに戻る事はない、失われたらそこまで、もう一度再記憶する事はできても、それは以前の記憶とは違うものだと俺は思っている。
俺の存在が二人の内から消えてしまった事は耐え難いショックだった。そして俺の心は、そのショックを少しでも和らげる為に二人を拒絶した。結局それが後を引いて俺の気持ちをずるずると沼に引きずり込むのだが、その時はそうするしかなかった。
それでもこうして両親からの手紙を受け取り続けるのは、忘れていく二人を俺が覚えておく為だった。記憶を宝石に変えて失い続ける二人を繋ぎ止めるのは、他の誰かが覚えておく事が重要だ、記憶を失い続ける病気は記憶によって繋ぎ止められる、不条理で悲しい、怒りの炎が俺の奥底で燃え盛り続けていた。
受け取った手紙はビスケットが入っていたブリキ缶の中に仕舞った。これは昔遊園地に旅行した時、両親にねだってやっと買ってもらった俺の宝物だった。それからずっと見つけた素敵な物を入れる箱として使っていたけれど、今ではぎっしりと詰まった手紙だけがこの箱を埋めていた。
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