第2話 記憶の結晶

 日々を生きる事は記憶を積み重ねていく事だと思う、経験した事、体感した思い、そうやって人って作られていくんじゃないだろうか。


 もし突然、その人を象る記憶が抜け落ちてしまうとしたら、それはきっと死よりも恐ろしい事だと俺は思う。忘れ去られてしまう事も忘れてしまう事もどちらも痛くて苦しいだろう。


 人はやがて忘れていく生き物である、それが穏やかなものにせよ荒々しいものにせよ、いつかは訪れる運命だ。


 だけど、その運命が突如としてその人を襲う事がある。そしてそれはとても理不尽で不条理で容赦がない、誰がどうしてそうなるかなんて誰にも説明できない。


 結晶解離病、人の記憶が宝石となって抜け落ちてしまう病気。突如として全人類を襲った未知の疾病、発症の仕組みから症状の進行具合まで分かっている事は無に等しい、ただ一つ確実に分かっている事は記憶が欠落してしまうという症状。


 抜け落ちる記憶の種類は様々だ、例えば「あ」という単語一つがぽとりと抜け落ちてしまう事もある、そして消えた本人にはその自覚もなく、唐突に「あ」と言えなくなる。再度教えてもらうと記憶する事は出来るが、再度抜け落ちてしまう事もある。


 この病気が世界に広まった経緯は衝撃的だった。


 時の某国大統領が演説中に袖口から宝石がぽろりとこぼれ落ちた。一度はそれに気を取られるもまた演説を再開しようとする、しかしその人が演説で好んで使っていたフレーズが突如として出てこなくなってしまった。


 口を何度もパクパクと動かし必死で喋ろうとするも言葉が出て来ない、近くで控えていた秘書から耳打ちしてもらい事なきを得たが、その異様な光景に見ていた人達は皆衝撃を受けた。


 その後病気の存在を公表し、各国からもごく少数ながら報告が上がり始める、結晶解離病はゆっくりと人々の中で知られていく事になる。


 日本での初動は静かなものだった。報道や記事も少なく、こんな奇病がありますよと紹介される程度、実に平和ボケしていた。


 しかし発症者が出た途端状況は一変する。連日連夜発症者はニュース番組からバラエティ番組で面白おかしく取り上げられ、ゴシップ雑誌は話題性を求めて憶測を書き連ねた。


 不理解と不寛容は伝染する。どんな流行病よりもよほど厄介で残酷だ。


 まだ何も判明していない段階から、噂で空気感染すると人々に広まった。日本の数少ない患者は鼻つまみものにされて虐げられた。一度排他的になると人はどこまでも残酷になれる、患者は病原菌のように扱われて強制的に隔離された。触っていた物や身につけていた物から菌が移ると言われた時には、身につけている物と体ごと消毒液を散布された。


 時間が経ち、加熱した感情が冷め始める。情報が出揃い始めてすべてがデマだと証明されても、一度根付いた偏見はそう簡単に払拭される事はない、結局は理解のない差別が残り患者は肩身が狭い思いを強いられる事となった。


 結晶解離病は感染する病気ではない、ある日突然理由もなく発症する。何故、誰が、どうして発症するのかは分かっていない、年齢層も定まっておらず少々高齢層が多いだけと幅がある。


 進行具合にも大きな差があり、記憶が抜け落ちる感覚が年単位の人もいれば、毎日のように宝石となって抜けていく人もいる。毎日のように記憶が消える恐怖と戦わなければならないこの病気に、治療法はまだない。




 俺の両親が共にこの病気に罹患したのは、俺がまだ中学生の時だった。世にも珍しい病気に夫婦揃って罹患する事はとても珍しく、全世界でも何件かしか例がなかった。


 父も母も病気にかかっても前向きだった。忘れた事を思い出せるように互いの事を記録しあい、どちらかが記憶の宝石を落とした時にはすぐさま助け合っていた。


 俺も二人の為に毎日日記をつけて記録をした。思い出が宝石となって消えてしまっても、沢山のノートが二人をつなぎとめてくれると思っていた。


 ある日、二人が同時に宝石を落とした。大粒のダイヤモンドで床に落ちた時大きな音がした。俺はそれを拾い上げて、いつも通り二人に何を忘れたのかを確認しようとした。


 それが俺と両親の一度目の死別になるとは知らずに。


「あなた誰?どうして家にいるの?」


 母は怯えた表情で俺の顔を見ていた。父はそんな母を庇うようにして俺に背を向けた。


「誰だか知らんが出ていってくれ!この家に金目の物なんてないぞ!」

「見て、あの子が持っている宝石」

「何だやっぱり物取りか!それだけあれば十分だろう、命までは取らないでくれ!」


 父と母から抜け落ちたのは俺の存在という記憶だった。俺は怖くなってその場から逃げ出した。二人が俺を見る目つきが、完全に他人そのものになり敵意を向けていたからだ。


「俺は二人の子供だよ!ここにちゃんと書いてある、写真だって皆で一杯撮って飾ったじゃないか!」


 そんな言葉すら出て来なかった。積み上げてきたノートの山、記録してきた筈の記憶の絆も、何の役にも立たなかった。


 俺は家を飛び出して近くに住んでいる叔父夫婦の元へと駆け込んだ。叔父さんは父の弟さんで、病気になった両親を心配して態々遠くの地から引っ越してきてくれた。


 二人は夫婦で理容室を営んでおり、俺が店に駆け込むとその尋常ではない様子を察してくれてすぐさま対応してくれた。その時の俺は顔を涙でぐしゃぐしゃにして、過呼吸になりながら鼻血を流していたらしい、俺は店に駆け込んだ後は気絶して覚えておらず、その時の事は叔父さんが教えてくれた。


 病院のベッドで目を覚ますと、両端には父と母がいて、頬には涙の筋が残っていた。二人共俺の手を固く握って離さず、泣きつかれて寝てしまったようだった。


 きっと俺のことを教えてもらった後ずっと側に居たのだろう、そして俺にかけてしまった言葉や態度を酷く後悔したに違いない、だけど俺は頭でそうと分かっていながら、両親の手を振りほどくとトイレへと駆け込んで嘔吐してしまった。


 恐怖と嫌悪感、二人に忘れ去られた俺に強く残った感情はそれだけだった。二人はもうこれまでの俺の事を覚えてはいない、記録や写真で俺を息子だと認識する事はできたとしても、これまでの俺は二人の中から消えてなくなってしまった。


 俺にはそれが恐ろしくて堪らなかった。そして頭で理解していても俺はこう思ってしまった。


「どうして俺の事を忘れたの?」


 結晶解離病は消える記憶を選ぶ事はできない、どんな条件もなくどんな前触れもなく、ただ突然宝石となって抜け落ちてしまう。


 それなのに俺は心の中で父と母を責めた。そんな自分が殺したい程憎くて、俺は自分自身を心の底から嫌悪した。


 父と母に責任はないのに、俺は身勝手な理由で二人の事を傷つけた。その時の恐怖と嫌悪感は、俺の中で強烈なトラウマとなってしまった。


 それから俺は両親の顔を見ると、吐いたり過呼吸を起こしたりパニック発作を起こすようになってしまった。俺は叔父夫婦の家に身を寄せて、今では両親と離れて暮らしている。


 これが俺と両親の一度目の死別、二人の中の俺が消えて、俺が二人を拒絶してしまった記憶と心の殺人だ。




 月日が経過し季節は春、俺は高校二年生となった。


 治療を継続していて、今では電話越しの短時間ではあるが、両親と会話出来るくらいに回復してきた。


 それでも俺の心についた傷は消える事はない、今でも時々あの時の悪夢を見て目が覚める、滝のような寝汗をかいて溢れる涙を必死に拭う時がある。


 俺はこの日の経験から誓った。将来はこの病気を研究して根絶する為の研究者になる。俺はトラウマを払拭する為にも研究資料を読み漁り、各種データを暗記するまで見て、様々な情報を収集した。


 勉学のすべてを注いだ。俺や両親のような思いをする人を一日でも早くなくしたい、その為なら俺はどんなことでも出来るし、何を犠牲にしても構わない。


 いつか俺が壊れてしまってもいい、だってもう俺は一度死んだも同然なのだから。

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