第7話 往々にして事実は真実を覆い隠す
僕は最初、分からなかったんだ。ご主人の両親が死んだという話だったはずで、両親のことが話されるんだとばかり思っていたんだ。ところが、ご主人が話し出したのは1人の女の子の身に起きた悲劇だった。
僕たちにはたぶん、恋愛感情なんてものは無い。けれど生命が続いているのだから、人間の言う性行為(不思議だよね?僕たちに対して人間はそれを「繁殖」って言うんだ)は行われてる。僕たちだけに限らず、人間も含めて全ての生命は子を産み育てることが1つの目的でしょ?そこに快楽だったり優越感だったり?まぁ、簡単に言えば〝欲望〟を乗せているのは人間だけなんだよ。
僕たちにだって感情はある。けれど、繁殖(こっちの言い方にしとくね)行為と感情は切り離されたもので、決して結びつくようなものじゃない。それが人間以外の生命の基本なんだ。だからね?ハッキリ言っておかしいのは人間の方なんじゃないのかな?もしも人間もちゃんとその2つが切り離されていたのなら、僕のご主人は今こうして居なかったかもしれない。
でも間違えないで?僕は人間も動物と同じようであるべきだなんて思ってないよ?むしろ逆なんだ。人間が持っている〝恋愛感情〟っていうのは、とってもステキなモノだって思うんだ。たった1人を大切にするなんてきっと誇らしいことだと思う。だって、ご主人にそう思われている僕はとっても幸せだと感じているんだから。
中川 由香里がその男子生徒に抱いた寒気は勘違いの類ではなく、その冷たさは由香里の心身を確実に冷やし、やがて病に至った。それはきっと、ほんの少しでも環境や状況が違えば、風邪を引く前に予防ができたことのはずだった。
どこから入手したのだろう、クラスメイトの男子生徒からの告白を断って5日ほど過ぎたころから、由香里の持つスマートフォンの着信履歴は登録されていない番号が溢れた。それは時間をそれほど必要とせず、由香里の取った処置の影響で〝非通知〟という表示が溢れる結果を招いていた。それだけではない。由香里の所持するアカウントによるいくつかのSNSに、ネットワーク上のストーカーとでも言うべき存在が執拗に付け回していた。
それは1つの恐怖でしかない。由香里に兄弟は居らず、両親の帰りも遅い。母親は看護師で夜勤もある。父親はと言えば大きな会社の営業職でそれなりの地位にあったおかげで、家を空けることも多かった。その状況と環境は彼女を疲弊させ、ある意味で正常な判断力を徐々に、まるで塊のチーズをそぎ落とすかのようにすり減らしていった。その結果、待ち受けていたのは悲劇でしかなかった。
「ねぇ、アンタでしょ?」
本来ならば怒りをそのままぶつけたいところでも、由香里の心身状態はソレができるほどの気力がすでに無い様子だ。声に力はなく、以前と違って男子生徒の目を見ることもできていない。
「えぇ?何のことよ?」
ここでもそうだ。以前ならば明らかにムカつくような声音の返答にも拘わらず、ムカつきどころか何の感情すらも湧いてこない。そしてそんな自分に驚くことも無い。それはまるで、風の無い静かな湖の湖面よりも波の立たないような、言ってみれば誰も通れないような家と塀の間に出来た水たまりかのように、ただ周りの風景をぼやけて反射させているだけのようだった。
「ナニって・・・す、ストーカーみたいなマネしないで」
「ストーカー?誰が?そりゃ大変だ。俺なら守ってやれると思うけど?」
相変わらず誰が聞いても「とぼけてます」と声音が言っているように聞こえるその声はしかし、由香里の心にはまるで届いていないようで、まるでパソコン画面に文章が表示されているのを黙読しているかのようだ。もしもその場にその声を聞く誰か他の者が居たのなら、事態はそこで止まったのかもしれない。だが、由香里は今1人だ。そうさせたのはどこか後ろめたさがあったからだろうか。それとも単に恥ずかしかったのだろうか?もしかしたらすでに、第三者を同席させるという判断ができないほどに追い込まれていたのかもしれない。話をしているはずなのに相手の言葉も、自分の話している言葉ですらも耳に入ってこない。かろうじて「朦朧としている」という感覚だけが今の由香里に残されたモノだった。
「もういい・・・もぅ、たくさん・・・」
後ろで男子生徒が何かを言っているようだけど、まるで頭に入ってこない。同じクラスの友達に「大丈夫?」や「顔色悪いよ?」と声をかけられてはいるけれど、すでにそれすらも煩く聞こえる。どうしてこうなったんだろう?・・・ああ、そう言えばこの1週間ぐらい、まともに眠れてない。たしか最初は、両親が居ない夜に夜通しかかって来る電話のせいだったと思う。その後いろんなストーカー行為にすぐ気付いて・・・そこからどうなった?・・・ああ、怖くて眠れなくなったんだ。
きっと解決手段はいろいろあったんだろうなって思う。でも今、それを考える余裕もありゃしない。このまま学校に居たとしても何にもならない。まずは睡眠をとらないとイケナイ。
頭の奥深くでどうしてか「気持ちいい」という感情が少しずつ大きくなって、眠っているはずの私を目覚めさせようとしてくる。
「ん・・・」
それは確かに自分の声だった。けれど今まで自分でも聞いたことのない声だ。徐々に覚醒してくる意識と一緒に、身体の奥が熱く熱を帯び始めているみたいな感じ・・・
「あ・・・え?」
「やぁ、おはよう。2回目でお目覚め?」
それは世の中において〝犯罪行為〟に他ならない。由香里の目に映るのは、男子生徒の顔とその男が手にしたスマホ。そしてその向こうにはいつも目覚めたときに最初に見る自分の部屋の天井だ。全身に伝わる感覚で、自分が何も身に着けていないことに気付き、気付きたくもない恐怖に顔が青ざめていく。そして感覚の全ては両脚の間にまとわりつく不快なモノに集約され、おぞましいほどの吐き気に襲われた。
「うわっ!きったねぇな・・・ま、もう手遅れだかんな?バッチリ映像も残ってるからよ」
アタマに届くその声は、まるで人間の声だと認識できていないかのように響いてくる。由香里にとってその言葉は、世界の終わりを告げるアクマの叫びに聞こえた。
朦朧とする意識をムリヤリに引き起こし、由香里は〝その日〟学校を早退していた。なんとか家にまで辿り着いたが、自転車を駐輪するのも一苦労だ。家には誰も居ないことが分かっている由香里は、なんとか鞄から鍵を探し出し、開錠し、家の玄関にまで辿り着いた。だれが彼女を責めることができるだろうか?その背後に人影があるにもかかわらず、家にたどり着いたという安心感は、そこで由香里の意識を途絶えさせた。その先に彼女を待っていたものは、犯罪行為の被害者という立場だった。
きっと悔しさなのだろう。涙を堪えるように言葉を紡いだ里恵が目の前に居る。総司は2度目かもしれないが、初めて聞く華焔もただの一度も言葉を挟むことなく、里恵の口が言葉を紡ぎ終わるのを待った。
「おい・・・華焔・・・なんとか言えよ」
総司はただじっと里恵に寄り添い、里恵が無事に話し終えることができるよう、ずっと里恵の背中に手を回し支えていた。里恵の話している間中、心配だったのだろう、ずっと里恵に向けていた視線を華焔に向けた時、総司がそこで目にしたのは表情を変えることなく、たぶん一番目にすることの多い少し冷たさを宿した華焔の顔だった。
「ん?・・・ああ、すまん。正直言って、どう反応すべきかも解からんね。その男子、名前は分かってるの?」
「ああ、けれど、それを知ってどうする気だ?」
総司の言いたいことは判る。華焔自身、その男子生徒をどうにかしようという考えは持っていない。正直な話、その男を破滅させる手段はいくらでも考え付くのだが、それは自分たちの溜飲が下がるだけのことで、被害者となってしまった由香里に何の影響も及ぼすことはないだろう。
「大丈夫だ。解かってるよ。いつかはそういうこともあるかもしれないけれど、そもそもソレは僕らの役目じゃない。・・・けど・・・そうか」
総司の背筋に、一瞬で凍死するんじゃないかと思うほどの寒気が走った。おそらく見ている華焔の表情は何1つ変わってはいない。それでも、幻覚でも見ているのかと思うが、華焔の両目が青白く輝いているように見える。「ああ、コレがコイツの眼光ってヤツか」と頭の中で言葉が走った。殺気や狂気といった類ではないと判るが、それでも見る側が恐怖を感じるような感情が、明らかに目に宿っているように見えて仕方がない。たぶん〝怒り〟なのだろうとは思うが、そう思っているはずなのにそうだと言い切れない不思議な力がそこにあった。
「か・・・華焔くん?」
どうやら里恵も同じように感じていたようで、言葉と一緒にその小柄な身体までが小刻みに震えている。
「華焔・・・オマエ、表情。自分で分かってっか?俺もだが、見てるコッチが寒くなる」
もしかしたらその表情を見せた華焔を目の前にして、ある意味まともに指摘することができるのは総司だけなのかもしれない。きっと他の誰であっても、里恵の発した言葉程度が限界だろう。目の前に居るのが総司だったからこそ、互いに親友だと認識している相手だからこそ、まるで背中に氷柱を突っ込まれたかのようであっても、その氷柱が背中に張り付き、痛みすら伴わせるような感覚に陥っても尚、総司の心が臆することはなかった。
「ああ、分かってる。けど、勝手になるんだからしょうがないだろ?・・・まぁ、心配するなよ。自分自身に対してだから」
怒りに似ているけれどそうではない。そんな感情が内側で渦を巻いているのがありありと分かる。中川 由香里は華焔にとって手の届く範囲の人物だった。少なくとも華焔はそう認識していた。手の届く範囲ぐらいは護れるようにと、それができるようにと自分の立ち位置を置いてきたはずだった。だがそれはただの自己満足でしかなかったことを突き付けられたのだから、そんな自己満足に溺れた自分を、そう簡単に許せるほど被害は穏やかじゃない。さらに加えて言うのなら、華焔の感じているその怒りにも似た感情をブツける相手は自分でしかなく、話に出てきた男子生徒に向けるものではない。
「表情は変わらねぇか・・・で、オマエはどうするつもりだ?」
「中川が笑って過ごせるようになるってのが優先だろうね。時間がどれぐらい要るのか見当もつかないけど・・・早坂、中川と連絡は取れるか?」
眼に鋭い光は宿したままだったが、華焔の表情がほんのちょっぴりとだけ和らいだように見える。先ほどまで〝総司以外は里恵程度が限界〟かと思っていたが、どうやら里恵も華焔に対する耐性があったらしい。
「電話は出なかった。後はメールで既読が付くかだけど、やってみる・・・会うんだったら表情はいつもの華焔くんでお願いね」
いつもどおりには程遠いが、それでも言葉の後半を紡ぐ頃には、いつもよく見せる華焔に対するいたずらっぽい笑みが僅かばかりか顔を覗かせていた。
それから2日が過ぎた夜、華焔は由香里と話をする機会を得ることができた。場所は外。由香里の家の近くにある公園のベンチだったが、互いに姿を目にすることはない。ベンチに腰掛けた由香里の背後に、背中を向き合わせるように華焔は立っていた。それが条件だった。
泣いているような雰囲気はなかったが、やはり由香里の口から出る言葉の数は少なく、間隔も会話というには長い。自分の感情を整理しながらしゃべっているからだろうか?それとも空白のような頭の中に必死の思いで言葉を浮かべているからだろうか?由香里の受けたショックを思えば、それは仕方のないことなのだろう。
「もう・・・いいの」
「男の人・・・が、怖いよ・・・先輩、でも」
「一緒に、居れない、よ・・・もう・・・」
華焔の口数も決して多い方ではなかったが、由香里から出た言葉はさらに少ないものだった。それでも、2人が外灯の下で共有した時間は2時間ほどにも及んだ。それ以降、華焔が2年生である間に由香里の姿を目にすることは無かった。
年が明け、世界が温かさを人々に届けた。やがて桜が1年に1週間ほどしか見ることの無い鮮やかなピンクをその身に纏い、華焔は3年生に成った。快適に感じていた温かさが、やがて不快に感じてしまうほどに熱量を上げ始めたころ、新しく高校生という生活に馴染んだ1年生の中でも、華焔の存在を特別だと感じる女子生徒が現れ始めた。それは別にどうと言うことの無い、もしかしたら「微笑ましい」とすら感じてしまうかのような日常だ。そして時間が過ぎ、夏の入り口に立ったころ、その日常は徐々に異変を来し、やがて増悪や嫌悪が渦巻く世界へと姿を変えた。
ほぼ全生徒と言って差し支えない。それだけの人数が同じ情報を得れば、それが真実かどうかを置き去りにして、ウワサは事実へとすり替わる。
「中川 由香里を舞原 華焔が人気の無い公園でレイプした」
これが事実ではないと知っている人間が3人だけになるまでに、そう長い時間は必要とされず、その〝事実〟は学校の門を潜り抜け、学校という場所を中心に世界へ広がった。
そして今、そのウワサの中心である学校に刑事が姿を現し、校長を始めとした教師が何名か顔を揃え、そうした〝大人〟たちの中にただ一人、子供というには遅すぎ、大人と言うには早すぎる高校生が1人座している。
「僕の話は以上です」
「・・・いくつか腑に落ちない箇所はあるが・・・キミの話に出てきた2人は呼べますか?」
華焔が目にしてから初めて、刑事の1人が口を開いた。話しの登場人物としては自分を除いて4人居るが、名前を明かしているのは3人だ。そしてウワサの真偽が確定していない今、中川 由香里をこの場にというのは華焔が居る以上考え辛い。
「・・・声はかけさせます。ですが、すでに学校内が少しザワついていますし、何と言っていいか・・・事態が事態ですので、本人たちの意思を尊重したいのですが?」
校長の判断は正しい。華焔はそう思った。ウワサが耳に届いたとき、すでにこういった類の事態は想定出来ていた。舞原 華焔は親友とその彼女に、「今後、何があっても僕に関わるな」と言ってある。もちろんその2人は華焔の申し出に抵抗したが、〝申し出〟にも〝抵抗〟にも互いに応じることはなく、その場は平行線のままに離れた。それ以降、華焔と親友は言葉を交わしていなかった。それは意識的に交わさなかったのではなく、そうさせない状況が彼らの周囲で急速に広がったからだ。華焔が最後に耳にした親友の言葉は「バカヤロウが・・・」だった。
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