第3話 神様の居るところ

 結局僕は長い間、秋穂さんのところで過ごすことになったんだ。ご主人が病院に運んでくれた次の日、目を開けるとそこにはご主人の顔があった。あのときは「誰?」って思ったっけな。けれど、それから僕が病院を出るまでの間、ほとんど毎日ご主人は会いに来てくれた。それは秋穂や孝輔よりも、きっと全部の時間なら長い時間。僕たち動物は人間に思いを伝える言葉を話せないけれど、例えば表情だったり体全体を使って一生懸命伝えようとしてるんだ。そんな僕たちと絆が生まれた人たちは、僕たちのその一生懸命が伝わるんだ。僕とご主人にもそれは芽生えた。ハッキリといつだったのかは分からないけれど、僕は華焔がご主人なんだと知って嬉しかった。よく言うでしょ?僕たち犬は嬉しいと尻尾がブンブンと左右に振れるんだ。ご主人もそれは知ってたみたい。「ウチの子でいい?」って言われた途端、それまでよりも盛大に振れた尻尾を見たご主人の顔がほころんだ。そしてこう言ってくれたんだよ。「喜んでくれてる。僕も嬉しいよ、秋色」って。その言葉が僕の耳に届いたとき、僕は自然とカミサマに感謝したんだ。「ご主人と出会わせてくれて、ありがとう」って。


 それほど悩みはしなかった。むしろ決断としては即決と言っていいほど速かった。華焔が秋色と出会って1週間のうちに、華焔は辞表を提出し、日々の合間をぬって新しい住居探しに没頭していた。それまで住んでいた部屋はいかにも1人暮らしといった間取りで、何より自身で選んだものではなかった。自らの住む場所を自らで選ぶというものは、不思議と心を弾ませるものだ。さらに言えば、例えば恋人と同居ともなれば、家具の配置などでより一層盛り上がることだろう。華焔に恋人と呼べる存在が居たためしはないが、秋色との生活に想いを馳せながら選ぶ住居もまた楽しいものだ。

 秋色が水谷動物病院での生活を終えるころ、2人にとっての新しい住居は家具類の配置も含めて整えられ、それはつまり、秋色を迎え入れる準備ができていることを意味していた。

 「いやぁ~めでたいね」

「そうねぇ。それにしても驚いたわ・・・その歳でよくそれだけ貯金してたわね。仕事も辞めるって言ってたし、私としては随分心配したんだけど・・・」

すでに水谷動物病院の明かりは落とされている。華焔、孝輔、秋穂の3人が話を始めた場所は、若干恒例となっている感がある水谷家のリビングだ。ただこの日はソレまでと違い、華焔の膝の上には秋色の姿がある。まだ仔犬だということも手伝っているのだろう、胡坐に組まれた脚の中央で丸くなって眠っている。3人にはその表情がとても穏やかで安心した様子に見えた。

「まぁ、貯金はだいぶ使い込みましたけど、大丈夫ですよ。仕事の方も何とかなりそうですし・・・ここまで来れたのも孝輔さんと秋穂さんのおかげです」

 華焔は秋色と出会ったとき、「仕事は?」と問われれば「宝石関連の会社で働いています」と答えていた。主にデザインを担当してる部署に所属し、海外への出張も幾度かあったが、それでは秋色との生活に適さない。ただ、それも退職の理由の1つではあったが、根本的にはその会社が一般人へ販売を行う際の方法が受け入れられなかったことが最大の理由であり、自らののデザインしたアクセサリーが、本意とはとても言えない売られ方で誰かの手に渡ることは耐えがたいことだったのだから、この会社を辞めるという儀式はそう遠くない未来に待っていたコトだったろう。それでも華焔が幸運だったのは、そこで生まれた社外における人脈に恵まれたことと、華焔自身のデザインしたネックレスが大きな賞を得たことだ。華焔は宝石のデザイナーとしてその地位を得ていた。いわゆる〝新進気鋭の若手〟という存在だ。

「いくつか大きなトコロと契約もできてるんだろぅ?それで生活していけるって言うんだからスゴイよ。まさかそんな大物だとは思いもしなかったけどね」

〝大物〟のあたりでウィンクしてきた孝輔を見て、今日はアルコールの浸食が早いなとは思いつつ、あえてそんな言い回しをしているだろうと分かってはいても気恥ずかしい。

「大物とかヤメテくださいよ。今はただ、勢いだけの若造ですよ。人に恵まれているウチにしっかりしないとってヤツです」

「ほらほら、孝輔さん?あんまり華焔ちゃんをからかわないの・・・それより華焔ちゃん?しばらくは1週間ぐらいの間隔でアキちゃん診せてね」

〝アキちゃん〟とは当然ながら秋色のことだ。華焔の膝の上で丸まっている秋色に視線を落とした途端、それまでジっとまっすぐに華焔を見つめていた表情が緩む。華焔にしてみれば、秋穂のような美人に見つめられることに妙な恥ずかしさがあったのだが、それから逃れられたことは幾分か幸運だった。

「新しいアパートもこの近くにしましたし、そうさせてもらいます。これからが本番なんで、いろいろと教えてもらえるとありがたいです」

「アキちゃんカワイイけど、甘やかしてばかりじゃダメよ?ちゃんと躾もしないとね」

まだまだ毛綿のような秋色は、コロコロとした目も相まって可愛い。秋色を見てそういった感情を抱かない人間が居るとしたら、それはその人間の感性を疑うべきだと思えるほどの可愛さだ。これからその秋色との生活を考えると、昨日まで胸中にあった〝犬と一緒の生活が初めて〟だという不安感が、実は思いのほか軽かったことを痛感させるかのように、期待感が押し寄せて来る。

 「なんかこう・・・古くからの友人が、初めてできた彼女と同棲するみたいな感じね・・・あっ!そう言えば聞いたこと無かったけど、華焔ちゃんって彼女居ないの?」

「いやいや秋穂、さすがにこの見た目だよ?居るだろ」

思わぬ方向へ飛び火したと言わざるを得ない。実際のところ、華焔は秋穂と並んでも見劣りしない容姿をしているのだから、孝輔が彼女の存在を疑わないのも無理はない。秋穂も華焔の容姿については十分にその魅力を理解しているものの、だからこそ不可解な事実に気が付いていた。

「そりゃあこのイケメンっぷりな上に、アキちゃんに対してで分かる優しさだもの。モテるだろうことは判るわよぅ?でもさ?1カ月ちょっとと言っても毎日顔を合わせてるのに、華焔ちゃんから女性のニオイってしたことある?」

「・・・無い、ね。今たまたま居ないだけ・・・って感じでもないな、うん。華焔くんってもしかして、そういうことに苦労してきた人?」

たぶん、孝輔にしても秋穂にしてもソレは何でもない会話の1つなのだろう。殊更、眉目秀麗でスポーツも出来そうな雰囲気を自然と滲ませている。2年ほど前まで学生だったことを考えれば、彼女の存在は当たり前と考えていい・・・のだが、その存在感がまるで無いのだから、不思議に思うことは何ら不思議なコトでもない。それでもギクリとせずには居られない。

 この1カ月ちょっとで何度か感じたことではあったが、改めて孝輔の鋭さには驚かされる。今日このタイミングまで、華焔の色恋沙汰はもちろん、過去の話に2人が興味を示したことはなかった。それよりも優先すべき内容が多かったという面もあるが、華焔から感じる雰囲気がどこか中性的なものだったことが、3人で談笑していたとしても話し向きをそちらの方向へ向かせなかったようだ。それがこのタイミングで不意にその方向に向かったことに、何か因果を感じてしまいそうだ。

「苦労・・・ってコトはないですが・・・まぁ、いろいろあったと言うか・・・そうですね、簡単に言えば僕の問題ですね」

自身も自然と視線を秋色に落とす。秋色を見ようとしたのではなく、2人の顔を見れないと言う方が正しい表現だろう。

「ねぇ、華焔ちゃん?それって私たちが聞いてもいいこと?」

リビングに突如として漂いだした空気は、膝の上で眠る秋色だけを置き去りに、3人を包み込んでいる。決して暗い雰囲気というわけではないものの、華焔にしてみればその内容は面白可笑しく話せるような類でもない。もしかしたら、雰囲気をさらに悪くするかもしれないという華焔の心中を見透かしていたのかもしれないと思えるような秋穂の問いかけに、まるで内側に「2人なら信じてもいい」と言う華焔と、「いくら2人でも重たい」と言う華焔が顔を突き合わせて議論を静かに交えているようだ。

 時間にしたら30秒程度のことだった。けれどそれは何時間にも及ぶ議論だったようにも思える。その時間のズレに気付いたとき、人間の脳というものは不思議なモノだと思わずにいられない。決して変わることのないハズの時間が、人のウチガワという場所にあってはその流れる速度を変えることがある。それは本当に不思議な感覚だ。華焔はソレを「神の御業」と呼んでいる。

 ほとんどの人はそんな風には考えないだろうが、神様という存在は本来、概念、想像、空想といった類の存在だ。その存在は証明されていないし、誰もがその存在を実在のモノとは考えていない。なのに人間はその存在を明確に意識できている。良いことがあったときに感謝し、悪いことがあったときには助けを求める。何でもない穏やかな日常だったとしても、ふとした瞬間、人は世界の中に神を見出す。それらは大体の場合、人間にどうこうできない現象や事象に対峙したときに自然と人の内側で生まれる存在だ。神様は人間に成し得ないことをする。神様は人の力で太刀打ちできないモノに見出されたりする。そうして人類という歴史の中に、神様という存在は数多く生み出されてきた。

 華焔も世界の中に神様を見出した者の1人だ。華焔が神様を見出したのもやはり、自身でどうすることもできない事象に直面したときだった。華焔が神様を見出した対象は〝時間〟。何をどうあがいても絶対に存在を変えることのできない相手だった。自分の内側でのみその存在を変化させられたとしても、それが現実に作用することは決してあり得ない。その歩みを遅らせることも、急かすことも叶わない。ただひたすらに、〝正しくある〟存在。どれほどやり直したいと思っても、飛び越えていきたいと考えても、神様にその願いは聞き入れてもらえない。それが華焔の思う神様であり、絶対的な存在、半ば諦めといった感情すら抱かさせられる対象だった。

 そこに、現実の世界で華焔が上を向けない理由があるのだろう。ウチガワでの議論を好きにさせながら、その議論にただ黙って耳を傾けている華焔の視線は、膝の上の秋色に注がれたままだったが、その目に映っているハズの秋色が最初から見えていたかと言われれば、秋色も自分の膝も、それどころか、現実に存在してる全てが傷の入ったガラス越しに見えているように不鮮明だ。そして見るものを探し求めた視線の行きついた先は、現実の世界ではなく過去の世界へとたどり着いた。

 いつからだったのか分からない。あまりそんな経験はないが、まどろむ眠りからまるで映写機の画面を切り替えるかのように現実に引き戻された華焔は、眠っていたはずの秋色がジっと見上げていることに気付いた。驚いたことに、それまで振られた様子のなかった尻尾が、華焔の意識が現実への帰還を果たした瞬間に、ゆっくりとだがその存在を主張するかのように大きく振れだしていた。視線の在り方だけで、その目が見ているものが何なのかが解かっているようだ。まだ出会って間もなくとも、秋色の瞳は華焔に前を向かせるに足る優しさを含んだ信頼を映していた。

 「聞いても面白い話にはなりませんよ?」

「あら、この手の話に面白さは求めてないわよ?1か月以上、アナタと付き合ってきたのだもの、華焔の人となりはちゃんと分かってるつもり。それにね?華焔ちゃんがどんな話をしようと、それをどう捉えるかは私たちの心が決めるのよ?」

その声音は優しく、どこか濡れているような感覚すらあった。夏の午後、照り付ける日差しに干からびそうな感覚を覚えたころにやって来た、わずかな温かさすら感じるような緩やかな雨のようだ。今このリビングで言うのなら、孝輔が温かさをもたらし、秋穂が潤してくれているのだろう。不思議と2人に支えられたかのように、ようやく真っすぐに見ることができた秋穂の瞳は、華焔が思い描いていた以上に綺麗だった。それは晴れた日の森の中で、頭上で広がる木々が風で声を上げる時に隙間から降り注ぐ煌めきを宿しているように見えた。そしてその煌めきは形を変え、隣でほほ笑む孝輔の表情に現れている。華焔は、この2人は自分たちの心にカミサマを宿しているのだろうと、その煌めきに充てられたウチガワで考えずに居られなかった。

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