第2話 木々が色づく鮮やかな季節

 僕はこのときのことをほとんど覚えてない。頭の中にある記憶という庭を散歩がてらに歩いてみても、ご主人と巡り会えたときやそれ以前の記憶が存在するはずの場所には、深くて濃い霧が一帯を覆っているみたいに、極僅かな、記憶というものが物質だったとしたらカケラ程度にしか見えないんだ。

 見ることができるのは、顔のハッキリとしない人間の姿と、2匹の生まれたばかりの犬。たぶん兄弟姉妹なんだろうと思う。そして聞こえるのは「コイツはダメだな」という言葉だけ。顔の無い人間が僕に向かって言った言葉なんだろうね。何が〝ダメ〟なのかは分からないけれど、それは僕が生きることを許されなかった理由だったんだ。

 きっとソレは人の世界で僕たち犬に対してであっても許されることじゃないことを、今の僕は知ってる。だって、僕との出会いを誰かにご主人が話すとき、決まってその左手がギュっと強く握りしめられるんだもの。滅多に怒らない主人が、唯一と言っていいほど怒りを持続させているほどのコトなんだから。

 ああ、僕自身はその顔の無い人間に怒ってはないよ?だって、その人たちが僕の誕生を許してくれたのだし、酷いと誰かが口にすることだったとしても、ソレは僕とご主人を引き合わさせたんだから。



 「やぁ、エンリョしなくてもいいよ?ついておいで」

女性獣医が指示した扉を開くと、目の前には2階へと続いているだろう階段に腰掛ける男の姿があった。眼鏡をかけた30代前半ぐらいに見えるその男が浮かべている表情はとても優しいものだと感じる。たぶん、普段から表情や立ち居振る舞いが優しさを含んでいるのだろう、それがとても自然な表情に見える。少しクセの残った髪は黒く、女性が喜ぶような眉目秀麗とは言わないまでも、人好きのする容姿は持っている。そう言えばソレどころではなかったので強く意識はしなかったが、女性獣医・・・つまり目の前のこの男性の奥さんは、恐ろしく整った顔立ちをしていた。可愛いという要素こそ無かったように思うが、その綺麗な顔立ち、スラっとした立ち居振る舞いは「才女」と表現するとしっくりくる。一見すると不釣り合いにも見えるこの夫婦はしかし、外見的な釣り合いを重要視していない〝いい例〟なのだと思った。それほど男性の醸し出す雰囲気は、状況に左右されない温和なものだった。

 自分でも気付かないうちに気持ちが張り詰めていたのだろう。彼から感じる温和な雰囲気は、舞原にとって〝安心感〟となって張り詰めていたものをゆっくりと解き解いていく。舞原の脚は自然と彼の後を追い、目の前にあった階段に足をかけた。

 「僕は水谷 孝輔。よろしくね。下のは僕の妻で秋穂・・・ああ、もし僕がシラフだったとしても秋穂の方が腕は確かだから安心してね?」

リビングだろう部屋に通した舞原に座るように促しながら、孝輔と名乗った男性獣医はキッチンの方へと入っていった。アイランド式のキッチンは綺麗に片付いている。もしかしたら家事を主に担当しているのはこの孝輔の方かもしれないと失礼ながらにも思った。

 「あ、ありがとうございます。僕は舞原 華焔と言います・・・あの、こういう対応ってよくあるんですか?」

アイランドキッチンを回り込むようにして向かってくる孝輔に視線を向けながら、自己紹介と一緒に疑問を口にする。舞原は動物好きを自負してはいるが、これまでに動物と生活を共にした経験はない。当然、動物病院へ足を踏み入れたことはこれが初めてだ。

「・・・ああ、なるほどね。いや、そうそうあることじゃないし、ここに上がったのは君が初めてだよ。それにしてもカエンくん?変わった名前だねぇ・・・字はどうやって書くの?」

「ばあちゃんが名付けたって聞いてます。ばあちゃんは神社の家系だったんで、その影響でしょうね。漢字は〝華やかな焔(ほむら)〟・・・個人的には気に入ってます」

孝輔が最初に口にした「ああ、なるほどね」が気になりはしたが、素直に孝輔の質問に答え、今自分の置かれている状況がかなり特殊なコトであるということを頭で整理していた。

 よく考えれば、舞原を招き入れたのも、自宅(2階)へ向かわせたのも秋穂の方だ。水谷家にとって異常事態であるはずの今の現状は、秋穂によって生み出されたことになる。この夫婦の主導権を握っているのが秋穂だということはなんとなく想像できるが、この状況になることを秋穂に決断させたのはなんだったのだろう?

「秋穂はね?華焔くん。動物の中でも無類の犬好きなんだ。キミはあの子を〝見つけた〟んだろぅ?こんな時間に見つけて〝しまった〟命を助けたいと行動に移した。実はね、華焔くん・・・それが出来る人間はそう多くはない。特にあの子のような状態なら、ね。秋穂にはそれで充分だったろうね」

 頬を伝う一滴の涙が伝えるなんとも言えないこそばゆさに驚いた。なぜそんなモノが自分の目から零れ落ちたのか分からない。ただふっと胸中にあったのは、どこからともなく滲みだした程度に感じた〝寂しさ〟ぐらいだ。それが泣くほどの大きな感情だったなどということはない。起こった事象と自身の感情に上手い折り合いを見出せないまま、若干の恥ずかしさに慌てて袖で頬を拭った。

 それにしても思い違いをしていたらしい。普段会社の同僚や学生時代の友人たちからも、「華焔は表情に出ないから分かり辛い」と言われることが多かった。そして舞原は感じた疑問を口にしていないにもかかわらず、まるでその疑問について会話が成されたかのような回答が、孝輔の口から語られたことに驚く。

 たぶん、孝輔は秋穂に対して大きな信頼を置いている。きっとその逆も同じことなのだろう。互いに信頼を寄せ合っているからこそ、秋穂が信じて舞原を招き入れ、自宅にあがるどころか「泊って行ってもいい」という彼女の意思を尊重するのだろう。秋穂もまた、自分が信用した舞原を孝輔に任せて大丈夫だと確信しているのだろう。舞原はそこに至った考えに、胸の辺りがじんわりと温かくなるのを覚えた。空調が効いていいるからではなく、外は雪が地面を白く染め上げるほどの季節だというのに、まるでよく晴れた春先の心地よい気候の中で息をしているかのようだ。羨ましいというでもなく、舞原はただ「いいな」と心が休まるのを実感していた。

 「いいご夫婦ですね。見つけた病院がココで良かったって思いますよ。信頼し合っているのがよく分かります」

「へぇ・・・頭の回転、速いね。けれど、少しチガウぞ?華焔くん・・・愛し合っているのさ。そしてこんなセリフを言えるのはコイツのおかげだ」

そう言って差し出されたグラスには、内側にたくさんの炭酸が作り出した気泡を蓄えた琥珀色をした液体が適度に注がれている。もちろんその表面は外の雪化粧のように白い泡が琥珀色の液体を隠してしまっている。アルコール類を好む方ではないが、それらに対して高い耐性のある舞原は、差し出されたそのグラスを「いただきます」という言葉と引き換えに受け取った。ふと孝輔の顔に目を向ければ、ほんのりと赤味を帯びてはいるものの、果たして言動に影響を与えるほどなのかと訝しむことができそうな意思のある目をしている。その視線に気付いた様子の孝輔は、少し照れくさそうにしながらも自分のグラスを舞原に向けて「お疲れ様」という言葉を添えて差し出した。リビングに小さくとも心地よい〝チンッ〟という音色が響いた。

 「なるほどね・・・捨てるにしてもあまりに惨い。でも華焔くん・・・キミは犬を飼ったことがないね?覚悟はあるのかな?」

駅のホームに降りてから水谷動物病院にたどり着くまでを語り終えた舞原に、それまでとは明らかに異なる厳しい表情で孝輔は問を発した。語り終えた喉を潤そうとビールを口元にまで近付けたところで丁度「覚悟」という言葉が聞こえ、グラスの傾きがピタリと止まった。先ほどの「ああ、なるほどね」はこのことだと頭の中で誰かが告げている。

「覚悟・・・ですか?」

「そうだ。キミは一人暮らしなんじゃないかな?名古屋の口調より関西よりの口調を端々に感じる。だったら猶更なんだが、キミはあの子の〝今〟を助けてどんな〝未来〟を与えるつもりかな?」

どうやら孝輔にもアルコールに対する高い耐性があるらしい。舞原の言動をよく見ている。舞原は愛知ではなく三重県の鈴鹿が出身地ではあるが、母親が関西の出身だったことで、鈴鹿で生活をしていた頃でも「大阪の人?」とよく聞かれたものだ。名古屋に生活を移した後は、仕事での影響も考えて言葉には気を付けていたのだが、孝輔はそのわずかな違いを見逃してはいなかったらしい。そのこと自体は感心こそしたが、実際に舞原の心に突き刺さった言葉は後半にあった。それは舞原が人生において尊敬してている祖父から受け継いだ言葉に符合している。「どんな未来を与えるのか」という孝輔の問いは、想像するよりもはるかに重く舞原にのしかかった。

 自他共に認めていることだが、頭の回転速度は一般的(というモノがあればだが)よりも速い。舞原の頭の中は、アルコールが微塵も影響を与えることができないほどに、速く、静かに回っている。それは例えるなら、軸がブレることなく高速で回転するコマのようだ。その様子を遠目から見たら、回っていることにすら気付かないほどだろう。そしてそのコマに近付こうものならば、回転がその対象を弾き飛ばしてしまう。

 現実の時間にすれば10秒足らずの静寂は、しかし舞原にとっては時間が引き延ばされていたようで、熟考していた体感時間としては20分ほどにも感じられた。その大半を占めたのは祖父の言葉だ。

「強さの無い優しさは偽善でしかない」

その言葉は舞原 華焔という1人の人間を構成している人格の核を成している。あの仔犬をただ「助けたい」と願い、その願いを叶えるために行動を起こした。ナゼそんな状況にあったのかを考えることもせずに。そもそも何かの病気にかかっているのだとしたら?現に、これまでたくさんの病気と向き合ってきたはずの獣医が一瞬たじろぐほどの状態だったのだから、そうした類・・・そもそも命に係わるキケンを背負っている可能性は高い。すでにあの仔犬を引き取るつもりはあるが、端的に言ってしまえば、そんなハンデを背負っている子を一人暮らしの何の知識も経験もない21歳の若造が支えていくことができるのだろうか?気持ちの問題ではない。具体的な現実の話だ。

 世間一般を見れば分かることもある。犬は確かに癒しをくれる。だがそれは無償ではない。その存在を養うという対価を支払う必要が人間にはある。そのことに気付かず、出会ったときの可愛さだったりという勢いに任せた場合の結果が、あの子だった可能性もある。あの子を捨てた人間を少しでも考えてしまえば、際限が無いかもしれないと感じるほどの怒りが湧いてくるが、自分はもしかしたらそれよりも惨いことをあの子に与えてしまうかもしれない。仕事に出る必要のある舞原には、たとえ今、あの子が生きることを許されたとしても、人生を歩むことを拒まれそうになったときにそばに居てあげられる可能性は50%程度でしかないだろう。

 50%を可能な限り100%に近付ける。これが出来なければ、その瞬間までどれほどの優しさを注ごうとも、その瞬間に裏切りと成り、あの子に残るのは「見捨てられた」という悲しみになることは十分に考えられる。

 一度優しさを見せたのならば、その優しさを途中で覆してはならない。それはどちらかが死ぬまで続く。舞原の祖父はそう華焔に教え、自らそれを体現して見せた人物であり、舞原自身もそうであろうとこれまでを生きてきた。それは言い方や見方を変えれば、100%を維持できないと思えるのなら〝優しくしない〟ということだ。

 まるで深い眠りから覚めたようですらあった。まどろみの中に身を沈めていたかのような感覚すらある。けれどそれはもしかしたら良質な睡眠だったのかもしれない。妙にスッキリとした感覚が舞原の頭を支配していた。

「ありがとうございます。おかげで覚悟が持てました。あの子が、僕と出会えて良かったって思える未来、それがあの子だけじゃなく、僕にも必要だ」

舞原の覚悟が確固たるものに変わったことが、その表情にも表れていたのだろうか?対面している孝輔が毒気を抜かれたような表情へと一変している。けれど、その視線がまっすぐに自分を見ていないことに追加で気付いた瞬間、背後から声がかかった。

「孝輔さん?あんまり脅しすぎちゃダメよ?まぁ、でも、おかげで彼の心も決まったみたいだけれど」

「どうだった?」

「う~ん・・・その前に一杯いいかしら?・・・ああ、大丈夫よ?今できることは全てやったわ」

ほんのりと安堵の表情が孝輔に浮かんでいる。それがあの仔犬の身を案じてのものなのか、もしかすると秋穂が悲しむような結果にはならなかったことに対するものなのかもしれない。孝輔は優しさの滲む表情のまま、冷えたビールが注がれたグラスを秋穂に差し出した。

「ふぅ~・・・さってと、キミ・・・孝輔さん、名前聞いた?」

「ああ、彼は舞原 華焔くんだよ」

「華焔くんね。話し、いいかしら?」

改めて見ると、やはり秋穂はかなりの美人だ。時間が時間だから当たり前だが、スッピンでこれだけの感想を抱かせるのだから、舞原にとって過去に前例がないレベルだ。普段からそうなのかは定かでないが、ほぼポニーテールにまとめられた髪は、それでも肩甲骨の辺りを過ぎるほどの長さだ。先ほどまでは白衣に目が行って気が付かなかったが、マイクロフリースだろうか?暖かそうな寝間着姿にも関わらず、不思議とスポーティーな印象を投げかけて来る。さぞかしモテたであろう秋穂に対して、本人の意思や想いと関係なく争奪戦を繰り広げたであろう男性陣が容易に想像できる。

 「正直言って、あの子に何か致命的な病気があるということはないわ。けれど、あのサイズだけれどすでに生まれてから3か月以上経過してる。そこに捨てられた原因があるのかも・・・ただ今の現状は現実よ?その現実を変えることができるのは・・・イヤだけどお金。さて、キミはあの子をどうするのかしらね?」

どうやらすぐに命を落とすような事態は避けられたらしい。そして秋穂は理想だけにとらわれるような人間でないことも分かった。

 あの子は全身の毛が無かった。けれど、秋穂の診断ではそれは病気の類ではない。とは言え、すぐに病院を出れるとも思えない。ようするにに入院ということになるのだろうが、そこ費用が発生する。衰弱が激しいと考えられるあの子の状態を考えれば、その日数がどれほどに、そしてその金額がどこまで高額に上り詰めていくのか、経験も知識も無いのだから想像のしようもない。

「もう〝あの子〟じゃないですよ。9月21日に生まれた子で名前は〝秋色(あきいろ)〟鮮やかな色彩の季節に生まれたウチの子ですよ」

 祖父の言葉を裏切りたくなかった。今や自分の中心を成すその言葉を違えたくなかった。そんな気持ちも多少はあっただろうけれど、本質はもっと単純なことだ。地下鉄で秋色を見つけた瞬間から抱いていた願い。「助けたい」という願い。それは今を助けるのではなく、秋色の一生を助ける・・・いや、正確には助け合っていく。それを叶えることができるのが自分なんだと気付いたとき、秋色はその名と誕生日、そして家族を得た。

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