恋会(こえ)

@jm-system

第1話 雪の降り始めた寒い夜に

 僕は人間が言うところの〝犬〟だ。これまた人間が言うところでは〝パピヨン〟という犬種らしい。僕は自分のことを「僕」と言ってるけれど、分類は〝メス〟だ。一人称が「僕」だったり、言葉の端々が雄っぽかったりするけれど、それは僕のご主人の影響なので気にしないでほしい。

 ご主人の名前は〝舞原 華焔(まいはら かえん)〟と言うちょっと変わった名前。今僕は、ご主人の帰りを自宅で待っているところだ。

いつも、3階建てのアパートの前を歩くご主人の気配を察すると、僕は嬉しくなる。玄関の前で座って、その扉がゆっくり外の世界を覗かせる様子が好きだ。そしてなにより、大きくなっていく外の景色に扉の向こうから姿を現すご主人が大好きだ。

 ご主人は(勝手に)大きく振れている僕の尻尾を見て顔をほころばせる。僕の尻尾は毛が長くて、細かくウェーブしている。嬉しいときに(勝手に)振れる毛はどことなく世話しなくて、ときどきご主人の笑いを誘うことがあるみたいだけれど、ご主人が丁寧に手入れしてくれる僕の尻尾は、草原で草花をゆっくりと揺らめかせるそよ風のようで、それを見たたくさんの人に「綺麗」と言ってもらえる。そんな尻尾を、ご主人が玄関で膝を着くと同時に、今度は疾風のようになびかせてご主人に飛び込むのが何よりも好きだ。

 僕はその瞬間を、長い時間待っている気がする。

 僕の名前は〝秋色(あきいろ)〟。ご主人にもらった名前だ。けっこう気に入っている。前にご主人に教えてもらったけれど、将来は4匹で一緒に暮らしたい願望があるらしい。そしてその子たち3匹の名前もすでに決まっている。〝春香(はるかおり)、夏光(なつひかり)、冬静(ふゆしずか)〟、そう、四季だ。僕がその中で秋をもらったのは、たぶん生まれたのがそれぐらいの季節だったから。そして僕がご主人と出会ったのは冬だった。

 これは僕の物語じゃあない。断片を知っている人は居ても、全てを知っている人は居ない、僕のご主人の物語だ。

 どこから話そうか・・・そうだね、まずは僕がご主人に出会ったところから話そうか。あれはひどく寒い夜だったけれど、ほとんどの記憶は僕には無くて、後から聞いて知った出会いだったんだ。



 「えっ・・・?」

名古屋の地下鉄、最終電車が過ぎ去った人気の無い寂しいホームから日中はそれなりに人通りのある地上へと至るための階段の出口付近には、まるで地上と地下、2つが別々の世界だと言わんばかりの境界線がある。地下鉄が人を運ぶ役目を終えた後、次の日に再びその役目を始めるまでのわずかな時間に、その境界線は重い鉄格子の扉で隔絶される。年末も近くなったその日、務める会社の同僚と仕事終わりに遊びに興じた舞原は、ギリギリで飛び乗った最終電車で一人暮らしをするアパートの最寄り駅に降りた後、かろうじてまだ地上と地下がつながりを持っている間に、その境界線を潜り抜けようとした。

 普段この駅を活用するときの人の賑わいがウソのように静まり返ったその階段には、後にも先にも舞原1人しか歩を進める者は居ない。正直、人2人分を隔てた程度の距離でも、そこにソレがあることに気付かなかった舞原は、しかし境界線をまたいだ直後に、明かりはあってもどこか薄暗さを感じずには居られないその形容し難い空間に鳴り響いた「ガサっ」とい音に身を竦めた。

 普段なら感じるはずもない気味悪さに加え、予報で知っていたとは言え、着ている衣服を貫いて刺さるような寒さも手伝って、竦めた首が伸びることもなく、どこかぎこちない様子で首をゆっくりと左斜め後方に向けると、音を発した正体だと確信できるソレがそこにあった。

 どこにでもありそうな、どこのスーパーでもレジで渡される見知った乳白色のビニール製の袋だ。明らかに何かが中に入っていることを、その膨らみが教えてくれる。いつもなら地上から吹き込む多少の風が駆け下りたり、電車の往来が生み出す風圧が駆け上がることもあるが、今日に限ってはそのどちらも身に感じていない。それでも音がしたということは、その膨らみを形作っているモノは動くということだ。舞原の脳裏には、ソレの中身が何であるのかの想像が1つ明確にあった。

 舞原は思わずその袋の真下へ視線を向けた。舞原の想像どおりのシロモノなら、それがダンボールに入れられて、その境遇を理解している悲しげな視線を舞原に送っているところだろうが、視線を向けた先に想像の中にあるソレは無い。再び視線を上げ袋をよく見れば、本来は手を通す場所であるはずの部分で柵になっている箇所に固く結びつけられている。

 「カサ・・・」

再び、しかし今度は微かに、スーパーの袋だということを自己主張する特有の擦れた音が聞こえた。舞原の胸中にあったはずの〝怯え〟はすでにそこから立ち去り、代わりにそこに居座ったのは〝焦り〟と〝怒り〟だった。すぐに袋に手を伸ばし、その結わえられている箇所に指を当てるが、固く結ばれていることに加え、寒さでかじかんだ指が結わえを解く作業を思うようにさせてくれない。結わえ方の妙もあって、隙間から中を垣間見ることもままならないことが、舞原の内にあった焦りを加速させ、先ほどまで・・・いや、今も感じる寒さがまるでマヒした感覚であるかのように、舞原の額に汗を滲ませた。

 「くそっ・・・」

手袋のないただの左手を無造作にコートのポケットに突っ込み、中にある2つの物体を急いで取り出す。2つの内片方がポケットの口にひっかかり、明後日の方向へ弾ける様に飛んでいくと、壁や鉄柵、さらには床と音を奏でながら転げ落ちていく。ただソレがたばこの箱だということも分かっているし、本来の目的がソレではないこともあって見向きもしない。目的の品は、手のひらに収まるサイズの黒い円筒状の物。プラスチックとアルミで表面を構成され、円筒の片方を指で押し開くことで、まるで戦闘機のアフターバーナーかのように炎を吹き出す〝ターボライター〟だ。

 いつもの相方であるタバコの方はすでに床で静かに座している中、ターボライターは「火を放つことが仕事」と言わんばかりに、舞原の手から炎を走らせている。その火柱を結び目に当てる直前、残された右手にも仕事を与えるかのように袋の口をしっかりと握った。

 それは瞬間の出来事だった。火柱が直接結び目にあたるよりもわずかに早く、舞原の鼻にビニールが焼け溶けるイヤな匂いがしたかと思うと、袋はすぐに右手にその身を預けてきた。それほど経験があるわけではないが、思っていたよりも軽い。ターボライターがその役割を終え、再びポケットの中へ身を潜めると、間髪入れずに両手で袋を抱えるようにして自身もその場へ腰を下ろし、正座のようになった自分の太ももの上でようやくに袋の口を開いた。

 「こい・・・ぬ・・・?」

見る限りは仔犬というより赤ちゃんと言った方が近いサイズだ。そして何より、舞原がソレを犬だと明確に認識できなかったのには別の理由がある。どう見ても、本来ならあるであろう〝毛〟が見当たらない。理解の追いついていない舞原の手の上で、ソレがピクリと体を動かした振動にハッと我に返った舞原は、その弱弱しい瞳がじっと自分を見上げていることで、それが助けを求めていることと、生きることを諦めていることを同時に理解した。

 首に緩く巻いていたマフラーを、首とマフラーが擦れることも気にせずに片手で引き抜くと、毛の無い、今にも命の灯が消えるのではないかという生物を包み抱きかかえた舞原は、すぐさま視線を階段の先、すでに深夜だと言うのにまだわずかに雑踏の残る地上へと階段を駆け上がった。まだ22歳という若さと陸上部で鍛えられた脚力が、初段から2段ほど飛ばして、あっという間に地上から見た場合の〝本来の〟地下鉄入り口にたどり着いた。

 ひどく寒い。電車に乗る前に同じように外で感じた寒さよりも気温が下がっているようだ。自分の手の内側にあるマフラーの塊のさらに内側に在る生命に、この気温が悪さをしないかと心配な視線を落とすと、その手に白い綿のようなモノが舞い降り、すぐに水滴に姿を変えた。周囲に視線を向けると、辺り一面がうっすらと白く塗り替えられている。見上げれば、舞原の手に舞い降りたモノと同じものが、避ける隙間など与えないと言わんばかりに次々と舞い落ちて来る。雪だ。

 一瞬カバンの中に常備している折り畳み傘を取り出そうかとも思ったが、そのために生じる動作ですら時間が惜しい。うっすらと道路に積もり始めた雪に足を取られないよう、しっかりと足の裏で地面を感じ取りながら走り出した舞原は、移動しながら辺りを確認しつつ、頭の中にあるこの辺り一帯の街並みを必死に思い出そうとしている。検索目標は〝動物病院〟だ。見つけたところでこの時間に空いているわけもないが、病院によっては緊急の連絡先ぐらいあるだろう。

 いくら動物好きだとは言え、現状で何か動物を飼っているわけでもないのに、日ごろから動物病院の所在地など気にしているわけもない。頭の中にある様々な記憶の引き出しを、まるで空き巣泥棒かと言わんばかりに開け放っていくが一向に見つからないまま、それでも脚は陸上部現役であるかのように回転し、目が周囲の建物を矢継ぎ早に確認していく。

 「あった・・・」

舞原の視界がとらえたのは看板だ。そこには〝水谷動物病院〟の文字が黒くしっかりとかかれているが、その看板は往来2車線の道路に阻まれている。信号のある交差点はまだ少し先、振り返ってみれば後方の交差点も同様に距離がある。トータル的に幸いと言っていいのかは分からないが時間は深夜だ。こと〝道路を横断する〟という行為に対しては、この時間だからこそ車の往来がほとんど無い。見える限り往来どちらからも車のモノと思しきヘッドライトの明かりが見えないことを確認すると、目の前でそれでも通せんぼをしようとするガードレールを一足飛びに飛び越え、対岸に向かって走り抜けた。

 途中一度だけ、白線の上に積もった雪にわずかに足を滑らせたが、足を完全に下ろすよりも早くそこが白線だと気付いたことで、滑ることを想定して体制を整えることができた舞原は、数分間(だろうか?)走り続けたおかげで途切れることが無いとばかりに口から吐き出される白い息もそのままに、当然のように入り口であるまどの内側に下ろされているブラインドを下地に、ガラスに印字されている文字に目を走らせる。

 「よし、あるっ!」

姉に生まれた赤ん坊を抱いたときのように、右腕全体を使ってしっかりとマフラーとその中の生命を抱くと、すぐさまズボンのポケットに手を滑り込ませ、今度はスマホを引きずり出した。一瞬、寒さのせいで上手く操作できないかと訝しんだが、思っていた以上に体温が上がっていたのだろう、難なくガラスに〝緊急〟という文字の後に続けて書かれている番号をタッチする。スマホから聞こえてくるコール音が、〝期待〟と〝焦り〟を代わる代わるに告げられているようにさえ聞こえてくる。おそらく走ったからだけではない熱量が、コートや衣服によって逃げ場を失っているのだろう。体のあちこちで汗ばんでいるのを感じ始めたころ、通話が開始されたことを告げる声が耳に届いた。

 「はい、水谷動物病院です。救急ですか?」

女性の声がした。緊急と書かれた番号にかけているのだから救急に決まってるだろうと思いながらも、そんなことを言っている場合ではない。

「はい・・・こんな、時間にすい、ません・・・たす、けてほ・・・しい、命、が、あります・・・」

思っていた以上に心拍が上がっているらしく、呼吸が上手く整ってこない。吸い込んでしまう冷気も言葉を紡ぐ邪魔をする。話したい言葉の合間に割り込んでくる息遣いが(自分のだが)無性に煩わしい。

「・・・すぐに開けます」

電話口の向こうの女性は、ほんのわずかな間を置いてそれだけ告げるとすぐに通話を切った。「すぐに」とは言ってくれたが、ここまで来るのにどれぐらいの時間がかかるのだろうかと考えると、その合間にも過ぎ去る1秒1秒ですら惜しく感じる。

 抱き抱えている右腕の手首に巻かれている時計を、わずかに角度を変えて見ると深夜1時を過ぎている。そんな時間に対応してくれそうな病院に1つ目で当たったことに感謝した瞬間、視線を向けていた右腕の辺りが、抱えているマフラーごと明かりに照らされた。顔を入り口の方へ向けると、シュルシュルと巻き上がっていくブラインドの向こうに、足元から女性が姿を現した。まだ若そうに見える。先ほどの電話口の女性だろうか?この人が獣医なのだろうか?

 「私も夫も獣医です。まずはまだ寒いですが中にどうぞ」

招き入れられるままに入り口を超える。「まだ寒い」と言ったのは室内のことだろう。エアコンが勢いよく唸りを上げ始め、これから室内を適温にしようと働き始めたばかりのようだ。

「さぁ、見せて。ここに乗せてくれるかしら?」

獣医だと名乗った女性に言われるがまま、動物用の診察台の上にそっとマフラーを乗せた舞原は、まるでそうしないと壊れてしまうとでも言うように優しい手つきでその包みを解いていく。そこに姿を現したその生き物は、さすがにその獣医にも想像できなかったらしく、「えっ・・・」という絶句にも似た声を発した後、それでもさすがに獣医なのだろう、おそらく心臓だと思える辺りにそっと人差し指の腹を添えた。

「息はある・・・少し時間がかかると思うわ。貴方はそこから入って上に上がっていなさい。大丈夫よ?上には主人がいるから。お酒飲んでるけどね・・・貴方、明日は仕事?」

そう話している合間にも、そこここから何やら医療器具らしきものをかき集めている。舞原の方には視線もくれないどころか、「そこから」といって示した方向には後ろ手に指した扉があるだけだ。

「え?あ、いえ、明日、明後日は休みです」

そう答えながら着ていたコートの前ボタンを外す。吹き付けるかのようなエアコンの送風が、温かさを伝えて来ると同時に汗ばんだ体に心地いい。

「そう。なら泊まってってもいいわよ?」

「・・・え?いや・・・と言いますか、どうしてそこまで・・・」

「貴方はこの子を「助けてほしい〝命〟」と言った。それで十分よ・・・さぁ、私にこの子を助けるだけの集中を頂戴。ホラ、行って」

 舞原がこの動物病院を訪れるのはこれが初めてだ。もちろんこの女性獣医とも面識はないし、おそらく苗字であろう水谷にも思い当たるところはない。住んでいるアパートはここからそれほど遠いわけではないが、あまり足を運ぶような方向でもないのだから、こちらが気付いていないだけで見知っているということもないだろう。現状では確かに医者と患者の関係性ではあるが、まったく見ず知らずの男が連れてきた何とも判別できないような状態の犬らしき生物をホンキで助けたいと思っていることは、この短いわずかな時間の彼女の振る舞いで信じれたような気がした。その女性獣医が指示した扉の前まで歩を進め、一度扉に手をかけようとしたところで思いとどまり、改めて女性獣医の背中を見た。その向こう側には、見えないがホンキで〝助けたい〟と願った小さな命がある。舞原は女性獣医の背中に向かって深く感謝の意とともに一礼をすると、思い留まっていた扉に手をかけ、その向こう側への入り口を開いた。互いに見えては居なかっただろうが、まるで舞原が頭を下げたことを見ていたかのようなタイミングで、女性獣医の口元には笑みが浮かんでいた。

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