5. 赤い錠剤
ナツさんの部屋から飛び出し自分の部屋に戻った後、もう出ることはなかった。
考えることを放棄し、たまに時計を見ては舌打ちするように過ごした。
何も食べずに数日経っているが、薬のせいか、食欲はなく、空腹も全く感じなかった。
改めて考え直すために与えられた、最期へ向けての緩やかな変化の時間が、煩わしかった。
そして、躊躇なく黄色い錠剤を飲み、自室での最後の夜に目を閉じた。
その夜、とても長い夢を見た気がするが、起きると何も覚えていなかった。
◆
間延びしたAIの最終確認を終え、赤い錠剤を手にする。
その錠剤を飲むのは、壁が白いタイル張りで、床は緑の滑らかな素材の、灰色の樹脂製ベッドがギリギリ収まる狭い部屋だった。壁際を這うように太い排水溝がある。
洗い立てなのか、ほのかな湯気と、洗浄液の清潔な匂いが部屋を満たしている。
部屋は、画像で見たことのある、屠畜場を連想させた。
使い捨てである不織布製のガウンを裸に着けて、錠剤と、水の入った紙コップを両手に持ち、準備を整える。
黄色の錠剤が効いているのか、手がやけに重く感じ、持っているのがやっとだった。
あとは、錠剤を飲み、ベッドに横になるだけとなる。
赤い錠剤は、これまでと違い、即効性がある。
これまでの時間を考えると、最後があまりにも呆気なくて驚く。
◆
準備が終わっても、最初は何も感じなかった。
しかし、狭い部屋で一人立っていると、どこからか漠然とした不安が沁み出してくるのがわかった。
そして、唐突に死への実感が襲ってくる。
恐怖の黒い手に心臓を掴まれる。
寒い。歯がカチカチと鳴る。
死んだ後は何もない、無の世界だという考えが、冷酷な現実を前にして崩れ去る。
何かに縋り付きたい。みっともなくていい。
今なら引き返せると、もう一人の自分が言う。
「まだ間に合う」その声が警報のように繰り返される。
手に持った、自分に引導を渡す錠剤がひどく重い。
なぜ、こんな結末を迎えなければならないのか。
雲のように湧いた疑問が、これまでの決断を覆い隠す。
冷静に考えると、間違っていたのではないか。
生物としての本能が、生を求める。
その本能が、明るい方へと少しずつ後押しする。
止めよう。
その思いが小さな光を灯す。
やり直そう!
そう決心すると、途端に疑惑の雲が晴れた。心は明るくなり、極端に狭くなっていた視界が広がる。
周囲が、これからのすべてが、白日の下、見渡せる気がした。
なんて、清々しいのだろう。
今まで抱えていた暗い気持ちが、馬鹿みたいに軽く感じた。
なんでこんなことに悩んでいたのだろう。
部屋を監視しているであろう撮影デバイスに向け、中断を宣言しようとした。
胸を張り、呼吸を整える。
ふと、水滴の落ちる音がした。
気のせいだと思ったが、また、音がした。
不吉で不気味な音。
視線を下げると、指先から漆黒の液体が、水面のような足元に落ちていた。
一定の間隔で落ち続ける漆黒が、徐々に周囲を染めていく。広がった漆黒が、また闇を呼び戻す。
そして再び訪れた闇の中で俺は理解する。
この黒い液体は、溶け出した自分自身だと。
闇に染まっていたのではない。俺自体が漆黒の闇だったのだと。
もう引き返せない。引き返しても何も変わらない。そう悟った。
怒りに似た感情が、力ない腕を奮い立たせる。
クソッ! クソッ! クソッ!
なんでこんなことになったんだ! どこで間違えた! 何がいけなかったんだ!
感情が怒りと後悔に支配される。
それ以外は、もう何も考えられない。
自分の行動が、自分の意思とは関係なく進められていく。
気が付くと、俺は、錠剤を水で流し込んでいた。
◆
ベッドに上向けになる。
何も考えないようにしないと。
見ているものに意識を集中させる。
最期の光景が、無機質な天井と、蛍光灯だとは。
顔の筋肉が少しだけ緩んだ。
目を閉じた感覚はなかった。
閉じた瞼の端から、一筋の涙が伝って落ちた。
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