第3話 対話
玄関の前でもまだ躊躇いがあった。
(襲ってくるようなことがあったらどうしよう。)
正気の相手ではない。そう思うと、ポケットのスタンガンを確認する手が汗ばむのを感じる。
(でも、ここまで来たら引き返せない。)
意を決して玄関チャイムを押した。
ドア越しに遠くバタバタと音がして、ハーイという返事とともに、ドアが開けられた。男はバスローブ姿だった。
(バスローブ。)
「あの、隣の佐藤と言いますけど。ちょっと声のほうが。なんていうか。」
本人を目の前にすると、やはり強く言えない。
「えっ、何のことですか?」
男は、顎に手をあて考え込む表情をしている。
(そっちのパターンか。)
どうやら、すんなりと解決しない道へと進むようだ。面倒なことになった。奥歯で苦虫を噛み潰す。
「いや、高橋さん、ここ数週間、夜とか、休みの日とか、大きな声出してないですか?」
「数週間も?ずっとですか?」
高橋の表情は分からないな、と物語っている。
(このバスローブ!
っていうか、なんでバスローブ? 風呂上がりに床に大声で叫ぶ儀式を行ってるの? 安眠への導入剤代わり? 明日への活力?
どちらにしろ、狂気のナイトルーティンだ。)
◆
(なんだこのお隣さん。わざわざ夜に難癖を付けに来たのか。)
伏し目がちな女性を前にして、高橋は思う。
何度か挨拶を交わした程度の付き合いだが、いつも低い声でボソッと応える印象がある。
(ただ、少し前から始めたことでいうと。)
そこでハッと気付く。
「ああ!異世界転移ですね!」
◆
一瞬、時が止まった。
(私は今、本物を目の前にしている。)
心の中では、思い切った選択の後悔と自責の念が、グチャグチャに入り混じっている。
佐藤の絶句をよそに、高橋は続けて言った。
「頑張ってるんですけどね。なかなかあと一歩、進めなくて。
でも、声出ちゃってたかー。すみません、ご迷惑おかけして。」
(出ちゃってた? 漏れ出す声の大きさじゃないよ!)
心臓から恐怖が漏れ出すようだ。小刻みな震えが止まらない。
「……気をつけてくださいね。」
一刻も早く、狂気のバスローブ男の前から立ち去り、自分の部屋に逃げ帰りたかった。引っ越しも検討するべきかもしれない。
◆
玄関を開けると、上の階で男女の話し声が聞こえる。
階段を上がると、バスローブの男性と、コートを着た女性が向かい合い、ちょうど話しを終えたタイミングのようだった。気懸かりなのは、うつむいた女性が小さく震えていることだが。
「どうかしましたか? 下の階の野垣ですが。」
こちらに向けられた女性の恐怖に引きつった顔が、一瞬、安堵の表情に変る。しかし、すぐにその表情は険しい警告に切り替わり、頭が小さく横に振られている。「関わらないで」と言うように。
「こんばんは。」
男の方は呑気に挨拶した。
「ちょっと、うるさくしちゃってたみたいで。
野垣さんは、何か御用ですか?」
(女性の様子は気になるが、今の私には優先すべきことがある。)
「つかぬことをお聞きしたいのですが、今、部屋の中で何かされていませんでしたか? 例えば、そう、頭に何か装置を着けて。」
言い終わるや否や、男は明らかに動揺を見せた。可能性は高い。
「そう、例えば、違う世界へ行くための儀式とかね。」
野垣の眼光が鋭く光る。
◆
野垣が階下から現れたとき安堵した。
軽く後ろに流したロマンスグレーの髪、落ち着いた色味のジャケット、理性と知識を称えた表情。一目で信頼できる人だと感じた。だからこそ、善良な野垣を、目の前の高橋と関わるべきではない、巻き込みたくないと思ったのだ。
しかし、状況は一変した。野垣も高橋サイドの人間だったのだ。
そして私は、異世界を口にする世代の違う狂人ふたりに、逃げ道を塞がれているのだ。
(挟まれた。)
小さな希望は、深い闇の底へ落ちていった。
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