第2話 階下

 久々に部屋の電気をつけると、物と生活感のない部屋が現れた。代わり映えのしない光景だ。

 私は、そのほとんどを研究室で働いている。いや、暮らしていると言った方が適切かもしれない。

 溜まった郵便物に素早く目を通し、くたびれたボストンバッグの中身を入れ替える。帰宅した際の決まり事を淡々とこなしていく。いつもと変わらない決まった行動。

 ただひとつ違うのは、以前は上の階からこのような異音は聞こえなかった。


 今、私の頭上には、上階の住人の祈りにも似た叫びが浴びせられている。明らかにこちらに向けられている。いや、これはエールなのか。わからない。そもそも床に大声を発する状況が想像できない。狂気。純度の高い狂気。呪詛の可能性もある。

 本能の警戒ランプが赤く点灯する。ダメだ、このまま浴び続けると精神に異常をきたす。すぐに部屋を出なければ。


 玄関に向かおうとしたそのとき、かつて経験したことのない違和感、漠然とした空間の異変を感じた。目視では確認できないが、何かが確実に起こりつつある感覚。

 そして、その予感は現実となった。

 しかし、目の当たりにしていることを説明できない。なぜなら、実際に目の前の空間が割れた経験などないからだ。

 目の錯覚という気もするが、はっきりと空中に存在する、こぶし大くらいのソレに焦点が合う。ブラックホールはその周囲に甚大な影響をもたらすというが、部屋の中は張り詰めた緊張感と静寂に包まれたままだ。上階からの叫びも変わりなく続いている。


 無意識に記憶のページが、突風に吹かれたように音を立ててめくれる。


「丸山先生。」


 ◆

 

 かつての恩師は天才だった。いや、天才が歪み捻れて、万人の手の届かない境地に突き進んでいたのだと思う。

 ボサボサの白髪に、ズレた眼鏡、極端な猫背の身体を皺くちゃの服で無造作に覆っていた。ただその外見とは裏腹に、研究、論文の不備に関する指摘は、伝説の辻斬りのように、正確に、無慈悲に行われた。


 そんな恩師の研究が、意識と時間を主体とした現次元からの脱却だったらしい。らしいというのは、理解できる者がいなかったからだ。他者に成果の共有できない研究は当然評価されず、その地位に固執しなかったこともあり、先生はいつも鼻つまみ者として扱われていた。本人は全く意に介さない様子だったが。


 交わした会話の記憶も朧げだが、一度だけ逆鱗に触れたことを鮮明に覚えている。訪ねた研究室には人の気配がなく、持参した書類を片手に、時間を持て余すように周囲を眺めた。分厚い暗幕の隙間から差し込む光が、宙に漂うホコリを際立たせる。乱雑に配置された机の上の、積み上げられた本、ファイル、書類、未完成の機械、部品、工具、殴り書きのメモ、筆記具が、照らされその陰影をつける。正直、呼吸することが躊躇われるくらいの乱雑さだ。

 そんな中、物を周囲に寄せ、明らかにスペースを確保して置かれる機械に目が止まった。まだ未完成のようだが、基盤と、頭に装着する装置の組み合わせとわかる。

 近付き、その複雑に絡み合う配線を追うともなしに眺めた。

(これは一体どういう装置だろう。)


 そのとき、外から引きずるようなサンダルの足音が聞こえて、扉が開く。

 私の姿を確認し、その機械の側にいることを見るや否や、暗がりの中にも関わらず、先生の顔がみるみるうちに紅潮していくのが分かった。


「近付くな!」

 ズンズンと私と機械を置く机の間に割り込み、

「離れろ!」

 と再び怒鳴った。


 突然のことに私は、血の気が引き、身を硬直させた。

「いえ、ただ見て――」

「関係ない! いいか、忘れろ! 忘れるんだ!」

 その獣のように血走った目が未だに脳裏に焼き付いている。


 その後、先生は研究室を去った。一説には追い出されたという噂もあったが、真実は分からない。ただ、その噂には続きがあった。次元を超える装置を完成させたと。そして、その名は――


 ◆


「丸山式次元跳躍装置。」

 呟くように言葉を発すると、私は、次元の歪みの前に、崩れるように座り込んだ。

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