第6話 ニンゲンとバケモノ
『おはよう、イリーナ。今朝はよく眠れたかな?』
スピーカーからの声に合わせて、ガラス向こうの見慣れた顔が微笑む。他の人間と比べて気さくなせいか、ドクターの前でだけは深く息ができた。
「ええ。夢見は相変わらずですけど……」
『そっかー。でも、いい夢だったみたいだね。いい顔してるよ』
いい夢、か。それなら内容も覚えていたかった。夢に見るほどの記憶ならなおのこと。
私は〈浄化期〉に一度覚醒し、再凍結されていたそうだ。機械のことはよく分からないけれど、〈
夢の断片情報から考えて、そのときのことを見ているんじゃないかとドクターは言う。
彼が担当医に変わってから夢の話をよくするせいか、以前より頻回に見るし目覚めたあとも忘れていない部分が増えてきていた。けれど、自分が体験したことという実感は一向に湧かない。特に、よく見るあの夢は。
額に口づける、私を
『嫌なことはもちろんとして、いい思い出も、何か強いストレスを受けるとボヤけていくものだからね。まぁ、ムリに思い出そうとはしないんだよ?』
満月のような瞳に射貫かれて、ふわりとした気持ちで頷く。
初めて会ったときにも感じたけれど、ドクターは他人のような気がしない。解毒の過程で色の抜けてしまった私の髪を見て、忌むでもなく「お揃いだね」なんて微笑んだのはこの所内で彼だけだ。
同じ人間なのに異物扱いされて。それでも、稀少な研究対象としてある程度は優遇されていて。常に監視されるストレスは、戦闘訓練で発散できるようになってからは少しマシだった。実戦投入されてから続いている深夜の出動要請にはウンザリしてしまうけれど。おかげでこの半年は昼夜逆転の生活だ。
『ねぇイリーナ。少しは楽しくなったかい?』
ドクターの、カウンセリング初日以来の問い。曰く「生きるのは楽しいか」というものだ。
誰かが生かしてくれたから今の私があることを思うと、すすんで死に寄ることはないものの亜人の血で染まっていく手を持つ身で楽しく生きられるわけもなかった。そんな日が来たとして、そんな資格が私にあるのかと悩むだけだろう。
「まだ、分かりません。……ドクターはどうですか?」
『僕? そうだなぁ』
そういえば聞いたことがないな。ただそれだけの気まぐれめいた問い返し。戸惑うかと思ったら、考えるそぶりはそこそこに、愉快そうに彼は答えた。
『僕はね、〝生きるって楽しい〟と思える日が、君に来るのを楽しみに生きてるよ』
ひどくキザな台詞だ。しかもウインクまでしてみせて、けれど嫌らしく感じるどころかむしろ心地よくさえ思えてしまう。つくづく不思議な人だとつられて笑った。
『それじゃあ、また明日。今夜も無事にお帰り』
今夜もやはり出動要請がかかった。動きが速くて何度も取り逃がしている亜人、としか前情報がなく、投げナイフを多めに仕込むことにする。
武器庫へ立ち寄ると、相変わらず嫌味な視線が向けられる。いっそ文句の1つも言えば可愛げもあるのに、私が退室してから飽きもせず陰口を叩き合うのだから気分が悪い。ここでの生活で心が安らぐのは、ドクターとの15分が唯一だった。
いつもより長い車両移動のあと、放り出されて指定のポイントまで森の中を走る。鳥の鳴き声が聞こえていたのは初めだけで、目的地に着くころには虫の声も静まりかえっていた。
連絡と聴覚
鞘ごと得物を撫でて緊張の糸をピンと張りつめる。視覚はまだ不要と目を閉じ、耳と肌で気配を探る。
身をつつむローブから覗く肌は青白い。だが、アンデッドにしては動きが軽すぎた。獣人と見まごうほどだ。
離れたら逃げられる。その一心で間合いを詰めては剣を振るい続ける。そのどれもが確かに当たっているのに、真芯を捉えた致命傷には至らない。
――焦るな、スピードには付いていけてる。虚を突けさえすれば、あとはいつも通りだ。
そこまで考えて違和感に気付く。反撃らしい反撃がない。隙は何度かあったはずだし、スピードが互角だというのなら一撃くらい深く見舞えてもいいだろう。
手負い? いいや、どこかをかばっている様子はない。ならば笛の効果が強く出ている?
理由はどうあれ、これが今出せる全力でないとすれば誰の手にも負えないことになる。亜人たちと直接対峙できるのは私だけなのだから。
世界の汚染は落ち着いたが、世代を経るごとに濃縮されて亜人たちの血は猛毒になっていた。毒素の薄い〈浄化期〉に浴びてでもいなければ、耐性がつく前に死に至る。
「――ッシ!」
絶えず続けていた攻撃の手を一旦止め、私から距離をとった。アンデッドの傷は着実に増えている。
片手剣だけでは
牽制で投げた初撃のナイフは爪に弾かれるも、追加のナイフは左腕に命中。続く斬撃は残念ながらローブのフードを裂くにとどまったが、距離を取らせるまいと繰り出した足払いだけは目論見通り決まる。
すかさず四肢を残りのナイフで地に縫い付け、首すじに剣を突きつける。倒れた拍子に
――
アンデッド種の瞳はどれもみな青く、赤い瞳を持つのは半ヴァンパイアのそれしかいない。話には聞いていたが相手にするのは初めてで、見つめていると吸い込まれそうで胸がざわついた。
「実に皮肉が効いていて滑稽だねぇ! もう少し義理堅い生き物だと思っていたのは俺の驕りだったか!」
唐突にターゲットが声を張り上げる。けれどそれだけで暴れる様子はなく、何の話をしているかは分からないが少なくとも私に向けたものではないように思えた。
ゆるりと落ちた沈黙を、ヴァンデッド自身がため息で破る。
「……まぁ、君に狩られるのなら本望か。最後に眺めるのがむさ苦しい男の顔なんかじゃ、君だって死んでも死にきれないだろう?」
今度は小声で話しかけられて戸惑う。命乞いをするような話の流れではない。狙いは何だ? それとも、この会話自体に何か意味があるのだろうか。
下手に亜人たちと言葉を交わすなと上からは言われているが、好奇心が首をもたげた。
「腐ってもヴァンパイアでしょう? 他の美人でも当たってくれないかしら」
「君だからいいんじゃないか。よりによってともまぁ思うが」
「……私を知ってる風な口ぶりね」
「いいや、君に似たニンゲンを一人知っているだけさ」
こんなときに頭がズキリと痛くなる。何も変なことは言っていないはずだ。ただ「ニンゲン」の部分がやけに引っかかった。
どこか懐かしい響き。何度も、何度も聞いたような……違う。そう〝呼ばれていた〟ような不思議な感覚。
「……バケモノ?」
自然と出た言葉もまた、口なじみがあってどこか懐かしかった。
ヴァンデッドの目が柔らかくなる。ツギハギだらけの知らない顔なのに、懐かしい
『沈め、深く深く。
ふいに耳に浮かんだそれは、前任ドクターの声だった。
痛い記憶も楽しかった思い出も無差別に消し去ろうとした試みと、私を都合のいい道具に仕立て上げるための
どうして気付かなかったんだろう、せっかく出会えていたのに。どうして見えていなかったんだろう、きっと守ってくれていたのに。
あれは本当に夢じゃなかった。心が覚えていて、忘れてしまわないよう夢にまで見ていたんだ。ずっと、ずっと。
「――あなた、バケモノよね?」
私の問いに動きかけた彼の口を手で止めた。どうせはぐらかすに決まっている。そんな優しい答えなんて聞きたくない。
スラリと剣を引けば彼の命が流れ出る。赤い筋をゆっくり作っていくそれを追って、私は首の付け根に噛み付いた。
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