第3話 夢なんて見られない

 ほんの少しのまどろみは、決まって見たくもない昔を私に見せつける。

 その女の子は、恵まれた環境に生まれたがゆえに不幸だった。形あるものは望まないものまで与えられるのに、形のない愛だけは得られない。孤独を知る少女に友人ができたのは、とても幸運なことだった。


 庭仕事の人手として雇われた中で一番若い男の子。歳は少女の二つ上。失敗ばかりでよく叱られていたし、不器用でケガも絶えない。それなのに彼の回りに人が絶えたことはないし、不注意で潰してしまったにさえ心配されていた。


『その花、スキなの?』

『べつに』

『じゃあ、どうしてそんなに愛されてるの?』


 少女の質問がよく分からなかったのか、彼は首をかしげる。けれど、あしらうでもなくジックリ考えた様子で答えた。


『相手にとって嬉しいことをいっぱいしてあげたから……とか』

『嬉しいこと?』

『そう。でも、だからって全部が必ず返ってくるわけじゃないよ』


 少し寂しそうな顔をした彼の気持ちは分からなくても、少女にも分かったことがあった。スキをそそがれても愛し返さなくていいし、愛されるためにスキをそそがなくてもいいのだと。


『手、だして』

『え? うん』


 ハンカチで彼の傷口をおおう。嫌がられても止めない。少女は、少女がしたいことをする。愛されるためでも愛するためでもなく、ただ、したいと思ったことを。


『わたし、イリーナ! あなたのお名前は?』


 そこでふつりとまどろみが遠のき、安堵した。これで続きを見ずに済む。

 ゆっくり、たぐり寄せるように私を取り戻してから目を開ける。明かり取りの穴から差し込む光は相変わらず弱々しいが、この明るさならまだお昼前だろう。


 吸血した日は必ず出かけ、夕暮れどきに帰ってくる。いつもそう。だから、それまでに戻れば大丈夫。


 おそろしい外見とは裏腹に彼は優しかった。食料として買ったと言っていたのに、向こうから触れてくることだってほとんどない。この血が不味いというのなら、催促したって吸血するはずがない。

 吸われている間、何度となく顔を盗み見た。普段は生気のない頬に、そのときだけはうっすら赤みが差していくことを知っている。コク、コクと小さく鳴る喉の音を聴きながら、こんな死に損ないでうるおわせる命があるのならそのまま吸い尽くしてくれたらいいのにとさえ思う。


 意識がうっすら残る間に額に触れる唇も、そっと耳に届く優しい声も私は知っている。返せなくてもいい。返らなくてもいい。ただ、私は彼にも――

「違うわ。名前で呼び合いたいだけよ」

 一人のときですら素直になれないなんて、私も成長しない。


 ただの一度も名前で呼びあったことはなかった。私が呼びたくとも「〝バケモノ〟で十分だ」と教えてくれない。他の呼び方も考えたけれど、事実、ぎだらけのその身を他に形容しようもなかった。

 長椅子の背もたれを掴んで起き上がる。と、その手に何かが触れた。見れば、大きめの蜘蛛が遠慮がちに脚を乗せている。


「おはよう、スライ。今日もよろしくね」

 彼は背伸びをして応えた。


 茶の入り混じった黒い毛色は変わらないが、季節の変わり目で毛の質でも変わったのか、ふんわりした触り心地になっている。初めは見ただけで叫んでしまうほど苦手だったのに今は背中を撫でられるまでになったのだから、彼の愛嬌と紳士ぶりには感心する。


 スライがくれた糸で髪を結い上げ、口布を巻いてからマントを羽織る。それからバケモノの寝床でゴロゴロ転がり回った。これで少しはニンゲン臭さとやらも誤魔化せることでしょう。

 蜘蛛の言葉も表情も分からないけれど、満足げに「ヨシ」と声を上げる私をどことなく呆れた目で見ている気がしないでもない。


 差し伸べた手に乗るのを待ってから、スライを左肩に移した。

 一人になっても帰り道が分かるよう光る石を要所におきながら、いつものように洞窟の外を目指す。奥に奥に枝分かれしているから、出るだけなら迷う心配がないのは助かる。


 数日ぶりに身に受けた風の香りにたかぶって、つい深く吸ってしまった。途端に始まる咳をうずくまって耐える。心なしか吐血量も多いみたいだ。息を止めて口のおおいをサッと厳重に巻きなおし、見晴らしのいい場所に移動した。


「よかった、まだ咲いてる」

 ふもとの湖をぐるりと囲む色をみとめて、胸が高鳴る。あれを摘みに行くのが今日の目的だ。


 目覚めてから一年を過ぎた。記念に、とは言わないけれど、いつ死を迎えてもいいように日頃のお礼を渡しておきたい。いくら生きることに興味がない私でも、自分のためにしてくれているあれやこれやに感謝もなく消えるつもりはなかった。

 フードを目深に被り、引っ越しのときに通った道をおりていく。あのとき未練がましく何度も振り返ったお蔭か、迷うことなく一時間も歩くと湖畔に続く抜け穴にたどり着いた。


 ――来たのは一度きりなのに、案外おぼえているものね。


 湖は切り立った崖に囲まれていて、バケモノによれば、ここ以外から歩いて行ける道はないらしい。そんな唯一の抜け穴を足取り軽くくぐり抜け、私は念願の花園へと至った。

 一面の白い花たちから歌が聞こえる。懐かしい香りが、前と変わらず口布ごしでも届いた。思わず「ただいま」と呼びかけてしまったけれど、気にするでもなく『おかえり』と温かく歌い返してくれる。


 スライを下ろしてから座り込み、花たちと語り合った。今日は空が明るいだとか、風が穏やかだとか、内容なんてその程度だ。こんな世になっても変わらない言葉に安堵し、またしても泣きたくなる。


 どうして私は生きているんだろう。それも、他の人よりもっとずっと恵まれた環境で。


 ぬるま湯に浸かるような生活が嫌だった。私にそんな資格なんてないのに、バケモノは大切に扱ってくれる。私のせいで死んでしまった、あの人と同じように。

 ときどき後ろ姿が重なって見えて、そのたびに首を振った。そんな上手い話があるわけない。仮にそうだったとしても、一体どんな顔をして詫びればいいのか分かるわけもなかった。


 黙り込んだ私を心配したのか、励ますように明るい歌が流れる。スライも蜜を吸い飽きたのか膝の上に戻ってきていた。

「大丈夫。きっとまだ死なないから」


 茎の長い花を選んで、十数本摘みとる。一度だけバケモノが連れてきてくれたときは何が悪かったのか一晩で枯らしてしまったけれど、逆さに吊せばきっとドライフラワーにできるはず。


 さよならを歌う花たちに別れを告げて、来た道を戻る。

 喜んでくれるだろうか。バケモノのことだから、それよりも先に絶対怒るだろうなぁ。想像して笑っていると、首がチクリと痛んだ。


「どうしたの、スライ?」

 脚で突かれたんだとすぐに気付いて蜘蛛の紳士に声を掛ける。腕にサッと移動したかと思うと、木に飛び移って糸で引き寄せられた。言葉は分からなくても、何か考えがあってのことなのは分かる。私はよろけながらも木に身を寄せた。


「っかしいなぁ。確かにこの辺で匂うのに」

 突然のことに心臓が跳ねる。バケモノではない低音。声のしたほうを覗き見た瞬間に捕らえられそうな、そんな緊張感に身がすくんだ。


「やっぱ気のせいじゃねぇのか?」

「そんなはずないッス。微かだけど、これは確かにニンゲンの――」

「オレにはサッパリだ。鼻じゃ敵わねぇなぁ」

「ハナだ」

「んあ?」

「――花の匂いがする」


 また糸に引かれて駆け出した。スライが視界の端で後方に飛んでいくのを見て声を上げかけるが我慢する。心配だけど、今は逃げなくては。

 しかたなく花を手放し、響いてくる怒声を背に何処へともなくひた走る。口おおいのせいで息が苦しい。足が何度ももつれかけ、よろけては転げるように前に進むものの、その甲斐はあまりなかった。


「ニンゲンみーっけ!」


 目の前に突然獣人が現れ、止まるのも避けるのも間に合わずにぶつかった。自分だけが弾き飛ばされ、立ち上がるより早く獣人が吹きつけた煙に巻かれる。

 急激な眠気に体の力が抜けていく。軽々と担がれ、運ばれる揺れがより意識を遠のかせた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る