第11話「鯉は新鋭へのぼる ⑥」


 角田かくだ先生は昼食ついでに買い出しも頼まれていたらしい。昼食をおごって頂いた分、荷物持ちくらいしたかった柊摩しゅうまだが、休憩時間が一時半までだったので学校に戻ることにした。


 受付に戻ってくると、そこには眞壁まかべさんが座っていた。二人が昼休憩をしている間受付業務を代わってくれていたのだ。

 感謝とねぎらいの言葉をかけて、これから昼休憩の眞壁さんを見送る。


 午前中に座っていた受付の定位置に腰を下ろすと、僅かばかりではあるが心が落ち着いた。

 それはまた可笑しな話である。慣れ親しんだ訳でもないくせ、座り心地も決して良いものではない普通のパイプ椅子。それでも安心感を覚えるなんて。


 休憩時間から業務時間になるということで、スイッチを切り替える必要があるとわかっていたからだろう。不甲斐ふがいなさというか狡猾こうかつさというか、自分自身を呪いたくなる。


 白波瀬しらはせはいざ受付業務が始まると、常の怪腕かいわんをふるって開場時よりも多い入場者をさばいていた。愛想よい微笑みも、気が利きすぎる親切さもたずさえて。


 繁忙期ぼうはんきがようやく落ち着いたのが午後二時半頃。

 再び、柊摩は漢字の勉強を、白波瀬は英単語の勉強を始めていた。


 とは言え両者共に勉強の進捗はかんばしくない。柊摩は最初の二、三名しか読み終えていないのに次の参加者名簿に進むあまりに杜撰ずさんな勉強をしていて、白波瀬は英単語帳を開いてはいるものの最後にページをめえくったのは随分前のことだ。


 学習速度が地の底まで落ちた原因は野崎のざき先生の一件が関係している。

 白波瀬は平生をつくろっているものの、内心はさびしくて仕方がないのだろう。


 恩師とあおぐ先生に出会ったことのない柊摩に、今の白波瀬の思いに共感することは難しい。けれど、恩師というのはそれこそ両親に近い存在なのだと柊摩は思う。そう言った人と、二度と会えない訳でもないのだろうが、おそらく会えないというのは辛く悲しい。


 そういった心境の白波瀬になんて声をかければいいのか、正直柊摩にはわからないのだ。


 白波瀬と話すようになってまだ間もない。白波瀬の多くを理解できていないのに、わかった気になって無遠慮で無責任なことを言いたくない。


 そうやって膨大な選択肢から様々な条件で絞り込みを行って、けれど見えてくるものは何もない。だからと言ってわからないなら仕方がないと安直に区切りをつけることもできない。


 それが今の柊摩だ。


 時間だけが平然と、刻々と過ぎていた。

 その間、せめて無為に過ごしているわけではないと否定するために、柊摩はまた一枚参加者名簿を読み上げたことにする。


 そうして開いた次の参加者名簿の一人目の名前を一瞥いちべつしたところで、パタンと白波瀬は単語帳を閉じた。

 柊摩が視線を上げると、白波瀬は校門の前で足を止めていた人に軽く会釈している。十数分ぶりの来場者だ。


「こんにちは」

「ええ、こんにちは」


 やってきたのはカーキ色のスーツを着た四十代くらいの男性。子ども連れというわけではなさそうだ。白波瀬の挨拶に柔らかい声音を返す。


筑川ちくがわと申します。招待状を頂いたのですが」


 そう言って筑川さんは手提げかばんの中から一枚のはがきを取り出した。こいのぼり祭りをするにあたって、主催者側が幾人いくにんかに招待状を送っているのだ。


 白波瀬はその招待状を受け取ると、宛先に記された名前と住所を来賓らいひんリストに記載されているか確認する。それから一秒と経たないうちに頷いた。


「お待ちしておりました、筑川様。こちら〝こいのぼり祭り〟の要旨となっております」


 言って、単語帳の下にまとめて置いてあるパンフレットを差し出す。それを筑川さんが受け取ると、もう一枚招待者用の案内書と〝来賓〟と書かれた名札を差し出した。


「本日、ご来賓の方向けの立食パーティが講堂にて開催されています。よろしければ、そちらの方にも足をお運びください」

「ありがとう」


 軽い会釈をすると筑川さんは案内書を受け取り、名札を首にかける。

 それから後ろに人がいないかを確認するように振り向くと、机の上に置かれた単語帳を見つめて続けた。


「シノニムですか。最近私もこの単語帳のすばらしさに気付かされたんです。失礼ですが高校何年生ですか?」

「二年生です」


 白波瀬が答えると、筑川さんはおおーと小さい声をあげた。


「それはすごいですね。もう後ろの方まで付箋ふせんが貼られている」


 唐突に褒められた白波瀬はどこか照れ臭そうにしながら言った。


「ありがとうございます」

「一生懸命勉学に努めるその行いは称賛に値します。これからも頑張ってください」

「はい」


 噛み締めるような返事をした白波瀬。それでよろしいですと言わんばかりの頷きを返した筑川さんは、今度は柊摩の方に視線を向けた。そして無言だった。


「がんばります……」


 これでも一時は漢字の勉強をしていたんだぞ、とはもちろん言えずに柊摩は身を縮ませて言った。


「ええ、がんばってください。では」


 それ以上のことは言わずに、筑川さんはグラウンドの方へ去っていった。

 その姿が見えなくなるまで見つめていた白波瀬は、それから柊摩の方を見てそれは楽しそうに告げた。


「是非、がんばってください」

「そのうちがんばります」


 ばつが悪く、一切視線を合わせずに柊摩が言うと、白波瀬は大きなため息一つ。


「はぁー。とりあえず今日は柴山書店でこれと同じものを買ったら」

「その気持ちは山々だが、財布にはあまり入っていないはずだ」

「朝、書店に行くって言ってたじゃん」

「本を買うとは言ってない」

「…………」


 言葉を失った様子の白波瀬。ここ数日の間で幾度いくどとなく白波瀬から言葉を奪っている柊摩は、とりあえず一つ返すことにした。


「それ、普通の単語帳とどう違うんだ?」


 聞くと白波瀬は一拍置いて、自慢げに話した。


「これ同義語とか類義語とかが集められた単語帳なの」


 言って白波瀬は冒頭のページを開いて柊摩に見せる。


「こんな感じで同じ意味を持った単語とか関連している単語が一覧になってて、それぞれ微妙な違いとかがあったりするんだけど、そういうのもわかる。あとはこっちの方がネイティブだよ、とかも書いてあって実践的」


 話しながらゆっくり捲ってくれるページには全てチェックや下線などの書き込みがあった。それらの書き込みが決して見づらくなっている訳ではなく、逆に読みやすくなっているのが驚きだ。


「あと英作する時とかも、むっちゃ便利。他の言語にも言えることなんだけど、言葉の僅かなニュアンスって結構大事で、一言一句丁寧に単語をつむげばその言葉はちゃんと相手に伝わるの。だから英語っていう言語をちゃんと使えるようになりたかったら、この単語帳を使うといいと思う」

「なるほど」

「聞いてる?」


 感想があまりに短すぎて、というか内容がなさすぎて白波瀬は不機嫌そうに言う。

 だが、その問いは杞憂きゆうだ。


「聞いてる、」


 正直その言葉を言うべきか迷った。けれど柊摩は、少し、その思いに触れてみたいと思った。だから。


「それも、野崎先生に教えてもらったのか?」

「……、うん」


 柊摩としてはそれなりに勇気が入った言葉だったが、それこそ杞憂で、白波瀬は純粋に嬉しそうに頷いた。


「中三の初めに英検二級をとって、次は準一級を目指そうかなって話をしたら野崎先生がこの単語帳をプレゼントしてくれたの。一緒に今の話をしてくれた」

「そうだったんだな。英検二級ってすげぇな」


 確か英検二級のレベルは高校卒業くらいだったはずだ。それを中学も卒業していないのに取得するのは驚きだ。


「うん。この単語帳はどっちかって言うと短期間で覚え込むって言うよりじっくり着実に覚えるって感じなの」

「最後まで完走できたのか?」

「そう。つい先日ね。そういう話もしたかった」


 だから今日、白波瀬は、単に単語を覚えるためだけではなく、頑張った証拠とその努力の話を野崎先生にするために、英単語帳を持ってきたのだ。

 その事実だけで、白波瀬が野崎先生にとっても会いたかったという気持ちが痛いほどわかる。そしてそれが叶わなかった悲痛も、胸をうずくほど感じ取れた。


「……辞められたのは残念だったな」

「うん。でも、すごい優秀な先生だったから、先生以外の職にも天職があったと思う」

「そうなんだろうな」


 何事も人並み以上にできるという人はまれにいる。

 どんな職についても相応に活躍できる分、多くの人から羨望の目を向けられ、声を掛けられるのだろうが、結局、最終的に自分が何をするのかはその人が決めるのだ。例え、それが最適職でなくとも、その人の意志をさえぎってはならない。

 それにそういう人は誰に何と口出しされようが、自分の意志を貫くのだろう。


「またいつか会えるとは思う」


 一転、白波瀬はほがらかに言った。まるで野崎先生のその選択を祝福するように。


「だから、その時に。今日話したかったことと、話せなかった今の思いも一緒に伝えようと思う」


 その願いは叶うと思う。叶ってほしいのではなく、叶うと思う。

 柊摩は確言するように、大きくうなずいた。

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