第9話「鯉は新鋭へのぼる ④」


 色鮮やかな約五百匹のこいのぼりが大空を泳ぐその光景は、壮観の一言だった。

 雲一つない蒼天そうてんは常に南西の風が吹き、大小様々な鯉のぼりは時にゆらゆらと、時に荒々しく揺蕩たゆたう。それが少年少女のたくましさや優しさ、純粋さに活発さを表しているようだった。


 これらの鯉のぼりは毎年近隣の小学校や一重咲ひとえざき中学校の学生が作ってきたものを用いているらしい。故に、どれひとつとってもこの世に二つとない鯉のぼりだ。

 そんな個性あふれるたくさんの鯉のぼりが泳ぐ下、グラウンドは数多くの見物客であふれ返っていた。それもこれから特大の鯉のぼりが揚げられるグラウンド中心、やぐら付近の人口密度は異常である。


 失礼しますと言って人の波を掻い潜る白波瀬しらはせの後ろを遅れないよう付いて行く柊摩しゅうま。ようやく先頭までやってくると、櫓の周囲を囲うように規制ロープが張られていた。

 そのロープの下を潜って内側に入る。櫓の周囲には柊摩と同じく〝STAFF〟の名札をつけた人が集まっていた。

 その内の何人かはこっちを見やって、白波瀬との邂逅かいこうに目を丸くする。ちなみに柊摩のことはどれだけ思い出しても記憶にないのだが、おそらく卒業生なのだろうという微妙な眼差しを向けてきていた。

 とりあえず目が合った人と社交辞令の会釈を交わしていると、三十歳前半くらいの長身男性が手を上げて、こっちにやってくる。


「白波瀬さん」

角田かくだ先生」


 この人が角田先生らしい。面長で、髪は長い方。長袖シャツを捲って半袖にしていた。柊摩は角田先生と軽い会釈を交わす。


「久しぶりだね。最近は、って世間話をしたいところなんだけど、手伝ってほしいことがあるんだ」

「はい。なんなりと」

「ありがとう」


 角田先生はこっちなんだと一言告げると、櫓に向かって歩いていく。その後ろを付いていく最中、白波瀬はほとんどのイベントスタッフと手を振って挨拶していた。

 柊摩にとっては、正直、やりづらい。毎回下手な微笑みをされるのが面倒である。そう言う柊摩の笑みもっているが。

 櫓の前に着くと、角田先生は振り返る。


「やってほしいことは鯉のぼりを揚げる力仕事。タイミングを指示されるから、それに合わせてなるべく同じペースで鯉のぼりを揚げてほしいんだ。えっと、」

しぎです」


 たぶん今日一日柊摩は、白波瀬以外の人からは一重咲中学の卒業生として扱われるのだろう。面倒なので、その認識を修正してもらうつもりはない。


「ああ、シギか」


 角田先生が思い出したシギではない柊摩だが、態々わざわざ恥をかかせる必要もないだろう。

 そう思って適当な会釈をしていたら、白波瀬はとがめるような視線を投げてきた。


「それで揚げる鯉のぼりは二種類。一方は櫓につけたポール。わかるか?」


 角田先生は目の前の櫓を指さして柊摩に問うた。

 櫓は二段構造になっていて、一段目が縦横六メートルほど、二段目は縦横三メートルほど。ポールは一段目の四隅と二段目の中央に立てられていた。


「はい。合わせて五本あるやつですよね?」

「そうだ。その五本に一番大きい二十メートルの鯉のぼりを揚げる。シギにはそれを手伝ってほしい。割と重くて女の子には大変だからな」

「わかりました」

「それで白波瀬にはもう一種類の方、規制ロープの内側に等間隔で並べられているポールに揚げる十メートルの方をやってほしい」

「了解しました」

「じゃあシギは櫓に上がってくれ。白波瀬は大園先生のところに行ってくれ」


 その指示を受けて、白波瀬は「はい」と返事してからこの場を後にした。その際、柊摩に相槌あいづちを一つうつ。おおよそ、じゃあねと言う軽い挨拶ではなく、角田先生の間違いを正しておけと言うことだろう。面倒だ。


 とりあえず柊摩は同じ相槌を返して、先に櫓に備え付けられた階段を登る角田先生の後を追う。

 柊摩が櫓の一段目に着いたところで、角田先生はスタッフに柊摩の紹介をしてくれた。


八重咲やえざき高校から助っ人で来てくれたシギだ。白波瀬の同級生だ」


 その言い方は語弊ごへいを招く。別に間違っていないのだが、おそらく柊摩が白波瀬の学年に絶対にいなかったと断言できる人以外はここの卒業生と勘違いする。


 おそらく角田先生は、自分が思い出せない柊摩のことを覚えていない先生も多いはずで、毎度この子誰みたいな視線を向けられる柊摩のことを気遣きづかってしてくれているのだろう。そのお心遣い痛み入る。

 けれど自分も理解できていない不確かな情報を周囲に言い触らすのは、あまりよろしくない。情けも過ぐればあだとなる、というやつだ。もっとも柊摩がその間違いを正していないのが悪いのだが。


 おかげさまで事態は次第に大きくなり、面倒さが増している。

 あまりに面倒で、柊摩は自分も勘違いしている人間の一人になることにした。


「鴫です。よろしくお願いします」


 軽い自己紹介と挨拶を口にすると、その場にいた三人のスタッフは口々によろしくと返してくれた。


「シギには北側の鯉のぼりを揚げてもらう。揚げる速度は僕のを見ながらやってくれればいい。ぶっつけ本番だが、大丈夫だろ」


 全然大丈夫ではない。と言うことでいくつか質問をすることにした。


「鯉のぼりを揚げるのはこのロープを下に引っ張ればいいんですか?」

「そうだ。それと、ロープには三十センチ毎に黒色の印が付いているから、それを基準に半秒に一回引っ張ってくれ」


 その説明をしてもらうのとしてもらわないのとでは、揚げる時やり易さがかなり違う。他にも色々話していないことがありそうだ。


「それと、鯉のぼりを一番上まで揚げたあとはどうすればいいですか?」

「それなら、ポールについているフォックに掛けてくれればいい。結ぶのは僕がやるから、それまでは一応ロープを持っておいてくれ」

「わかりました」

「おっと、そろそろ時間だ」


 言うと、角田先生は口元に人差し指を立てた。

 他にも知っておけば安心できる話もあるのだろうが、仕方がない。腕時計をちらっと確認すると、時刻は十一時五十九分。あと一分もしない内にメインイベント開始時刻だ。


 その開始時刻に合わせるように、櫓に三人の男性が上ってきた。

 会長あるいは理事長または校長、その辺りの高い地位にいるだろう人を筆頭に、幹事クラスと若い人と言っても四十歳くらいの人が一段目を通り越して、二段目まで上る。

 すると騒然そうぜんとしていたグラウンドが次第に静寂せいじゃくに包まれた。


「本日は学校法人菊咲きくさき学園主催、第八回こいのぼり祭りにご参会いただき誠にありがとうございます」


 ハリのある声がマイク越しに響く。

 おそらくさっきの一番若い人が話しているのだろう。その声が続く。


「それではお待ちかねのメインイベントを開催します」


 その言葉を最後に前置きは終わったらしく、マイクスタンドの高さを調整しているらしい厚みのある振動音が聞こえてくる。

 二、三秒ガタガタ言っていたマイクは、一呼吸に続けて、僅かにかすれた低い声を伝えた。


「特大こいのぼり掲揚けいよう


 いや、掲揚て。荘厳そうごんな。

 国旗じゃあるまいし、と内心で突っ込んでいると隣から潜め声で「シギ」と呼ばれた。

 そっちを見ると、角田先生が鯉のぼりの口に繋がったロープを引っ張っている。

 慌てて柊摩もロープを引っ張った。


 ポールの高さはおよそ十メートル。すでに揚がっている五百匹の鯉のぼりが地上五、六メートル上空を泳いでいるのに対し、特大鯉のぼりは櫓の高さを加えた地上十二、三メートル上空に揚がる。かなり高い所だ。

 言われた通り半秒に三十センチのペースで鯉のぼりを揚げていく。実際にやってみると、かなりハードだ。自分の筋力不足延いては運動不足を感じながら、単調に揚げ続ける。


 鯉のぼりが頂点に近付くにつれて、ロープを引っ張る際に用いる力も増していく。それは単純に地面から離れた鯉のぼりの質量だけでなく、上空で吹き荒れる風の威力も加わっていた。


 かなりきつい。

 次第に大きくなる観衆の歓喜を、自分の声援だと思うことにした。

 それから鯉のぼりの現在地を見上げることは止めて、と言うよりそんな余裕が無くなって、只管ひたすらロープを引っ張り続ける。するとその歓声が一際大きなものになり、同時に多大な拍手が溢れ返った。


 鯉のぼりが頂点に到達した、というのはこれ以上引っ張れないという実感をもって、誰よりもその感慨がんがいひたった。

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