第8話「鯉は新鋭へのぼる ③」


 時刻は十一時半を少し回った頃。


 開場されてから一時間ほどが経過して、開場直後の忙殺ぼうさつ地獄は緩和されていた。

 忙殺とは言え、白波瀬しらはせの驚異的なスペックの上では混乱や問題はほぼ起こらず、加えて受付業務のほとんどをやってしまうから、柊摩しゅうまの作業量は全体の三割ほどだ。

 ここ数日で白波瀬の心証しんしょうに修正を加えていた柊摩だが、先ほどからその優秀さに驚嘆きょうたんし続けていた。


 タイムスケジュール上では十二時からメインイベント〝特大こいのぼりを一斉に揚げる〟が始まる。すでにグラウンド上には約五百匹のこいのぼりが大空を泳いでいるが、メインイベント以降はより大きな二十メートルの鯉のぼりが五匹、十メートルの鯉のぼりが二十匹追加されるらしい。


 その光景は想像するだけでも圧巻だ。それを実際、間近で見られるのだから実のところ楽しみでもある。

 時計を見ると、十二時まであと二十五分。一旦、タイムスケジュール表は八つ折りにしてポケットの中に仕舞う。


 さて、暇だ。


 人が来なければやることがない。人が来ても白波瀬が対応すればやることがない。そしてほとんどは白波瀬が対応してしまう。柊摩がやることは「こんにちは」と言う白波瀬の声を聞くくらいだ。

 とは言え、白波瀬もまた暇なのは一緒らしい。ちゃっかり英単語帳を持参していた。


 けしよってとは思わなくもないが、ここまでの白波瀬の活躍ぶりに免じて胸に納めておく。


 それにしても白波瀬の優秀さは元々の素質からだけではなさそうだ。こういう隙間時間に勉強をしているあたり、結構努力をしているのだろう。


 優秀とか天才とか、そんな言葉を誰かに向ける人は多いが、そんな言葉を向けられる人は極少ない。それはその言葉の秀抜しゅうばつさや特別さ所以ゆえんなのだろうが、向けられた人は多くの羨望せんぼうとともにその重圧を背負うのだから大変だ。


 白波瀬は大勢の前で見せる努力の他にも、人知れず努力しているのだろう。

 本当にすごいな――と感心している柊摩の視線に、白波瀬は気づいた。


「なに?」


 普段ならなんでもないと答えるのだろうが、受付作業の大半をやってくれたお礼も言いたかったので、別の言葉を口にしようと考える。

 その結果二、三秒の沈黙が生まれたので白波瀬は首を傾げた。


「それ、」


 とりあえず出てきた言葉はそんなものだ。

 自分の会話レベルの低さに落胆しながら、これのことと言わんばかりに白波瀬が示してくれた英単語帳を見やって、柊摩は頷く。


「その単語帳、学校のやつじゃないよな」


 学校の教材として配られた単語帳と比べて倍の分厚さ、ページ数にして五百ページくらいの単語帳。よく見ると角がっていたり、まばらに貼られた付箋ふせんが前と真ん中と後ろで異なっていたり、かなり使い込まれているものだと推測できる。

 白波瀬はうなずくと、どこか感慨かんがい深げに告げた。


「中学三年の夏頃から愛用してるの」

「へぇ、高校受験で使ったのか?」


 自分でそう言ったものの、白波瀬は一重咲ひとえざき中学出身なのでおそらく八重咲やえざき高校には内部推薦すいせんで入学したはずだ。つまり高校受験をする必要がなかったはず。

 まぁ白波瀬の場合、他の私立高校を併願へいがんで受けて自分の実力を試した可能性も大いにありえるが。


「私高校受験はしてないの。内部推薦で八重校に上がれたから」

「やっぱりそうか」

「やっぱりって。これは中三の時の英語の先生、野崎のざき先生って言うんだけど、野崎先生にもらったの」

「もらった? すすめられたじゃなくて?」


 学校の先生にどの教材がおすすめかを聞くことはあり得る話だが、教材をプレゼントされることは滅多に聞かない話だ。

 聞き返すと、けれど白波瀬は同じ語調で言った。


「もらったの」

「それは、」


 クラス全員と言う訳でもないだろう。おそらく優秀な生徒に渡したということなのだろうが、そんなことをすれば他の生徒からあまり快く思われない。それでも渡したということは、よっぽど白波瀬は勉強熱心で頑張っていたのだろう。


「すごいな」

「うん」


 白波瀬は満足げに微笑を湛えると、楽しそうに思い出話を口にした。


「他にもいろいろもらった。本とかペンとか、目に見えるもの以外も効率のいい勉強法とか英語以外の言語とかも。年が近かったからすごく話しやすくて、私も色々話して、それより遥かに多くのことを教わった」

「へぇ良い先生だな」

「そう。一番嬉しかったのは、生き方の一つを教えてくれたことかな。本当に良い先生」


 豊富な知識に加え、優しさや熱心さ、真剣さというのを野崎先生はたずさえていたのだろう。

 中学生に何から何をどれだけ教えるのかは先生の自由だ。けれど、生き方を教える先生は滅多にいない。おそらく白波瀬が口にした生き方というのは、人生の経験話を数回した程度のことを指している訳ではないのだろう。


「もしかして、白波瀬の恩師はその野崎先生なのか?」

「そう。よくわかったね」

「まぁ会いたそうに話してたからな」


 四桁同士の足し算をするよりかはわかりやすかった。

 理由を話すと、白波瀬は恥ずかしそうに頬を染めた。その様子を柊摩が目を細めて見ていると、視線に気づいてじっと睨んできた。


「会えるといいな」


 誤魔化すように言うと、白波瀬は小さく頷いてから内なる思いを言葉にした。


「話したいことがいっぱいあるから、会えると嬉しい」




 †††




 それからしばらくして、柊摩は今、漢字の勉強をしていた。

 あまり長話をして白波瀬の勉強時間を奪うのも申し訳ないし、そもそもそんな上級会話スキルを柊摩が身に付けている訳がないので、各々が自分の作業に戻るのは当然の帰結である。ペラペラと心地良く単語帳のページをめくる音が聞こえる中、再び暇になった柊摩は参加者名簿に書かれた人名漢字をああでもないこうでもないと推測しながら順に読み続けていた。


 手隙の時間に勉強をする。柊摩にとっては人生初めてのことだ。

 もっとも白波瀬ほど殊勝しゅしょうな理由でやっている訳ではないので、三日坊主はおろか今日限りで人名漢字の勉強は仕納めだろう。


 そんな感じで一ページあたり三十人の名前が書かれた参加者名簿を三枚ほど完遂かんすいしたところで事務の眞壁まかべさんがやってきた。


「お二人ともお疲れ様」


 その手には二本の傾向けいこう飲料水いんりょうすいがある。


「眞壁さんもお疲れさまです」

「お疲れさまです」


 そう言えば家を出てから一切飲み物を口にしていない。四季の上では五月は春だが、春は春でも夏よりの春。それに今日五月五日は立夏。こよみの上では夏の始まりだ。

 気温も昼に近付くにつれて熱くなっている。屋外とは言え日陰に居て、時折強い風が吹く分体感は涼しい気候であるが、脱水症には気をつけなければならない。


「これ差し入れ。受け取ってもらえる?」


 そう言って渡されたアクエルアスを柊摩はありがたく頂戴した。

 一口飲もうかと思ったが、ポーチの中に仕舞った白波瀬にならって柊摩もかばんの中に入れる。


「これからメインイベントが始まるのだけど、お二人にはそっちの手伝いをしてもらいたいの。その間、私が受付をしておくから」

「了解です」

「場所はグラウンド中央の櫓に行ってくれる? そこに角田先生がいらっしゃると思うわ」

「わかりました」


 白波瀬の返事に続いて、柊摩も首を縦に振った。

 時計を見ると時間は十一時四十三分。グラウンドには二分もあれば到着する。

 すると同じく時計を見ていた眞壁さんがスマホを取り出して、白波瀬に言った。


「赤ちゃん見る?」


 瞬間、ぱぁっと顔を輝かせて白波瀬は大きく頷いた。


「見ます!」


 白波瀬は受付台をまわって、眞壁さんの隣に立つ。それから柊摩に手招きした。

 柊摩は白波瀬とは逆まわりにまわって、眞壁さんの隣に立つ。その間に準備ができたらしい、眞壁さんはスマホをやや水平にして見えるようにしてくれた。


「ほら、可愛いでしょ」


 言ってスマホの画面に表示されたのはハイハイしている赤ちゃんの動画。真っ白で柔らかそうな絨毯じゅうたんの上を穴あきボールを手につんいになってっている。その覚束おぼつかない動作が微笑ましくて、とっても可愛い。

 白波瀬は胸に溢れた思いを爆発させた。


「めっさカワイイッ!」


 凝然ぎょうぜんとスマホ画面を見つめる白波瀬。


「まって、かわいすぎる。やば~~~~。やばい」


 三十秒ほどの動画はまたたく間に終わってしまい、白波瀬は物足りなさそうに言葉を重ねた。


「これっていつ頃ですか。名前は何て言うんですか?」

「名前は陽祐ようすけ。その動画は今年の二月くらいかな。だいたい八カ月くらい」

「今の陽祐くんの写真ってあります?」

「ちょっと待ってね」


 言って、アルバムをスクロールする眞壁さん。

 白波瀬は今の気持ちをとにかく伝えたいらしく、柊摩の方を向いて言葉を弾ませた。


「やばくない? むっちゃかわいいんだけど」

「そうだな。かわいすぎるな」

「めっちゃ赤ちゃん欲しい」

「…………」


 別に深い意味がないことはわかっているのだが、返答に困る柊摩。興奮している白波瀬は全く気にした様子なく、まくし立てた。


「どーしよう。やばい。かわいい。かわいすぎる」


 最近の陽祐くんの写真を見つけてきた眞壁さんが、これこれと言って見せてくれる。


「かわいい……やばい……やばい、」


 だよね、と言わんばかりに視線を向けてくる白波瀬。柊摩はうんうんと頷く。

 それから眞壁さんが一枚ずつ写真をスライドするたびに白波瀬はほぼほぼ悲鳴のような声を上げ続けた。


「おにかわ。やばい。陽祐くんかわいすぎる!!」


 さきほどから白波瀬は、やばいとかわいいしか言っていない。

 普段の怜悧れいりさからは信じられない壊滅的な語彙力ごいりょく。だが、その声音は千差万別で、毎回違う響きが帯びていた。


「おっと、もう五十分だ。そろそろ行かないとマズいんじゃない」


 たぶん誰かが止めなければ延々と続いていただろう陽祐くんの写真展。止めてくれたのは眞壁さんだった。

 名残惜なごりおしそうに白波瀬が言う。


「そうですね。じゃあ行きます」


 眞壁さんは嬉しそうに微笑んだ。


「また見せてあげるよ」

「はい。また見させてください」

「ありがとうございます」


 柊摩は礼を述べて、白波瀬と共にグラウンドへ向かった。

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